十月二日 ガンジーの誕生日
インド独立の父として教科書に掲載される
明治元年(一八六九年)十月二日、インド北西部グジャラートで生まれた平民の子だ。カースト制度の第三階層(実際は八百を超えるという説もある)で金勘定を生業とする身分だったらしい。
幼少期、インドがイギリス領化していく様を見て育ったガンジー少年はイギリス留学を経て弁護士となったが、当時のインドでは一度国を出た者はアウトカースト扱いとなったそうだ。国に戻ったガンジーには故郷がなくなっていたのである。
食い扶持もままならない頃、南アフリカから仕事が舞い込む。
喜び勇んで向かう先で待ち受けていたのは白人至上主義による非白人への凄まじい差別と暴力だった。
「列車からポイ」事件はこの時のことである。
それでもまだ、この時のガンジーには一種「大英帝国民」であるアイデンティティーの方が勝っていたようだ。
南アフリカで勃発した第二次ボーア戦争(実態はオランダ VS イギリスの場外乱闘)などではかなり積極的に戦線に赴く「暴力」容認派だったことが窺える。
しかし、この地での経験はガンジーを徐々に変えていった。
現地人による「反乱」とそれを「鎮圧」する行為の実態は、白人による徹底的な現地人(及び非白人)の弾圧であり、非人道極まりない収奪の限りであった。それは祖国インドも同じことである。
大英帝国民とか言ってる場合じゃなかったわ。
「どげんかせんといかん!」
その憤りから常人離れした行動力を起こしたガンジーは南アフリカでの差別撤廃を一度は政府に容認させる。
(その後、白人国家の逆襲と言わんばかりにアパルトヘイトが横行するのだが……)
しかし実績は実績だ。
南アフリカでの成功体験は祖国インドにも轟く偉業の一つであったことに違いはない。インドに戻ったガンジーは政治家としてインド統一と独立に向けて奔走することになる。
しかし、「法」のありようを訴えればよかった南アフリカとは違い、インドは宗教、言語、文化が多すぎて思想的にも大変こんがらがった複雑な国だ。
当然、一筋縄ではいかず、結論から言うと生前ガンジーはインド統一も独立も成し得なかった。
それどころか同じヒンドゥー教徒に裏切り者扱いをされた挙句、暗殺された。(ガンジーの死によってカースト至上主義が若干でも下火になり、他言語、他宗教、他民族をまとめる「ガンジー思想」によるインド統一が現実味を帯びた)
何度逮捕されようが、イギリスの
元々は血の気が多く暴力的な側面を持つガンジー青年が「非暴力(しかし≠無抵抗主義)」による意思表示と
「行動せよ、さもなくば死ぬ」——当時の白人世界を敵に回し、混乱期の祖国で分裂する自国民(ただし他民族)が敵に回り、そんな状況で逃げるでも私服を肥すでもなく身ひとつで行進し続けたガンジーの言葉だからこそ重い。
ガンジーが聖人かどうかは諸説鑑み意見が分かれるところだが、力尽きるまで行動し続けた生き様には何かしら学ぶものがあるというものだ。
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