第125話.秘書官は捕らえる
時は数日遡る。
エ・ラグナ公国とは海によって隔てられた国――アルヴェイン王国が港町。
活気づくユニリアの路地裏を、ひとりの青年が息を切らして駆けていた。
「くそっ、くそ……!」
ブルージュの髪が印象的な、眼鏡をかけた青年。
マシュー・ウィルクは何度も後ろを振り返りながら、薄汚れた路地裏を走り抜けている。
というのも彼の後ろを、二人の騎士が追ってきているからだ。
暗黒魔法なる未知の魔道具を使って、マシューはシャロンを操っていた。
シャロンを連れてエ・ラグナ公国へと渡り、そこでシャロンの婚約者だという男を殺す予定だったのだが……企みは、たったひとりの少女に見抜かれてしまった。
ルイゼ・レコットという名の伯爵令嬢は、シャロンをマシューの手の届かぬ場所に逃がしてしまったという。激昂したマシューはルイゼを攻撃し、船を飛び出した。
最初は怒り狂い、シャロンを捜すのに必死だった。
しかし時が経つごとにマシューも冷静さを取り戻した。
(きっとシャロンは、まだ船に乗ってたんだ)
シャロンを中央教会に送ったと言い張るルイゼの演技に騙された。
歯軋りしながらマシューは来た道を引き返した。
だが、そのときには遅かった。公国に向かう客船はそのときには陸から離れていたのだ。
それだけではない。港は何人もの騎士が監視していた。何者かを捜すように周囲を見回す彼らの姿に、恐ろしくなった。
町から出ようにも、門すらも騎士団が塞いでいる。
閉じ込められたのは明白だ。そして彼らが捜しているのは――、
「待て! 止まれ、マシュー・ウィルク!」
「……ッ」
やはり、全てがバレている。
止まれと言われて立ち止まれるわけがない。マシューは必死に足を動かし、騎士たちから逃げ惑っていた。
白銀の輝かしい制服からして、彼らは東宮所属の護衛騎士たちだろう。つまりマシューを追い詰めているのは、第一王子であるルキウス・アルヴェインだということだ。
何もかも見透かされているような気がする。
こうして情けなく逃げ続けるマシューの姿さえ、あの青い瞳に見下ろされているのではないかと。
(でも、ここで捕まるわけにはッ!)
入り組んだ路地裏の構造は把握できないが、それはまた王都で暮らす彼らも同じ。
マシューは積み重なった木箱を力任せに崩し、道を塞ぐ。これでしばらく騎士たちは追ってこられないだろう。
つかの間の安心を得た瞬間だった。
「諦めが悪いな、お坊ちゃん」
「――うわっ!?」
前方に現れた人影に、マシューはびくりと後退る。
目の前に積み上がった木箱の上に、長い足を組んだ青年の姿があった。
建物の隙間から入り込んでくる潮風に、ケープの裾がはためいている。
明るい茶髪に、同じ色をした瞳。会話したことはないものの、整った容貌には見覚えがある。
「イザック・タミニール……!」
ネイビーブルーの制服。
肩の腕章は、辺境伯家の家紋が鮮やかな金糸によって刺繍されたものだ。
ルキウスの懐刀と名高い男が眼前に現れたことに、マシューは驚きを隠せずにいた。
イザックは薄笑いを浮かべると、地面へと着地する。
「悪いがさっさと投降してもらえるか。一分一秒遅れるごとに、主の血管が切れちまうんでね」
ふざけた言葉に、マシューは嘲りの笑みを返す。
「お前の狙いは分かってる」
イザックは帯刀していない。
マシューを油断させ、会話を長引かせて、その間に後ろの騎士に挟撃させるつもりなのだろう。
だが、そんなつまらない策に嵌るつもりはない。
マシューはイザックへと向き合った。
騎士二人を相手取るよりは、この優男のほうがよっぽど気楽な相手だ。
「秘書官風情が!」
拳の形に握った右手を振りかぶり、マシューはイザックに襲いかかった。
大ぶりな一撃を、イザックは右方に躱してなんとか避ける。
しかし狭い路地裏だ。その後頭部が木箱のひとつに当たるのを見て、マシューは口角を上げた。
(死ね!)
