パンケーキと事務長

風城国子智

パンケーキと事務長

 ふんわりとした生地をひとかたまり、温めて油を引いたフライパンの上に慎重に乗せるサシャの小さな手を、息を止めて見つめる。大丈夫。ちゃんとふわふわに焼けている。慎重な手つきでひっくり返したパンケーキの焼け具合を確かめ、息を吐いたサシャに、トールは思わず口の端を上げた。


「これが、カジミールが言っていたパンケーキ?」


 焼けた数枚のパンケーキを皿に移し、『本』であるトールが置かれているテーブルにその皿を置いたサシャに、この台所がある街中の修道院で修行を積んでいるサシャの友人、ヤンが首を傾げる。


「嵩高だけど、美味しいの?」


「食べてみれば分かるさ」


 その皿の上のパンケーキをさっと掴み、口の中に入れたサシャのもう一人の友人、星の運行を確かめて暦を作る『星読ほしよみ』の養子カジミールの笑みに、トールはふふっとお腹を揺らした。


「……美味しい」


 カジミールに勧められるまま、おそるおそるパンケーキを口にしたヤンが、目を丸くしてサシャを見る。


「だろ?」


 そのヤンに微笑み、再びふわふわのパンケーキを焼き始めたサシャの後ろで、カジミールが大きく腕を振った。


「頑張って卵白をふわふわにした甲斐があったぜ」


 おかげでこっちの腕は筋肉痛だがな。しっかりとした右腕を痛そうに見つめるカジミールの大袈裟な表情に、少しだけ肩を竦める。確かに、電動ではない普通の泡立て器でメレンゲを作るのは、トールの世界でも大変だった。トールが指示した通りにサシャが針金を曲げて作った泡立て器の柄が、食器を洗う盥の端からはみ出しているのが見える。「電動ミキサーを買って欲しい」と駄々を捏ねた妹と、その妹を宥めながら普通の泡立て器で上手にメレンゲを作っていた父の姿を、トールは首を横に振ることで思考から追い出した。


「サシャは、食べないのか?」


 再び焼き上がったパンケーキを手掴みで頬張るカジミールが、サシャの方に首を伸ばす。


「生地、全部焼いてからにする」


「じゃ、これは俺達が全部食べて良いな」


 サシャの答えを確認してからパンケーキに手を伸ばしたカジミールと、カジミールの後からそっとパンケーキを掴んだヤンに、トールは微笑んで首を横に振った。カジミールもヤンも、サシャがこの『北向きたむく』の都にある学校に通い始めてからできた友人。引っ込み思案で遠慮がちなサシャに良い友人ができて良かった。カジミールに促され、新たに焼けたパンケーキを頬張るサシャの赤い頬に、トールは胸を撫で下ろした。


「……ここにいたか」


 三人とは違う声に、顔を上げる。


「ヘラルド事務長が探してたぞ」


 台所にずかずかと入ってきた背の高い影、サシャ達が通う学校で算術と幾何を教えている助手エルネストの言葉に、サシャの顔色は明らかに変わった。


「何か、あったのですか?」


 サシャとヤンは、学業に必要な物品、特に、レポート提出に必要であるにも拘わらずやたら高価な羊皮紙を買うために、北向の都『北都ほくと』の学校と大学の事務を総括する事務長ヘラルドの許で雑用をこなしている。エルネストの言葉にサシャが動揺するのは、当然のこと。


「ま、腹が減ってたら仕事に集中できないし、腹拵えしてからでもヘラルドは怒らないさ」


 思わず身構えたトールの前で、エルネストは何でもないと言うように手をひらひらと振り、そして皿の上のパンケーキをひょいっと掴んだ。


「これ、美味いな」


 一口でパンケーキの半分を腹に収めたエルネストが、まだパンケーキを焼いているサシャを見下ろして口角を上げる。


「蜂蜜か砂糖があればもっと美味いのかもな」


 続いてのエルネストの言葉に、今度はヤンが首を横に振った。北向の人々は、質素に生活している。甘いものがふんだんにあるのは、王族と貴族の台所だけ。カジミールの手伝いで『星読み』の館に滞在した時に耳にした言葉を思い出し、トールはエルネストのからっとした表情を見上げた。


「そうそう。パンケーキと言えば」


 辺りに漂う微妙な雰囲気を感じ取ることができないのか、あくまで明るく、エルネストが言葉を紡ぐ。


「ヘラルドがかつて北向の文官長だったことは、知っているか」


「えっ?」


 エルネストの言葉に、人間三人もトールも思わずエルネストの方を見上げた。


「ぶ、文官長」


「偉い人、だったんだ」


 カジミールとヤンの声に、手の中のパンケーキを全て腹に収めたエルネストが笑う。


「でも、何故、文官長が学校の事務長に?」


 首を傾げたカジミールに、エルネストはあくまで軽い調子で答えた。


「パンケーキに蜂蜜をかけるかどうかで争った老王と若王の仲裁に疲れたからさ」


「はいっ?」


 エルネストの言葉に、三人もトールも絶句する。そんな、ことで。出掛かった言葉を、トールはそっと飲み込んだ。些細なことだからこそ、疲れてしまうこともある。トール自身、些細なことで揉めるサッカークラブの友人達の仲裁に疲れたことが、確かにあった。……今はもう、遠い思い出になってしまったが。


「その話は、本当のことですか?」


 目を瞬かせたヤンの声に、エルネストがにやりと笑う。


「セルジュに聞いてみると良いさ」


 サシャ達の学友である、北向の王子の名前を出したエルネストに、ヤンは半ば疑っているような頷きを返した。


「あいつがまだ小さい頃の事件だから、あいつは覚えてないかもしれないがな」


 話の間にサシャが焼き上げた、最後のパンケーキの一つを、エルネストが鷲掴みにする。


「じゃ、ごちそうさん」


 湯気の立つパンケーキを持ったまま、来た時と同じように唐突に、エルネストはサシャ達とトールの前から消えた。


「セルジュ、か」


 静まりかえった台所で、カジミールが溜め息のように言葉を紡ぐ。


「今度逢えたら、聞いてみるか」


 夏まではサシャ達と一緒に勉学に励んでいたセルジュだが、『秋分祭しゅうぶんのまつり』の日に起きた暗殺未遂事件以来、王宮で個人指導を受けている。逢うことが、できるだろうか? 小さく首を振ったサシャに、トールは頷くことしかできなかった。

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パンケーキと事務長 風城国子智 @sxisato

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