八月三十日 マッカーサー元帥が日本にやって来た

 ダグラス・マッカーサー陸軍元帥といえば、戦後日本でもっとも有名な米軍人の一人ではなかろうか。

 咥えコーンパイプにレイバンのサングラス、そして微妙に斜め被りのフィリピン軍帽(服装規定違反)スタイルで横浜・厚木基地に降り立つ姿はあまりにも有名だ。


 昭和二十年(一九四五年)八月三十日のことである。

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のトップとしてやって来た。


 マッカーサーの名前のとおり、アメリカ人だがそのルーツはイギリス・スコットランドにある。(伝統的な身分の高いスコットランド名はMc+姓という綴りが多い。マッカーサーも正式な綴りはMcArthur ——マクアーサー氏である)


 スコットランド王ロバート一世とともにイングランドに対して果敢に戦った貴族の末裔とされている。(この辺りの血みどろ歴史は映画「ブレイブハート」を見ると分かりやすい。あくまでも史実に基づいたフィクションだが)


 その後、お祖父さんの代でスコットランド内の領土紛争に敗れ没落したのち、渡米したもようだ。

 余談だが、お祖父さんもお父さんもお兄さんも(のちの自分の息子も)皆「アーサー・マッカーサー(マクアーサー)」である。名前を呼んだら一族男子がこぞって振り返る、イギリスお貴族様あるあるである。(ダグラス少年は三男坊)


 渡米してのち、一家は南北戦争、西部開拓時代を経て精力的にアメリカ国内を大移動している。根っからの軍人一家だ。父親は順調に階級を上げていき、当時スペイン植民地であったフィリピンへと転属になる。(その後、割譲されたフィリピンは第二次大戦後独立するまでアメリカ植民地である)

 ここからマッカーサー家とフィリピンに繋がりができたと言って良い。


 陸軍士官学校で学んだダグラスもその後、アメリカ陸軍第三工兵大隊所属(いわゆる軍人エリートコース)となり、フィリピンに配属される。


 一家は明治三十八年(一九〇五年)に日露戦争の観戦任務で来日しており、この時に東郷平八郎ら士官級とも面談している。

 その後、中国・東南アジアを経由しインドまで半年以上をかけて軍事基地の視察を行っているのだが、これらの経験はダグラスののちの軍歴に大きな影響を与えているという。

 そして、これらの経験を通して第二十六代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト(当時)から第三十二代フランクリン・ルーズベルトまで覚えもめでたい軍人として頭角を表していくわけだ。


 余談だが、関東大震災発生時(一九二三年)には、ダグラスはフィリピンから救援物資を日本宛に送っていたりする。


 時に最年少記録を更新しながら順調に昇進していくダグラスは、米本土とフィリピンを行ったり来たりしながらフィリピン生活を続けている。

 当たり前だが、初めから日本に対して敵愾心を持っていたわけではないというのが良く分かる。むしろ、日本という国と日本人に対して、当時のアメリカ軍人にしてみれば寧ろ造詣が深かったと言っても良いのかもしれない。


 ルーズベルト大統領の覚えは非常にめでたいダグラスであったが、終戦時の大統領トルーマンには異常に毛嫌いされていたそうだ。

 トルーマンは半強制的にダグラスを退役させて、別の人間(有力候補はニミッツ海軍元帥だったそうだが)に日本進駐を任せようとしていたという説もあるので、「もし」そうなっていたら、また違った日本統治が行われた可能性もなくはない。

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