背中に隠していた左手を、無防備な茶色い頭に振り下ろす。
手に握っているのは拾っておいた石だ。利き手をシャロンに切りつけられたのは想定外だったが、左手だろうと全力で殴りつければそれなりの威力が出る。
――だからそのあと、何が起こったのか分からなかった。
「…………は?」
取りこぼされた石が、地面に跳ねる。
弾けるような痛みが、手のひらを中心に広がっていく。
だらだらと額を流れる汗を感じながら、目をやれば……左手が真っ赤に染まっていた。
「安心しろ、太い血管は外してるから」
嘯くイザックの手の中を、くるりと閃くのは短剣だった。
そのまま彼は光るその先端を、マシューの首元へと突きつけた。
「ひッ……!!」
腰を抜かしたマシューは、その場に尻餅をついた。
もとより仕込んでいたのだろう。革のベルトで固定されたレッグホルスターに今さら気がつく。
だが、いつ引き抜いたのか。視界に捉えることもできなかったマシューは呆然とする他ない。
「おいおい、文官だからって甘く見たか?」
短剣についた血をイザックが払う。
その間に、木箱を退かした騎士たちが慌ただしく駆けつけてきた。
「ただの文官に、ルキウス・アルヴェインの秘書官が務まるわけないだろ」
イザックはにやっと、片方の口端をつり上げたのだった。
◇◇◇
捕らえたマシューを騎士に引きずらせ、イザックは教会へと戻る。
臨時拠点として使っている中央教会に、その姿はあった。
「遅かったな」
言ってくれる、とイザックは笑う。
「そっちもな」
ルキウスは一度、王都へと戻っていた。事の次第を国王たちに報告するためだ。
ルイゼを乗せた船は公国に向かって出航している。約一時間前のことだ。そんな状況でルキウスが王都に戻ったのは奇跡に近いが、イザックによる説得が功を奏したといえるだろう。
あのまま放っておいたら、船がなくとも泳いで海を渡っていたかもしれない。それほどにルキウスは冷静さを欠いていたのだが……。
(手早く説得は済ませたみたいだな)
【
それにしても一時間以内に彼が戻るとは、イザックは思っていなかった。フィリップはともかくとして、どのような話術でオーレリアを説き伏せてみせたのか。
と思っていたら、イザックの胸中の疑問を察したらしいルキウスがぼそりと。
「留守中の公務はフレッドに任せてきた」
おお、とイザックは声を上げそうになった。
今頃、全てを丸投げされたフレッドは王宮で青い顔をしているだろうか。一時期は土下座王子などと噂された第二王子が、実力を発揮する機会だと奮い立っていればいいのだが。
「それと通信文の内容だが、予定と少し変更した」
「ん? なんでだ?」
イザックは首を傾げる。
マシュー捜索の陣頭指揮を執っていたので、通信文については他の文官に任せていたのだ。
熱帯のエ・ラグナ公国では精密な魔道具の使用が難しい。
【通信鏡】が使えないため、彼の国では鳩舎を設けている。アルヴェイン王国やカッサル共和国でも、公国とのやり取り用に鳩を飼育している。大公の住むムシュア宮宛てに複数放っているが、無事に着くだろう。
届いた二日後には、アルヴェイン王国の一団がエ・ラグナ公国にあるムシュア宮に到着する寸法だ。迎えの用意もへったくれもないだろうが、事前に達しを出すだけでも良しとしてほしいところである。
予定では、通信文には【空間加湿器】献上のための訪問であることと、ルイゼの保護についてを記す予定だった。
「ロレンツが王宮に来た」
「カーシィ卿が?」
ヤズス地方を治めるロレンツ・カーシィ辺境伯。
彼は現在、エラの町で暗黒魔法に侵されたガーゴインとリーナを監視する立場にある。
そんな中、ロレンツが【扉】を使い王都へとやって来たのには当然事情があった。急遽、伝えたいことがあると謁見を申し出たロレンツの話を加味し、ルキウスは文面を変更したのだと言う。
「ルイゼの現在地を、誰にも悟られないほうがいいとロレンツは言った」
現在、中央教会で休んでいるシャロンが、ルイゼの白衣のポケットにある物を仕込んだのだという。
ルキウスはそれを利用し、通信文の内容を書き換えた。といっても単純に、ルイゼの名を
港では現在、騎士たちが総動員で船に【空間加湿器】百台を積んでいる。
魔道具祭の在庫――は一台も余ってないとのことで、これは今後のためにと魔道具研究所で準備していた分だ。協力を求めたところ快く応じてくれた。
事情は端的な説明に留めたが、彼らも今朝からルイゼの姿がないことに気がついていただろう。それでも、ルキウスに全てを託してくれたのだ。
騎士のひとりが駆け寄ってきた。もうすぐ積み荷が完了すると言う。
その報告を聞いたルキウスが、当然のように言い放つ。
「あとはルイゼを迎えに行くだけだな」
万全とは言いがたいが、後顧の憂いなし。
まっすぐに港に向かう背中を、イザックは追いかけた。
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