第三部.光の花嫁

第121話.エ・ラグナ公国へ

 


 ――遠くから、声が聞こえていた。



 その声を、よく知っている。耳に心地よい、低く掠れた声音だ。

 何度もルイゼのことを呼んでいる。心配そうに、強く求めるように。


 ルイゼも彼に答えようとした。

 私はここに居るのだと、そう伝えたい。それなのに、嗄れた喉からはうまく声が出ない。


(ルキウス様……)


 次第に声は遠ざかっていく。

 ルイゼが答えられないから、別の方角を捜しに行ってしまったのだ。

 切なくて、その名前を心の中で懸命に叫んだ。


(ルキウス様!)


 ……肩を揺さぶられて、ルイゼはゆっくりと目を開けた。


 日に焼けた男たちの顔が、不安そうにルイゼのことを見下ろしている。

 目が合うと、彼らは少しだけ安堵したような顔をした。


 痛む頭を押さえて、ルイゼは記憶を辿る。

 それで思いだした。公国行きの船に乗ったこと、マシューに暴行されたこと、シャロンを船から降ろしたこと、そのままルイゼは意識を失ったこと……。


 倒れたルイゼは、積荷の点検に来た彼らに発見されたらしい。


「大丈夫か? いったい何があったんだ?」


 その内のひとり、屈強な男性がその場に膝をつき武骨な口調で訊いてくる。

 ルイゼが頭から出血しているためだろう。客同士の諍いでもあったのかと不安に思っているらしい。


「連れは居るか? ああそうだ、すぐ責任者を呼ぶから……」

「いいえ、平気です」


 ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。

 ルイゼは痛む頭を庇いながら立ち上がった。


「でもアンタ、ひどい怪我を」

「これは血糊です。お騒がせしました」


 にこやかに言うルイゼ。

 ぽかんとしている船員たちを置いて、荷物を手にその場を立ち去る。


 一度だけ振り返って確認したが、誰も追いかけてはこなかった。

 魔道具研究所の制服姿のルイゼは貴族には見えなかったかもしれないが、年若い娘が船上で襲われれば船員にも責任が問われる。これ以上、関わり合いになるのを避けたのだろう。

 木板の上にも血は流れていた。掃除の手間をかけて申し訳ないが、彼らは事件の痕跡も丁寧に消し去ってくれるはずだ。


 何事もなかったような顔で甲板へと出る。屋根つきの甲板に人気はなかった。

 手庇をして、ルイゼは目を細めた。海にキラキラと反射する朝日が眩しい。

 海上を吹く風は、汗で濡れた首筋をさわやかに拭ってくれるようだった。


 あおられて乱れる髪を、片手で押さえる。


「『ヒール』」


 小声で呟けば、黄金色の光がルイゼの周囲に散る。

 鈍い痛みを放っていた頭部が軽くなる。半日ほど経てば魔力は回復する。魔法が問題なく使えたことと、景色からしても、ルイゼが倒れてから一日以上経過しているのは間違いなさそうだ。


 既にアルヴェイン王国からは遠く離れている。

 振り返っても、国内で最も巨大な建造物である王城さえ確認はできなかった。

 ルイゼの働く魔道具研究所も、どんなに目を凝らしても見えるはずはなくて。


 どうしようもなく、心細い気持ちだった。


(でも……)


 ――実はほんの少しだけ、ドキドキしてもいる。


 というのもルイゼは、生まれ育った王都からほとんど出たことがないのだ。

 レコット伯爵家の領地には別荘があり、幼少期に遊びに行ったことはあるが、旅行の経験もそれくらいのもの。

 ルキウスとヤズス地方に【ゲート】を使って向かった際もとんぼ返りだった。とてもじゃないが、観光する余裕などなかったからだ。


 エ・ラグナ公国は、炎の魔石の産出量で第一位を誇る国だ。

 一年中、暑い気候のため誤作動を起こす魔道具が多いという。魔道具はあまり発展していないが、日焼け止めクリームなどの有益な化粧品を開発して国交を盛んにしている。


 そしてルイゼの友人であるジェーンが、ほんの数日前に嫁いだ国でもある。

 ジェーンは元気にしているだろうか。ルイゼの出した手紙はしっかりと受け取ってくれただろうか……。


 そこまで考えたところで、はたと我に返るルイゼ。


(私ったら……。今回も観光の暇なんてないのに)


 慌てて首を横に振り、不埒な考えを打ち消す。

 マシューは捕まったのか。シャロンは無事保護されたのか。問題は山積みなのだ。


 専属侍女であるミアから渡されている巾着を開けてみる。

 覚えていた通りの、数枚の硬貨だけがその中に入っている。いかにも心許ない金額だ。


(帰りの船代を稼いで、すぐに王国に戻らないと)


 こうしている今も、多くの人に心配をかけているはずだ。


(ルキウス様のところに、早く)


 夢の中で、その声だけが聞こえた。

 彼は優しい人だけれど、今回はかなり怒られる気がする。それでもいいと思えた。どんなに怒られても、ルキウスの元に帰ることができるなら。


 こうして見ると小さく見える大陸の方角を、最後に一度だけ見てからルイゼは船内に入った。

 向かう先は二等客室だ。船に乗り込む際にきちんとチケットは買っているから、堂々としていればいい。


 ルイゼの客室は四人用の部屋になっていた。

 他の客たちはベッドにカーテンを引き、まだ眠っているらしい。できるだけ物音を立てないようにしながら、空いているベッドに荷物を置く。


 少しだけ空腹感もあった。まだ朝食には間に合うだろうから、まずは身だしなみを整えたい。

 できれば湯浴みをしたいが、なんせ公国に向かう船の中である。水や湯を使った魔道具は置いていないだろう。


 ルイゼは荷物の中を漁って、桜色の魔道具【クリアシャワー】を発動させた。

 一陣の清涼な風が吹く。服の汚れや埃を、魔道具は一瞬で拭い取ってくれる。


(このまま公国に持ち込んだら、壊れちゃうかもしれないけれど……)


 ミアたち使用人がみんなで購入してくれた大切な品だ。

 気休めかもしれないが、手巾に丁寧に包んでおく。あとはもう祈るしかない。


 遠く、汽笛の音が聞こえる。

 船は少しずつ、エ・ラグナ公国へと迫りつつあった。









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本日1月8日より、第2巻の先行配信がコミックシーモア様・BOOK☆WALKER様にて始まりました。

書籍版の発売日は1月20日です。ぜひぜひお手に取っていただけたら幸いです。

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