第144話.闇に沈んだ過去3

 


 ティアが結婚したことは知っていた。相手の名前もだ。


 ――ガーゴイン・レコット。


 不遇とされる闇魔法使いとして若い頃から名を馳せた男で、魔法省で長年幹部を務めていた。

 なるほど、“光の聖女”の結婚相手としてはこれ以上は望めない相手だと、セオドリクは感心したものだった。


 神殿が闇魔法使いを軽視していないという周囲へのアピールにもなる。

 生まれてくる子どもが二つの魔法系統を有していたら言うことはないだろう。架け橋としてどれほど役立つことだろうか。


 セオドリクは、対外的なアピールのために人生を潰されたティアを哀れに思っていた。

 だから心のどこかで、ティアとガーゴインは、愛し合ってはいないだろうと考えていた。

 それなのに二人の間に子どもができたという報は、少なくはない衝撃をセオドリクに与えた。


(いや。相手を愛さずとも、子どもはできるが)


 セオドリクが良い例だ。名前も、顔すらまともに覚えていない女との間に子を儲けた。

 ティアも同じように、鬱屈とした日々を送っているのかもしれない。愛のない相手と婚姻し、二人の子を産まされ、彼女はどんな思いで居るのか。


 ――今もティアは、セオドリクのことを密かに思っているのかもしれない。


 そんな淡い期待を、捨てきれずにいた。



 ◇◇◇



 ガーゴインは魔法省大臣に任命され、忙しない日々を送っているようだ。


 だが、ティアに近づく機会には恵まれなかった。

 貴族夫人としては珍しいが、彼女は乳母や侍女に任せきりにせず、子どもの世話に積極的に励んでいるらしい。

 社交的な場にもほとんど顔を出さないし、現れるときは必ずガーゴインが傍についている。


 そんな日々が二年ほど続いたあと。


 ガーゴインが長い休暇を取ったと耳にしたセオドリクは、行き先についても秘密裏に調べた。

 どうやらガーゴインはしばらくぶりに伯爵領へと戻り、家族での時間を過ごすらしい。

 子どもが二歳になったから、と同僚に語っていたと聞きつけて、セオドリクはすぐさま追う準備を始めた。王都から離れた伯爵領であれば、ティアに近づく機会はいくらでもあると思ったのだ。


 急遽、公爵家を空ける理由は、仕事を言い訳に適当にでっち上げた。

 妻は何も言わなかった。数年前から体調を崩していたが、心細そうにしてきたら面倒だったのでほっとした。魔道具の能力に感謝するばかりだ。


 念のために、古代の魔道具も持っていくことにする。

 具体的にそれを使うイメージを固めていたわけではない。ただ、どこかお守りのように感じていたのだ。


 領地に到着した翌日、動きがあった。


 ひとりの娘が、ガーゴインに魔法を見せてほしいとせがんでいる。

 娘には甘いようで、ガーゴインは娘を連れて広い野原に向かうようだ。人気のないところで魔法を行使するのだろう。


 もうひとりの娘は活発というか、落ち着きがないようで、すぐに外で遊びたがった。

 そちらにはティアがついていくらしい。小さな森に出かけていく二人を、距離を取って追いかける。


 月日が経っても、ティアは変わらず美しかった。

 貴婦人らしい落ち着いたデザインのドレスに包まれた、華奢な身体。

 結い上げられた鳶色の髪に、緑柱色ベリルの瞳は森の緑よりずっと鮮やかで瑞々しい。

 そして子どもを見守る慈愛の微笑みは、聖女と崇められた笑みよりもずっと優しかった。


 それにしても、二人の娘はティアによく似ていた。

 双子だという娘たち。姉は賢い顔つきで、妹は天真爛漫だ。

 セオドリクには、幼い頃のティアが、二人に分かれて目の前に現れたかのように感じられた。


(――もしも、私と結婚していたら)


 無意味な仮定だと分かっていても、考えずにはいられなかった。


 セオドリクとティア、それにルイゼとリーナ。

 四人で歩く姿を想像する。四人とも幸せそうに笑っている。


 なぜ、その未来に辿り着けなかったのか。途方もないやるせなさが胸に広がっている。

 二人とも思いはひとつだった。それなのに、どうして一緒になれなかったのか。


 木の陰に隠れるセオドリクには気がつかず、母子が明るく話している。


「リーナ、昨日はたくさん馬車に乗って疲れたでしょう?」

「うん。ママ、抱っこー」


 抱っこ抱っこ、と小さなリーナがぴょんぴょん飛び回っている。

 とてもじゃないが、疲れているようには見えない。どうやらティアもそう思ったらしい。


「リーナったら、本当に甘えん坊さんね?」


 くすくすと笑うティアに、リーナは頬を膨らませている。


「パパなら、すぐ抱っこしてくれるもん!」

「パパはリーナが大好きだから、いっつも抱っこしたいって言ってたわ」


 照れくさそうに笑ったリーナが、可愛らしく首を傾げる。


「ママもパパ好き?」


 セオドリクは息を止めた。

 呆然と、ティアを見ていた。


「……うん。だぁいすきよ」


 ティアは満面の笑みを浮かべていた。

 咲き誇る花のような笑顔。セオドリクの愛に応えてくれたのと同じ表情。


(…………いや、違う)


