第150話.終幕
二階から窓の外に滑り落ちて、セオドリクは逃げ出していた。
両手をついて着地したせいで、指の角度がおかしくなり、ひどく痛む。
ずきずきと、熱されたような痛みを発する手をぶら下げて、セオドリクは歩を進める。
周りを誰かが囲んでいるような気配がある。だが、誰もセオドリクを止めようとはしない。
セオドリクはにやりと笑う。何か策略があるわけではない。ただ、おかしかったのだ。
自分の馬鹿さ加減が、笑えて仕方なかったのだ。
――本当は、ガーゴインに言われずとも最初から分かっていた。
ティアは裏切ってなどいないこと。
彼女がセオドリクのためを思って、別々の道を選んだこと。
(それでも、私は)
ティアの決断を罵り、傷つけたのも。
挙げ句の果てに、新たな場所で彼女がつかみ取った幸せを自分勝手に奪ったのも。
すべて、理由はひとつだけだった。
「それでも、一緒に居たかったんだ」
引き結んだ口端から、言葉が漏れる。
遠ざかっていくティアに伝えられなかった本音が、今さら後悔と共に吐き出されていく。
「それでも、君に私を、選んでほしかったんだ」
ふらふらと進むセオドリクの前に、その偉容が現れる。
魔法学院にあった時計塔によく似たそれ。懐かしさに、息が詰まりそうになる。
梯子に足をひっかけて、セオドリクは上りだした。
両手が使えないので、落ちたらあっという間に死ぬだろう。
だが、躊躇いはなかった。どうでも良かった。ただ、時計塔の屋上に向かう。どうしてもそこに行きたい。
ティアと初めて会ったのは、時計塔だった。
公爵家の跡取りとして恥じないように、魔力がないと万が一にもばれないように。
気を張り続け、消耗して、ぼろぼろになって、いつも監視の目がない時計塔の屋上で休んでいた。
そんな日々に、ティアはひょっこりと現れた。
――『ふつうの人より魔素の流れがよく見えるの、私の目』
目の下を引っ張って、悪戯っぽく笑っていた。
心の奥底を揺さぶられるような気持ちになったのは、初めてだった。
ティアに出会って、セオドリクはたくさんの感情を知っていった。
(ティア、ティア、ティア……)
冷たい横風が吹くたびに息を詰めながら、セオドリクは梯子を上りきる。
月明かりに朧げに照らされた、煉瓦作りの時計塔。
「……居るわけが、ないか」
いったい、何に期待していたのだろう。
暗黒魔法のせいでティアは死んだ。人を救うために生きていたティアを、死に追いやったのは自分なのに。
セオドリクは力の抜けたように笑って、両足だけを使って屋上に降り立った。
どさっと音を立てて、ひとりで横になれば、すぐに屋上はいっぱいになってしまう。
頭が鉛を入れられたように重い。
意識が霞がかっている。庭師を代わりに毒を飲ませ、公爵家の屋敷を抜け出してからというものの、ずっと身体はこんな調子だった。
ガーゴインに復讐する――その一心で今まで生きてきた。
だがそれも失敗した今、セオドリクには何もない。
(いや、違う、次の授業、が……)
頭の中が混乱している。
いつまでも時計塔に逃げてはいられない。もう試験が近いのだ。
「セオドリク」
問題は実技だ。また魔道具を懐に忍ばせて乗り切らねばならない。
教職員にも公爵家に通ずる者が多いから心配することはない。だが、惨めなのは変わらない。
魔法が使えないくせに魔法学院に通う自分が、いつも情けなくて恥ずかしかった。
つまるところ、人を操る魔法を手に入れて、セオドリクは嬉しかったのだ。
魔力なしにしか使えない魔道具。自分のために用意されたようだと思った。
特別なものが何もない自分に、初めて、価値が生まれたように感じて――その結果、誰よりも大切だった人の命を、終わらせた。
「セオドリク」
「…………、?」
セオドリクの思考が一瞬固まる。
うろうろと視線を巡らせると、屋上を覗き込む小さな顔があった。
鳶色の髪をかき上げて、柔らかく微笑む少女。
ぼんやりと霞むその姿を、呆然としてセオドリクは見つめる。
幻影だ。そう分かっているのに、目をこじ開けて呼びかけた。
「……ティ、ア?」
「ええ、セオドリク」
果たして、返事があった。
(ティアは、生きていた?)
