第145話.闇に沈んだ過去4

 


「待って、ママ。行かないでぇ!」


 セオドリクはティアの肩に手を置き、去って行こうとした。

 だがリーナは状況を理解していないのだろう。泣きながら追い縋ってくる。


「ママぁ!」


 きゃんきゃんと泣き喚く甲高い声に、セオドリクは苛立たしげに舌打ちする。


(……うるさいな)


 騒がれると、ガーゴインたちが気がつくかもしれない。


 ティアを手に入れた以上、その娘にはなんの興味もなくなっていた。

 むしろこの娘が、ガーゴインとティアを結ぶ存在なのだと思うと、目にするだけで腹立たしくなる。


(消すか?)


 森の中には人気がない。

 今なら、誰にも知られずにリーナの息の根を止められる。


 振り上げかけた腕に、ティアが触れる。

 セオドリクはティアの顔を見て、固まった。


「どうしたんだ、ティア」


 答えないまま、ティアの滑らかな頬を涙が流れていく。

 ティアの見開かれた瞳を、次から次へと込み上げた涙が濡らしていく。


(……娘の声に反応している?)


 魔道具の仕組みは、未だによく分かっていない。数がないので仕方のないことだ。

 だがセオドリクの妻は、セオドリクが近寄るなと命じればすぐに従順になった。


 ティアはセオドリクと共に行くという命令に従っている。

 だから呼び止めるリーナの声なんて、反発を覚えて然るべきなのに。



「――こんなもので、私の心を、縛らないで」



 はっきりとした声音で、ティアが言う。

 その手が、セオドリクが振り上げたのとは逆の手を掴んでいた。


 否。――正しくは、手に持ったままの首飾りに触れていた。


「私は、私、だわ。……あなたの言いなりにはならない」

「!」


 脆くなっていた鎖の部分が、ティアによって引きちぎられる。


 黒い水晶――煇石が土の上に落ちた。

 これでは魔道具の効果がなくなるかもしれない。とっさに屈んで拾い上げようとしたセオドリクの耳に、信じられない言葉が入り込んでくる。


「消えて、セオドリク。……罪があれば、罰がある。決して、あなたを恨んだりはしないから」


 セオドリクは、ぴたりと動きを止める。

 憤怒の形相で見つめる先に、額に汗をかいて疲弊したティアが立っている。


「君にとって、私の存在は罰だと?」


 躊躇わずに、ティアは頷いた。

  おかしくなって、セオドリクは笑う。


「ごめんなさいセオドリク。今の私には大事なものが、たくさんできたの。夫と、可愛い二人の子ども。……だからあなたと一緒には行けないわ」

「自分の行いが、罪だとは知っているわけだ」

「罪だったわ。魔力を持たないあなたに、見て見ぬ振りをした」


 出会ったことも、魔法学院で過ごした日々も、ティアは悔いているのだ。

 あのときに学院に通報しておけば、こんなことにはならずに済んだと。


 セオドリクは低い声で笑いながら、壊れた魔道具を拾い上げた。

 その様を、荒く息を吐きながらティアが見ている。立っていられないのか、木の幹に背を預けて座り込んでいる。

 先ほどからティアは明らかに様子がおかしい。顔色を蒼白にしながら、それでもセオドリクに訴えるのをやめようとしない。


「約束して。その魔道具は捨てると。二度と誰のことも、おそろしい魔法で傷つけたりしないって」

「…………」


 答えないセオドリクに、ティアは根気強く続ける。


「娘のルイゼは魔法が大好きなの。とっても賢くて優しい子よ。でも、妹のリーナには魔力がないの」


 あなたと同じよと、ティアの目が訴えている。


「そんなリーナの手にも、その魔道具を持たせるのが正解だと思う?」


 リーナは先ほどから泣き続けている。

 だが、母親にも近づかない。振り払われて赤くなった手を押さえつけて、ひとりで蹲って泣いている。


 セオドリクはたった数分間で、慈しみ合う親子の関係を破壊したのだ。


「ティア!」


 森の中に、鋭い声が響いた。

 目を向けると、ルイゼを両手に抱いたガーゴインの姿があった。リーナの泣き声が聞こえて駆けつけてきたのだろうか。


「あなた……!」


 ティアの目が、安心したように潤む。

 白い手が、頼りの男を求めるようにして伸びるのを見ていられず――セオドリクは踵を返した。


 森から逃げ出したあとのことは、あまりよく覚えていない。


 だが公爵家に戻った直後のことは、よく記憶している。

 屋敷には家臣たちが揃っていて、何事かと問えば、セオドリクの妻が死んだのだと答えがあった。


 致し方なく、女の死に顔を見に行く。


 当然だったが、死んだ妻は静かだった。

 ヒステリックに喚いたり、叫ぶことはない。これならばいつまでも隣に居られるかもしれない。

 今さらそんなことを思う不義理な夫を、この女は罵ることもできないのだと思うと少し哀れだった。


 子どもはまだ、母親の死をよく理解できていないらしい。

 屋敷に戻ったセオドリクの足元に寄りついてくる。その様子を見ているとリーナを思い出した。振り払うのも面倒で、好きなようにさせる。


 高飛車な女だったからか、妻の死を悲しむ声はあまりなかった。

 その代わり、葬儀が終わった頃になると、不気味だと噂する声をいくつか聞いた。


 ――持病もなく健康だった。それなのにここ数か月の間に、急激に体調が悪化していった。

 ――医者を呼んでも原因が分からず、打つ手がないと繰り返すばかりで。


 そんなひそひそとした話し声を聞くたびに。


 まったく似つかない、妻とティアの顔が頭の中で重なる。

 二人にはたったひとつだけ共通点がある。セオドリクが未知の魔道具によって操っていたということだ。


 コートのポケットに入れっぱなしにしていた水晶玉を取り出す。

 鎖が千切れても、煇石だけは禍々しい光を放っている。まだセオドリクが命じた言葉は、呪いは、有効になっていると言いたげに。


 避暑から戻った直後、レコット伯爵夫人が病を得たという話を耳にしていた。

 ガーゴインはあらゆる名医を王都に呼んでいるそうだが、今のところ原因は明らかになっていないとも。


(おそらくティアも、死ぬ)


 それが何日後のことか、何年後のことかは分からないけれど。


 ……いや、違う。


 この期に及んで言い逃れしようとしている自分に、吐き気がした。

 舌に載せて、その恐ろしい事実を呟く。



「私が、ティアを殺すのか」



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