六月二日 横浜と長崎で港はじめました
アメリカ人が自由に貿易するために指定した港は次のとおりだ。
神奈川、兵庫、新潟、長崎、函館、江戸、大阪。このうち利便性の面から神奈川は横浜に、兵庫は神戸に変更されているが、北海道から九州まで概ね網羅していることが地図上からもうかがえる。
条約が締結された翌年、安政六年(一八五九年)六月二日。かくして横浜港と長崎港が自由貿易に向けて開港されることになったのだが、それまで鎖国しながら限定的に貿易をしていたような国が、いきなり自由貿易なんてことになれば、大混乱に陥るのは目に見えている。
ざっくりいうと、それまで(鎖国していたからこそ)国内で完結していた需要と供給のバランスが総崩れになり、輸出すればするほど、本来国内で必要な物品が品薄になり、結果、超物価高(ハイパーインフレ)が起こったのである。庶民は悲鳴をあげるしかない。(武器なんか輸入しても、庶民の腹は膨れない)
挙句、通貨の価値が同等でなかった。
当時、日本では金(小判)の価値を基準に銀(一分銀)が流通していたが、国際的にはメキシコ銀が通貨の基準であった。(日本は銀の採掘量よりも金の採掘量の方が多いという、ある意味金鉱に恵まれた国だ。だから金の小判の方が大量に流通させるのに適していた)
当時幕府は、「同じ銀なのだから、一ドル銀=一分銀」の為替レートで道理は通ると主張したが、アメリカはこれを認めなかった(銀の含有量が同等でないと屁理屈を捏ねた)。
そしてこの時、金の価値は不当に低く扱われた。「一ドル銀=一分銀×3」で取引を強要され、幕府は結局折れた。
しかし、国際的にも金の価値は銀以上というのは常識だ。
これが原因で為替詐欺が横行する。どういうことかというと、一ドル銀を一分銀三枚に交換し、それを小判に両替して海外に持ち出し売り捌く。すると、一ドル銀一枚が、三倍以上の持ち金になり、がっぽがっぽの儲けが出る——言うなれば、為替差益の搾取である。
そして残念なことに、実際大量の金が国外に不当流出してしまった。
事態を重く見た幕府は急遽国内に流通している小判を回収し、金の含有量を減らした代替小判へとシフトしたが、これが更に庶民を生活苦のドン底に叩き落とした。(簡単にいうと、出回る金の質が下がったため、物の価値基準が崩壊した)
やってくれたな、コンチクショウ。
この後、時代は外国勢排斥運動が活発になり、やがて幕府の倒壊へとつながるのである。
しかしこの時、港を開港したことで近代から現代にかけての日本の発展があることもまた、揺るぎない歴史の側面なのである。
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