九月十四日 生麦事件が起こった日

 幕末期。武蔵国橘樹たちばな郡生麦村(神奈川県横浜市鶴見区)で外国人を相手にした刃傷事件が発生した。

 薩摩藩のリーダー的存在である島津久光パパ一行(四百名ほどの団体様)が江戸での用事(幕政改革)を終え、東海道を通って帰路についていた時に事件は起こる。


 一行の行手を外国の騎馬勢が何の気無しに押し通った。

 主にアメリカで成功したクチのイギリス人商人とその妻たち、そして上海で財を成したイギリス人商人(観光目的で来日)である。どうやら東西をつなぐ大動脈、東海道で乗馬を楽しんでいたらしい。

 一行は「下馬して道を譲れ」と日本語で言い、イギリス勢は日本語を理解しなかったが故の悲劇だった。


 観光目的とはいえ、文化風習にも無頓着だったのだろう。彼らは騎乗したまま道幅いっぱいに広がり、一行の列を堂々と裂いてすれ違う。

 そして無謀にも久光パパの乗る駕籠かごの近くまで寄ってしまった。


 そこでようやく「あ、これアカンやつかも……」と薄っすら気付いて馬首を返そうとする。

 しかし周囲には殺気立つ男たちがひしめき、道幅いっぱいに広がって闊歩していた馬が、ここで素直に「回れ右」をできるわけがない。

 あたり構わず動き回る様は無遠慮そのものであったという。


 結果、供回りの薩摩藩士たちが抜刀し、過たず無礼打ちにしたため、上海在住イギリス人が深傷をおって死亡した。他の二名の商人も怪我をしたが命に別状はなく、ご婦人方も無事だった。

 しかし当然ながら、外交問題に発展する。

 アメリカ領事館、イギリス公使館(その他ゆるっとフランス公使も巻き込んで)、殺人犯を寄越せと詰め寄ってくるので、幕府は対応に苦慮してグダグダの判断をしてしまう。


 一応、被害者がいるので賠償金を支払い手を打とうとするのだが、薩摩藩は頑としてこれを突っぱねた。逆に、「犯人は逃亡して行方不明」とだけ返事する。

 とりつく島もない薩摩藩と外国勢との板挟みにあった幕府は、とうとう薩摩を政略的に切り捨てた。

「薩摩藩が勝手にやったことやし、わてら知らん」

 幕府の苦労もある意味分からなくはないが、これきっかけで薩摩は幕府に対して不信感を確実に募らせていくことになる。


 そして、幕府がサジを投げた結果、イギリス勢は「ほな、こっちで勝手にさしてもらいまっさ」と薩摩に直接交渉を持ちかけるも決裂し、ならばと戦争を仕掛けるのである。(薩英戦争)


 相手はイケイケどんどん絶頂期を迎えていた俺様何様イギリス様だ。

 当時の薩摩相手では、例えるなら戦車と三輪車くらいの武装差があったが、大損害を被りながらも薩摩も粘ってイギリス艦船を鹿児島湾から追い出す根性を見せている。

 最終的には賠償金を支払わされる羽目になるのだが、「犯人」については最後までのらりくらりと引き渡しを拒否し続けた。


 ふと、思うのだ。

 これが逆の立場だったら、外国勢のミナサマはどう思うだろうか、と。


 女王陛下に進言できるような立場の爵位を持つ貴族のパレードに、外国から来た観光客がきゃっきゃうふふしながら、こちらの制止を聞かずに乗馬スタイルで突っ込んできたら……どう考えたって、その場で撃ち殺すだろう、側近SPが。


 不運に不運が重なった痛ましい事件ではあるのだが、どうしても同情より「人の振り見て我が振り直せ」がまさってしまう。(あくまでも個人的に)


 これが、文久二年(一八六二年)九月十四日に起きた外国人殺害事件——いわゆる「生麦事件」である。

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