八月十二日 日航ジャンボ機墜落事故があった日
昭和六十年(一九八五年)八月十二日、月曜日、午後六時十二分。
東京羽田空港から大阪伊丹空港へ向けて、ボーイング型ジャンボジェット機日本航空一二三便が離陸した。
乗客乗員合わせて五二四人が搭乗した本機だったが、離陸わずか十三分後に操縦不能となる損傷を被った。
午後六時五十六分——一二三便は操縦不能のまま群馬県多野郡上野村山中(通称、御巣鷹山)に墜落する。
乗客乗員五二四名のうち助かったのはわずかに四名。生存率わずか一パーセント未満という日本航空機史上最悪の事故となった。この時の死者数は航空機事故としては世界最多と言われている。
犠牲者の中には著名人も多く含まれていたことでも知られる事故だ。
坂本九氏、阪神タイガース球団社長中埜肇氏、ハウス食品工業社長浦上郁夫氏、ミサワホーム専務取締役山本幸男氏、宝塚歌劇出身女優北原遥子氏等々の名前は当時の人々に大きな衝撃をもたらした。
この年、阪神タイガースは珍しく首位を独走する快挙を見せていたが、社長の訃報を知り、事故翌日の巨人戦から怒涛の六連敗を喫して首位から転げ落ちている。
それ程チーム内の動揺が大きかったということだが、それもそのはずで、事故を起こした一二三便はフライトスケジュール上、一本前には日本航空三六六便として福岡から羽田へと飛んでいる。
この三六六便にタイガースナイン(厳密にはナイン以上いたが)は搭乗し、試合のあった福岡を後にして東京での巨人戦に向けて移動しているのである。
その折り返し便が事故に遭った。
実は中埜社長は福岡でナインを激励したのち、一度帰阪している。しかし、急遽東京での会議(運輸省で行われる日本民営鉄道協会の会議)に代理出席することになり(球団社長だけでなく阪神電鉄専務取締役鉄道事業本部長でもあった)、常務取締役とともに上京する。
その会議上がりに搭乗したのが一二三便だった。そして、それが今生の別れとなった。たらればを言っても仕方ないが、この会議に出席する予定さえ入らなければ存命だった可能性を考えると遣る瀬ない。
突然の訃報で一度は茫然自失状態だったタイガースナインだが、弔問に訪れたあとは奮起し、リーグ優勝からの日本シリーズを制して日本一になっている。
また、この事故によって坂本九氏の遺作となった楽曲「心の瞳」は、現在では合唱曲の定番として若者たちの青春の一ページに花を添えているが、わずか四十三歳でこの世を去ることになった九氏自身が連れ添った奥様や家族への思い、絆を歌ったものだ。
「愛すること、それがどんなことだか分かりかけてきた」
その矢先の事故だ。
道半ばで去らざるを得なかったからこそ、あまりにも深く重たい意味を持つ言葉だと思う。
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