七月十日 乙巳の変(蘇我入鹿が暗殺された日)
時は飛鳥時代、西暦六四五年七月十日。
大化元年となったこの年に歴史が大きく動いた殺人事件が起こる。
昭和世代以前は「大化の改新」と習い、現在では「
当時、朝廷の置かれていた皇居、現在の奈良県高市郡明日香村にひっそりと残る飛鳥宮跡が現場とされている。
この日、三韓の使者が貢物を持って来日することになっていたため、為政者蘇我氏の入鹿は
入朝前、帯剣不可を言い渡された入鹿は丸腰のまま、知らず断頭台へと上げられることになった。(使者の下りも偽情報だった説がある)
聖徳太子亡き後、政権の中枢で単独ウハウハしていた蘇我氏一族の権威は時の帝すら凌ぐほどであったという。
そんな中、第三十三代推古天皇が次代を指名することなく崩御し、皇位継承者は流血沙汰で揉めることになる。
血筋と順番でいうと、推古天皇の兄であり第三十一代用明天皇の息子である聖徳太子(推古時代は摂政)の息子——
太子の直系はこれで途絶えることになった。(聖徳太子の母親も嫁も蘇我氏一族であったが、太子と蝦夷・入鹿親子は対立関係にあった)
対抗馬として蘇我氏が担ぎ出したのが、同じく推古天皇の上の兄である第三十代敏達天皇の孫だった。従兄弟を蹴散らして第三十四代目として即位した
だが、舒明天皇もまた次代を指名せずに崩御してしまう。また血みどろの争いが……と思ったら、次代は舒明天皇の皇后、
蘇我氏やりたい放題時代の到来である。蝦夷は勝手に息子入鹿へと大臣職を譲位し、入鹿はウハウハ絶頂期にいたわけだ。
そこに待ったをかけたのが中大兄皇子だった。
これだけならまるで正義のヒーローだが、実際はなかなかの腹黒さを感じさせる。(個人の主観)
皇極天皇の次に、蘇我氏が擁立しようとしたのが舒明天皇の長男であった。
入鹿とは従兄弟関係にある非常に近しい人物である。
中大兄皇子は異父の次男という立場だ。普通に考えて直系男系男子の長男が健在ならば次期天皇というのがセオリーだ。
いつやるか、今でしょう。
中大兄皇子は実際にクーデターを起こした。
それが「乙巳の変」である。自分が皇位を継ぐには、直接的な為政者を始末する必要がある。それがウハウハ入鹿くんだった。
そして同時に母親である皇極天皇もまたターゲットであった。
「誰かさんのせいで蘇我さん、めちゃめちゃ調子乗ってますけど、どう責任とるん?」
母親の目の前で蘇我入鹿を惨殺し、直接の政敵を抹殺したのち、そのまま母親が皇位につく正当性を真っ向から否定し追い落とした。しかし、それだけでは自身に皇位は転がってこない。
ではどうしたのか。母親の同母弟(中大兄皇子にしたら叔父)を次代(第三十六代孝徳天皇)に据えた上で自らは皇太子位についた。
それだけでは磐石な地位を築くことは難しかったのだろう。
蹴散らした長兄の娘を嫁にして、直近の直系男子の血筋と蘇我氏の取り込みにも尽力しているのが窺える。(ちなみに、引退していた蝦夷パパには入鹿の遺体を送りつけ精神的ダメージを負わせた上で自害させている鬼畜っぷりだ)
教科書では様々な行政改革を断行したスーパーヒーローのように語られるが、少々呆れる三韓(特に百済)への肩入れと失政、その失政の緩衝材代わりとでもいうように追い落とした母親を再び皇位(第三十七代斉明天皇)に据えてから自ら即位する安全牌の投げ方にも若干の姑息さが垣間見える。
そしてその後の公私に渡る弟(天武天皇)との確執を鑑みたときに、だいぶ性格に難があるなあと思ってしまうのだ。(個人の主観)
これはあくまでも私的トンデモ解釈だが、中大兄皇子は案外鎌足の傀儡だったのではないかと邪推してしまう。
実際、中臣鎌足は以後、藤原鎌足と名前を変えて脈々と皇室に食い込み続けている。
直近では貞明皇后(大正天皇のお后さま)まで続いていたわけだから、千二百年以上のロングランともなれば執念の賜物というべきなのだろう。実にカクヨム心をくすぐられる。
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