八月二十四日 ポンペイが滅亡した日

 南イタリア最大の港湾都市ナポリ。首都ローマに次ぐ南部イタリア第二の都市だ。

 カンパニア州の州都でもあるこの都市の近郊に、くだんのポンペイ遺跡は観光の目玉として整備され、連日多くの観光客で賑わっている。


 古代ローマの栄華を垣間見ることができる遺構、市街地、通りを行き交った馬車のわだちの跡までが、くっきりと石畳を抉るように残されている。

 殆ど風化を免れた色鮮やかに壁面を彩るモザイク画、上下水道、邸宅、商店、公共トイレ等々、当時の生活がどんなものであったのか、小物から建造物に至るまで非常に保存状態が良いのは、この遺跡が丸ごと、ごく短時間のうちに火山灰の下に埋まったからだ。


 西暦七十九年、八月二十四日。

 その日は朝から快晴だったそうだ。ナポリ湾岸に聳える標高およそ一九〇〇メートルの綺麗な円錐状であったベスビオ山の山頂からは、相変わらず煙が立ち上っていたという。

 午前八時過ぎから、火山性微動が確認されていたそうだが、ベスビオ山が煙を噴き上げているのは見慣れた光景で、誰も特に気にする様子もなく日常の朝を迎えていた。


 明らかな異変が起こったのは昼過ぎ。

 地鳴りと共に大地が揺れ、ベスビオは噴煙を巻き上げ大噴火を起こす。

 大量の軽石、火山灰が降り注ぎ、噴火は十数回続いた——と、当時の様子を詳細に記録した小プリニウスの書簡が残されているが、この小プリニウスが元になり、ベスビオの噴火タイプを「プリニー式噴火」と後世では表現している。

 因みに、学者であり軍人であった伯父(大プリニウス)はこの時、海上からの救助活動中に命を落としている。


 昼間であるにも関わらず、空は噴煙と降灰で夜のように暗くなり、それがまる一昼夜続いたそうだ。混乱に陥る市井の人々に逃げる猶予を与えることなく噴火からおよそ十二時間後、ベスビオは火砕流を発生させる。

 時速百キロメートル以上のスピードで山肌を滑り落ちた火砕流は、東側麓のポンペイを一瞬で飲み込んだ。そして、西側を滑り落ちた火砕流は海にまで到達している。


 辛くも難を逃れ、ポンペイの悲劇を目の当たりにしながら救助を待っていた被災者もまた、救助を目前にしながら丸ごと飲み込まれた。

 ヘルクラネウム(現、エルコラーノ)遺跡——ポンペイよりも小ぢんまりとした町だが富裕層が多かったとされる豊かな町だ。ここでは、熱波によって変形した大量の人骨が海辺のボートハウス内から発掘されている。


 ベスビオの山体は自身の噴火の圧力に耐えられず、上部が丸ごと吹っ飛んだ。カルデラの内部に現在の山頂(中央火口丘)が形成されたのは、この時だと言われている。こんにち、我々が目にしているベスビオの姿だ。


 さて、長らく小プリニウスの書簡から噴火は八月二十四日だとされてきたが、現地の発掘調査が進み、二〇一八年には実際の噴火時期は十月ごろだったのではないか、という説が浮上している。

 いずれにせよ、真実を知るのはこの地に静かに眠り続けてきた当事者たちだけだ。

 苦悶にのたうち、頭を抱え、歯を食いしばって絶望の表情を浮かべる石膏像(ポンペイでは数多くの犠牲者が長い年月をかけて灰の下で「空洞化」しており、石膏を流して復元した人々を展示している)を一度目にしたなら、きっと二度と忘れることはできないだろう。

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