八月二十一日 頼朝さんが征夷大将軍になった日
「イイクニつくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで年表を覚えた昭和世代にとって、一一九二年は鎌倉幕府が開かれ新しい時代(鎌倉)が始まった年だと認識しているが、昨今、鎌倉時代の始まりは、一一八五年(壇ノ浦の合戦後、平家が滅亡したとされる年)が定説となっている。
イイハコ? イイハコなの?
イイハコつくろう鎌倉幕府? イイハコってどんなハコ !?
それはさておき、鎌倉幕府といえば
その頼朝さんが征夷大将軍に任命されたのが、建久三年(一一九二年)八月二十一日のことである。
頼朝は徹底して「武士」の教育(意識・節度改革)と「天皇を守る」ことに注力し、新しい政治体制の定礎を築いていった。旧体制の打破に「皇室」は含まれなかったわけである。
この辺りは、他国のいわゆる「革命」とは異なる独特の政治センスだと思う。
また、全国の武士を一つにまとめ上げるため、頼朝は中立的なモノの見方で飴と鞭を巧みに使い分け、派閥、家柄に関係なく適材適所に人材を投入していった。この采配が的を得て武士は頼朝に全幅の信頼と忠誠を誓うようになり、「武士」は「国を守る存在」であるという意識を定着させていく。
言うなれば、それまで「下級」扱いであった「武士(侍)」をエリート官僚へと育成していったようなものだ。エリートはエリートらしい振る舞いをするべしと教え、エリートらしい振る舞いは、やがて一般庶民の憧れとなり手本となった。そして憧れは庶民にも浸透していく。
しかし、当の頼朝は朝廷を立てることで余計な対立を避けつつ、それまで政治文化の一点集中であった旧体制を「政治(=武士)」と「文化(=朝廷)」に切り離し、幕府という体制はその後、江戸時代まで脈々と受け継がれていくのである。
過大な解釈をするならば、「政治」と「伝統文化」を分けている現在の体制も、根幹としては共通する部分だと言える。
(選挙や人事に口出しはしないけど、内閣総理大臣を任命するのも、褒章を授与するのも「天皇」の仕事)
現代に通じる国家運営センスを八百年以上も前に持ち合わせていた源頼朝が、いかに突き抜けた人材だったか今更ながら実感する。
とりあえず、「イイクニつくろうと頑張る頼朝さんが征夷大将軍に任命された」——と力技で覚えるしかない。(語呂が悪過ぎる)
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