九月十九日 アイスマンが発見された日

 イタリアとオーストリアの国境を跨ぐアルプス山脈の渓谷、エッツタールをたまたま観光で訪れていたとあるドイツ人夫妻が、氷に埋まったミイラを発見した。平成三年(一九九一年)九月十九日のことである。

 発見場所から「エッツィ」という愛称を付けられたミイラだが、欧米諸国では通称「アイスマン」として大いにメディアを賑わせた。


 当初は滑落した登山者(遭難者)だと思われていたが、何だかおかしい。

 何がおかしいかというと、アイスマンの周辺から一緒に見つかった品々が、どうも現代のものじゃないようだ。

 というわけで、オーストリアで有名な考古学者に発見物を見てもらったところ、何と紀元前三三〇〇年ごろ——およそ五三〇〇年前のヨーロッパ青銅器時代のものであることが判明した。

 アイスマンは遭難者ではなく、とてつもないご先祖さまだった。


 そして発見場所を厳密に計測したところ、若干イタリア国内に位置していたため、アイスマンはイタリアへ引き渡され、詳しい調査を待ちながらマイナス六度、湿度九九パーセントの冷凍庫で、時折水分補給をされながら大事に保管されることになった。


 そして調査の結果、推定年齢アラフィフ、茶髪に茶色い目を持つ白人男性で、身長およそ一六〇センチ、そこそこムキムキおじさんであったことが判明した。

 ちなみに、腰痛持ちで、(因子的に)牛乳が苦手で、ピロリ菌にも感染していたらしいことまで暴露された。


 肝心の死因であるが、発見場所から長らく凍死であると考えられてきた。

 貴重な資料を破損する恐れがある、という理由から解剖が許可されなかったのだから仕方ない。

 しかし二〇〇一年にX線検査(いわゆる非破壊検査)を実施したところ、左肩に大動脈を損傷する形で矢尻が残っていることが判明した。

 さらに詳しく調査したところ、右眼窩には骨まで達する裂傷、そして頭蓋骨には直接的な死因となったであろう大量の失血痕が見つかった。


 アイスマンは戦争か何かに巻き込まれ(あるいは戦士として戦い)、飛び道具による攻撃を受けたのち、鈍器で頭部を殴られトドメを刺されたと考えられる。

 周辺からは矢柄は発見されておらず、おそらく折って持ち去ったのだろう。

 当時の矢は見ただけで「それが誰のものか分かる」というある意味、名札か名刺のようなものだったらしい。


 胃の内容物から、殺されたのはおそらく春ごろ。そして装飾品などに付着していた植物の痕跡から、発見場所には夏から夏の終わりにかけて運ばれたのだろうと推察されている。

 雪解けを待って標高の高い場所に埋葬されたと考古学的には考えられるそうだ。

 アイスマンの壮絶な人生の一端が窺える発見だった。


 現在、ご本人は貴重な研究資料として内臓から何から丁寧に取り出してそれぞれ保管されているそうだが、代わりに精巧なレプリカが世界中の展示会や博物館をハシゴして、外貨を荒稼ぎしている(言葉が悪い)。

 平成十七年(二〇〇五年)には愛・地球博の一環行事として来日しているアイスマン(レプリカ)である。五三〇〇年の眠りから覚め、死してなお勤勉に働く元ムキムキおじさんだ。


 そしてもっと驚くことに、平成二十五年(二〇一三年)にアイスマンの持つ性染色体の配列を調査し、子孫が存在しているか調べたところ、同じ配列を持つオーストリア人十五名が発見されている。

 研究結果としては、アイスマンの子孫である可能性が非常に高いという。

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