九月二十一日 賢治忌(宮沢賢治の命日)

 カクヨムに身を置く以上、無視をしてはいけない日、その十一。

「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」「風の又三郎」「春と修羅」「雨にも負けず」等々——枚挙にいとまがない、教科書にも掲載される宮沢賢治の遺した作品の数々は軽く二百を超える。


 こんにち、知らない人は居ないだろうと思われる有名な日本の詩人であり童話作家である宮沢賢治だが、生前、彼の作品はどれも殆ど世間に知られていない無名の作家であった。

 一部、同業者(詩人や作家たち)は彼の才能を高く評価していたが、世間の反応は殆ど無に等しかったようだ。


「春と修羅」「注文の多い料理店」などは賢治自身の自費出版だが、それでも売れなかった。それどころか、書店に並ぶ前に古書店にまとめて流されていたこともあるらしい。今では考えられないぞんざいな扱いである。

 独特な世界観、童話と呼ぶには小難しい哲学的内容、耳馴染みのないオノマトペに彩られた賢治作品は、現代の我々が読んでも一切色褪せず、むしろ尚、時代の先端を走っているような感覚がする。(個人の主観)


 そんな賢治は明治から昭和の初期を生きた作家であり、教師であり、農業家である。

 岩手県稗貫ひえぬき郡里川口村(現、岩手県花巻市)で、質屋・古着屋を営む当時としては比較的裕福な家庭の長男として生まれたのは、明治二十九年(一八九六年)のことである。


 しかし、賢治自身はどうも実家の家業は好きになれなかったようだ。

 確かに、自然大好き派で無垢なまでに心優しい性分である賢治には、カネのない人たちがなけなしの財産を換金に来る姿と、それに応対する父親の姿は見るに耐えない光景だったのかもしれない。

 しかし一方で、そのおかげで賢治は小学校のみならず盛岡高等農林学校(現、岩手大学農学部。当時は官立の専門学校だった)まで進学し、専門性の高い学問を修めることができているのも事実だ。(ただし、優秀であったため後半は授業料を免除されていたらしい)


 そんな賢治は「屠殺される動物の悲鳴」がトラウマになり、かなり厳しい具類の菜食主義者でもあった。現代でいうところの「ビーガン」というやつだ。


 また、十代の頃から日蓮宗の法華経(誰でも救われ仏になれる=人はみんな平等に成仏できるという考え方の宗派。南無妙法蓮華経を唱えるよ)に傾倒している。

(ちなみに賢治の実家は浄土真宗。基本的な考え方=誰でも極楽浄土に行けるは共通しているが、こちらは南無阿弥陀仏を唱えるよ)


 ばっくりまとめると非常に仏教に親しんでおり、その影響は賢治作品に色濃く反映されているところが興味深い。一般的に宮沢賢治と言えば「何か小難しい童話」と感じられるのも、この辺りに起因しているのかもしれない。


 賢治は学校卒業後、研究生を経てのち一度上京(家出)して文筆で生計を立てることを試みている。ついでに法華経布教活動にも勤しんでいる。

 売れないまま、妹が病気になり実家に戻ることになった。(妹は翌年亡くなっている)


 大正十年(一九二一年)の暮れ、農業学についての教鞭をとるようになる傍らも賢治は数多の作品を執筆し続けている。

 あまり体は丈夫でなかったが、教師を辞め自給自足の農業と療養生活にある最中も農業振興に勤しみ多くの相談を受けていたというから、死の直前まで「人のために尽くす」その素朴な人柄と優秀さは周知されていたことだろう。


 しかし、賢治は依願退職した三十歳を過ぎたあたりから確実に弱っていく。

 有名な「雨にも負けず」は昭和六年(一九三一年)没する二年前に執筆したものだ。この時には、自分はもう長くないことを薄々悟っていたらしい。

 昭和八年(一九三三年)九月二十一日。

 もうすぐ昼になろうかという頃合い、南無妙法蓮華経を唱えながら喀血かっけつした賢治は午後一時半、実家の二階で静かに息を引き取った。

 直接の死因は急性肺炎、享年三十七歳という若さであった。

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