セオドリクは、一心不乱に見つめる。
他でもないティアを、見間違えるはずはない。やはり梯子を上ってきたのは、ティアだ。
ティア・アイウスが、そこに居る。
「……私は、いやな夢でも見ていたのかな」
「夢?……どんな夢?」
「君を……ティアをこの手で殺す夢だ。それから何人もの人間を傷つけて、苦しめた……私は、おそろしいことを……」
ティアは笑顔を浮かべたまま、セオドリクの言葉を聞いている。
自然と、セオドリクの頬を涙が伝っていた。ティアと出会った頃の出来事が、積み重ねていった記憶が、溢れるようにして目の前を過ぎっていく。
必死に手を伸ばすけれど、届くことはなく、ただ遠ざかっていくだけの。
まぶしすぎるほどの思い出を見つめながら、小さく呟いた。
「ティア、私を、許さなくていい」
「…………」
「私を、ずっと、恨んでいいんだ。君は、優しすぎるから……」
「セオドリク。もう少し眠るといいわ」
悔恨に満ちた言葉を、やんわりとティアが遮る。
涙に濡れた視界の真ん中に、その表情が映し出される。
月光に照らされて、ほのかに輝く、それこそ女神のように優しい笑みが。
「目を閉じて大丈夫よ。私はここに居るから。……おやすみ、セオドリク」
それは何気ない、日常の声音のようであり。
セオドリクへの、許しの言葉のようだった。
「ティア………………私は、……君を……、」
途切れ途切れの言葉の続きはなく。
紺色の空の下。
夜風が吹き、梢が揺れる。
鳶色の少女は、動かなくなった男を見下ろして沈黙していた。
口元に笑みはなかった。紫水晶の瞳は、感情を浮かべず細められている。
そこに頭上から、声が降りかかった。
「ルイゼ」
――おとぎ話の中に登場する、森に住む精霊のような。
銀色の髪をさらさらと揺らす人並外れた美貌の男性を、ルイゼはぼんやりと見上げる。
制止を振り切って梯子を上ったルイゼを、追ってきてくれた。
風魔法で空間に留まったルキウスの手が、そっとルイゼの肩に触れる。
「……治せませんでした」
独り言のように繰られた言葉に、ルキウスは頷く。
「二人もの人間に暗黒魔法を使ったんだ。セオドリク自身は、もう手遅れだったんだろう」
沈黙を返すルイゼの片手は、首飾りを握っている。
セオドリクを追いかけたときは、彼を治療するつもりだった。
だが、時計塔に横たわるセオドリクは既に虫の息で。
リーナの替え玉を演じていたときと、同じように。
ルイゼはティアの振りをした。反射的に、そうすることを選んでいた。
「……ルイゼ。泣いているのか?」
眉尻を下げたルキウスの指先が、ルイゼの目元を拭う。
その言葉でようやく、自分が泣いていたことにルイゼは気がついた。
(私は、悲しいの?)
自問自答しても、よく分からない。
感情の芯が麻痺したようで、同時に頭の中心に熱があるようで。
悲しいし、苦しいし、怒ってもいる。理不尽だと、嘆いている。
(お母様は、悲しかった?)
――『罪があるから、罰があるの。だから、誰のことも恨んでいないわ』
そう言い残して、ティアは死んでしまった。
なぜ、ティアはあんな風に笑って言えたのだろう。自分の幸せを奪った男を庇って、逝くことができたのだろう。
しかもセオドリクは、ティアのたったひとつの願いすら聞き届けなかった。
リーナを利用し、マシューやシャロンを傷つけ、自分の息子すら巻き込み、王宮の追及を誤魔化すためだけに、何人もの魔術師を死に追いやった。
それでも、そんなセオドリクを罵倒しようとは思えなかった。
だからルイゼは、ティアの振りをした。セオドリクに、安らかに旅立ってほしかったからだ。
それが――母の望みでもあるように、感じたから。
「ルキウス様」
「うん」
「私は、たぶん……セオドリクを恨みたかったです」
それなのに、ティアの振りをするルイゼを見つめる瞳が、温かくて、幸せそうで、愛おしそうだったから……そのせいで、今は恨むことすら難しい。
余計な慰めを口にせず、ルキウスがルイゼの頭を抱き寄せる。
ルキウスの鼓動を感じながら、ルイゼは目を閉じた。涙は次から次へと溢れて止まらなかった。
――こうして、この日。
暗黒魔法を巡る一連の事件が、幕を閉じたのだった。
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