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源頼朝が幕府を開いた日が今日。
その前に平清盛の業績も忘れるわけには行きません。
平清盛はすでに幕府をつくっていたという考え方をする学者もいるらしいです。それを六波羅幕府と呼ぶ人も。
武家社会の創始者平清盛のやり方を自分流にアレンジしたのが頼朝と平清盛展の時に購入した資料集に載っていました。
それはそうと、源頼朝から幕府は始まりましたが不安定であり、いつ朝廷に政権を取り返されるかという状態だったらしいです。後の承久の乱で北条義時が後鳥羽院を破った時にやっと武士の政治が一気に加速したらしくて。
頼朝の時は知行国(だったと)を500と平家から受け継いだ僅かだったのが、義時の時に3000まで増えて決定的となったらしいです。
長文失礼しました。この時代の事には目がないもので。
来年の大河ドラマはその北条義時が主役みたいです。
作者からの返信
化け猫ニャン吉さま 来年の大河楽しみですね^^
平家から武士は台頭してたんですよね。悪名高い六波羅も、朝廷に依存しない第二勢力だったことを考えると、歴史は少しずつ動いてたんだなあと改めて思います。
藤原氏を追い落として為政者となった清盛と、
幕府の創始者として語り継がれる頼朝の決定的な違いをあえて挙げるなら、
清盛の精神面はまだまだ旧体制が抜け切らなかった(娘を入内させて皇子を産んで外縁として朝廷を牛耳る=旧来の権力の握り方)、その前段階として武力行使した点。
頼朝はあくまでも朝廷を立てつつ、でも適度な距離をおいた点かなと思います。(武士同士の抗争には全力で武力行使するけど、錦の御旗には刀を向けなかったあたりとか)
弟の義経でさえ、朝廷からそれなりの官位を授かって雲上人と認められることが源氏のためになると考えていたフシがありますし、
そんな朝廷に擦り寄りすぎた弟をバッサリ切り捨てている頼朝の(身内としては非情だけど)行政の長としてのバランス感覚は、当時の常識を覆したんだろうなあと思ったりします。
戦の才能と政治の才能は、似て異なるものなんだなとしみじみ思います。
あまりに巨大で歴史ある「権力」に拮抗するためには、やっぱり新興勢力である「武士」を一つにしないと無理ゲーだという点を、理解してたんだなあと。
そして、武士(侍)を自分たちの命と財産を守るセコムくらいにしか見ていなかった朝廷派閥は、政局を見誤ったんだろうなあと。
(後鳥羽院は、私の中では定家とセットの「やらかし君」ポジションなので……半笑)
しかし、北条氏の押し返しっぷりを数字にすると凄いですね。
そして、とても分かりやすい!
長文どんとウェルカムであります!
イイクニ作ろうじゃなければ、今後源頼朝の好感度は下がりそうですね。
作者からの返信
塩塚不二夫さま 株式会社 源組(建設・不動産系ベンチャー)
初代代表取締役社長 源頼朝
「イイハコ作ろう、鎌倉幕府(武家社会)。アットホームでとても風通しの良い職場です」……確かに、なんかヤですね(笑)