 もう、決定的に違ってしまっている。


 

 今の自分がこれ以上なく幸せで、満ち足りているのだと、その笑みが裏づけている。

 ノイズなんて望んでいない。ただ愛する男と、愛する娘たちと共にあるのが幸福なのだと、伝わってきて。


(ティアは、もう、私に未練がない)


 セオドリクは信じられない気持ちで、目を見開いていた。


「ママはね、リーナもルイゼも、パパのことも大好きなの」

「ふぅん?……えへへ」

「なぁに、リーナったら、にまにましちゃって」

「なんでもなーい!」


(……なんだ、これは?)


 残酷なまでに美しい光景が、目の前に広がっている。

 淡い期待が粉々に打ち砕かれていく。跡形もなく踏み潰されていく。


 気がつけばセオドリクは、歩き出していた。

 戯れていたティアが、人影に気がついてリーナを庇うように抱きしめる。

 そうしながら、油断なくこちらを観察している。


「どなたですか?」


 その目が、徐々に見開かれていく。


「…………セオドリク?」


(さすがに、忘れてはいなかったか)


 セオドリクの口元に嘲りの笑みが浮かぶ。

 愛する女性に数年ぶりに名前を呼ばれたというのに、高揚するどころか、暗い愉悦のようなものが胸を覆っていく。


「どうして、あなたがここに?」

「君を迎えに来たんだ」


 ティアの身体が大きく震えた。


「馬鹿なことを言わないで」

「ママ?」


 声が張り詰めているのを不思議に思ったのだろう。

 不安そうにリーナが呼ぶと、はっとしたティアがその小さな頭を撫でた。


「大丈夫よ、リーナ。心配ないわ。パパのところに戻りましょう」


 リーナを抱きかかえて、離れていこうとする。

 その背中に、セオドリクは冷たい声を投げた。


「私を裏切ったんだな」

「……違うわ!」


 振り返ったティアの瞳に涙がにじむ。


 ぞくりとした。今、ティアの心を傷つけた。その実感があった。

 ティアは気丈な女だった。セオドリクの前で涙を見せたことは一度もない。


 ――ガーゴインさえ、ティアの涙は見たことがないかもしれない。


 そう思うと、堪らなく愉快な気分になった。

 ティアの夫となったあの男を、上回ったような気がしたのだ。


「違わない。将来を誓った私を捨てて、他の男と寝て、双子を産んだ。これが裏切りでなくてなんなのだ?」

「やめて。子どもが居るのよ」

ねやでのガーゴイン・レコットはどうだった? 堅物だと有名な男を落とした感想はどうだ?」

「――っ」


 ティアが片手を振り上げる。

 だが大人しく打たれるセオドリクではない。その手を取って無理やり引き寄せる。


 ティアの目は怒りに染まっていた。

 下品なことばかりを繰り返すセオドリクへの失望と悲しみがあった。


「私が、どんな思いで過ごしていたと思うのっ……!」


 そうティアが苦しげに叫ぶと同時。

 セオドリクは懐から取り出した魔道具を掲げて、こう唱えていた。



「何もかも捨てて私と一緒に来い、ティア」



 効果は劇的だった。


 宝石のように輝く瞳が、急に虚ろになる。

 先ほどまで荒ぶるようだった感情の波が、完全に失われている。


 セオドリクは呼吸を止めて、ティアの変化を――異様な変貌を見つめていた。


「……ママ?」


 何かがおかしいのに気がついたのか、リーナが怖々とティアを呼ぶ。

 ティアは大事そうに抱えていた我が子を、地面に下ろした。


「ママ、どうしたの? ママ……」


 袖を掴もうとする手を、ティアが振り払う。


 びくっと震えたリーナが見つめる中。

 ティアは淡々と、セオドリクが望む言葉を口にした。


「あなたと一緒に行くわ、セオドリク」


 ――ずっと、その言葉だけが聞きたかった。


 セオドリクの口元が、ゆっくりと歪んでいく。



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