六月十九日 太宰治の誕生日であり遺体発見日

 カクヨムに身を置く以上、無視をしてはいけない日、その六。

 日本を代表する文豪、太宰治は明治四十二年(一九〇九年)六月十九日、青森県津軽郡(現在の)五所川原の大地主の六男——十番目の子供として生まれた。

 平たく叩いて掻い摘めば、えトコのぼんである。非常に成績優秀な学生だったようだが、影響を受けた文学や薬物依存の傾向を鑑みるに、左巻き思想に傾倒する豆腐メンタル氏だったように思う(偏見)。


 加えて女性関係とカネにだらしないとなれば、持って生まれたものは決して悪くないのに至極残念氏でもある(辛辣)。おおらかな時代だからこそ大成できた具類の御仁であろう——と今の時代だからこそ思うわけだ。


 フランス語ができず、ただ仏文学にハマったという理由で仏文科に入る気満々(当時、この学科は入試が無かった)だったが、受験を希望したその年から仏語試験が導入され、堂々と抗議して堂々と裏口入学(特別入学と表現されている)を勝ち取る姿勢はいっそ清々しい。

 言い方を変えれば、それだけディベート力に優れていたということか。(結局学業を修めるまでには至らなかったようだが)


 そして、女性関係にも謎行動が多い……。

 祝言を上げても籍を入れないとか、結婚したと思ったら愛人侍らせたりとか、心中事件起こして自分だけ生き残ったと思ったら、また別の女性と祝言上げたりとか……現代なら都度、慰謝料沙汰の訴えを起こされるだろうし、最悪詐欺罪及び自殺幇助で捕まりそうだ。

 最終的には、やっぱり愛人と心中自殺しているのだから迷走にも程がある。


 そして、入水自殺を図ったのが昭和二十三年(一九四八年)六月十三日とされており、遺体が発見されたのが六月十九日のことである。奇しくも自身の誕生日と同じ日に愛人共々河川から引き上げられたわけだ。

 それが覚悟の上の行動ならまだ納得もできるのだが、現場の痕跡から、どうやら「直前になって躊躇い、相当いやいや行動で抵抗した末に河川に落ちた」という見立てが存在する(公式見解では自殺となっている)一方で、散々下書き練習を繰り返した末の「小説が書けなくなったから死ぬ」といった趣旨の遺書(清書版は毛筆で認められていた)が発見されたりと、度々のザ・お騒がせ行動が何とも解せない。


 厳しめに統括すると、「書くこと以外はまるでダメ男」だった太宰治だが、遺された作品が近代日本を代表する文学作品であることに違いはない。

 彼の行動を通して、私の中ではイタリアの宗教画家カラヴァッジオの絵画と生涯が重なるのだ。それぞれ生き様には決して共感できないのだが、遺した作品からは贖罪を乞うような心底の叫びを感じずにはいられないのである。

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