第108話.突き落とされていたのは
華奢な少女の身体が、滑り落ちるようにして闇に呑まれて。
――その、数秒後。
ハァ、ハァ、と荒い息を吐き出した人影は、歓喜のあまり叫び出しそうになっていた。
(やった……やってやったわ……!)
興奮のために、身体がブルブルと震える。
これで邪魔者のルイゼ・レコットはようやく消えたのだ。
今まで散々頭を悩ませてきた障害は、こうして消すことができたのだ。
こうしてルイゼを葬った以上、この場に留まるのは危険だろう。
研究所に所員はほとんど残っていないようだが、先ほどまでルイゼと共に水色の髪をした女性の姿があった。
ルイゼが帰ってこないからと、こちらを見にくる可能性もある。そのとき鉢合わせになれば、言い逃れは難しくなる。
そう分かっているのに、この場からなかなか動けずに居るのは、手に残った感触が強いからなのか。
人を突き落とした感覚に、痺れるように震える腕が。
(やってやったのよ、この私が……ッッ!)
『悦に浸ってるところ、悪いな』
――心の臓が、冗談でなく止まるかと思った。
それはまるで、「ちょっといい?」と話しかけられたような、軽やかな声音だった。
だが、あり得ない。周囲に誰も居ないのを確認して、事に及んだのだ。
表情を凍りつかせたまま、振り返る。
恐る恐ると首の向いた先には、二足歩行のぬいぐるみだけが立っている。
明かりがついていないからか。
昼間見かけた際には明るい案内役のように見えていたそれは、顔に濃い陰影が差していて、こちらを見下ろす姿は不気味な印象を醸し出している。
そしてその周囲を恐る恐ると確認しても、やはり他の人影はなく。
まさか。
(……ぬいぐるみが、喋った?)
そんな馬鹿な、と思う。
しかし魔道具研究所は、魔道具を製作する場所である。そうした奇天烈な道具が人知れず完成していたとしても、おかしくはないのかもしれない。
怖々と、声に出して問うた。
「……誰…………?」
『ああ、さすがにこの格好じゃ分かんねぇか』
ぎょっとしたのは、明らかに、声が目の前のぬいぐるみから聞こえてきたからだ。
くぐもった若い男の声。どこかで聞き覚えがあるような気もするが、思い出せない。
否、本当は、理解するのを脳が拒否していたのか。
『よいしょっと』
状況にそぐわないかけ声と共に、もこもこの茶色い両腕が動き、それが重そうなぬいぐるみの頭を外す。
その中から現れた顔を前にして、悲鳴が出そうになった。
「……ルキウス殿下の、秘書、官……っ?」
「ご名答」
そこから現れたのは、整った顔に笑みを載せたイザック・タミニールだった。
彼はフゥ、と荒い息を吐くと、少々ふらつきながら頭部分を床に転がした。
見れば、薄闇の中でも肌が汗ばんでいるのが見て取れる。ぬいぐるみの内部は熱気が篭もりやすいのだろうか。
「っはあ、これマジでキツいな。覚えてろよルカ……」
「で、でも、ルイゼ・レコットは私が殺した!」
ブツブツ呟いているイザックに、思わず叫んだ。
「殺してやったのよ! だから全部、私の――」
「それ、確認したのか?」
「……え?」
見てみろ、というように毛むくじゃらの指を動かされる。
そういえば――と、今さらながらに思い出した。
つい先ほど、高階からルイゼを突き落としたはずなのに。
階下からは、一切の物音がしなかった――。
「…………」
ひどく嫌な予感を覚えながら、ふらふらと下階の様子を見下ろす。
すると、嘲笑うようにして。
ルイゼは当たり前のようにそこに居た。
しかも美丈夫の両腕に横向きに、大切そうに抱えられた格好で。
「ルキウス様。あの、私は平気ですから、そろそろ下ろしていただいても――」
「嫌だ」
むすっとした顔で応じるのはルキウスだ。
恥ずかしげに顔を両手で覆っていたルイゼだが、そんなルキウスの言葉に慌てている。
「以前も、君を囮に使うような真似をして……今回も、こうして危険な目に遭わせた」
「私が望んだことです、ルキウス様」
「たとえ君が言ったとしても、今後は了承できない。……了承したくない」
「ルキウス様……」
「お前ら、イチャついてないで上ってきてくれるかー?」
イザックが大きく呼びかけると、ルキウスが小さく頷き、颯爽と階段を上ってくる。
やはりルイゼを下ろす気はないらしい。まだ何か小声で言い合いしている二人の姿を眺めていると、全身から力が抜け、倒れ込むように床にしゃがみこんだ。
震え声で呟く。
「どうして……」
「ルイゼ嬢のことなら、事前に待機してたルカが風魔法で受け止めたんだ。だからもちろん無傷」
「今日の魔道具祭で、何か仕掛けてくるだろうと読んでいたからな」
イザックの言葉を引き継ぐように。
足を止めずにルキウスが、よく通る低い声で言う。
「騎士を数人、私服で歩き回らせたのもこのためだ。疑いのある人物の動きを確認する必要があった」
「アンタが研究所に入るところもバッチリ確認済みだぜ。それから、魔道具祭が終わっても他の客と違って、一向に建物から出てこないことも」
もはや口を挟む余裕もない。
綿密に張られた罠の中に飛び込み、小手先の策を練る自分の姿は、彼らにとってよっぽど間抜けに見えていたことだろう。
「んで、不具合を起こした【もふもふ君】に扮したオレが、ルイゼ嬢をここまで誘導してきて……ルイゼ嬢がひとりになったところを狙う不届き者を、こうして捕まえたってワケ」
「…………ふふ」
とうとう、笑みが漏れた。
道理で、都合良く物事が運ぶと思った。
なんてことはない。結局、全てがお膳立てされたことだったのだ。
それを疑うこともなく、天運に感謝して動いてしまった。
その結果、こうして完膚なきまでに追い詰められている。
「私は、最初から誘い込まれていたと」
「そういうことだ」
容赦なくルキウスが頷く。
階段を上り終え、目の前に現れた彼は、名残惜しげにルイゼを床に下ろした。
そのときになって、ようやく気がつく。
ルキウスたちだけではない。気がつけば周囲を、静かに騎士たちが取り囲んでいる。
会話に気を取られている間に、薄闇の中で包囲網は完成していたのだ。
あまりにも自分が愚かで、もはや表情筋は引き攣るどころではなかった。
闇に突き落とされていたのは、他の誰でもない自分だったのだ。
そんな哀れな女を睨むように見据え、ルキウスが口を開く。
「ノーラ・ハヤ。――全てを洗いざらい話してもらおうか」
シャロン・カリランの侍女である、年嵩の女は。
生気を失った顔で、ぼんやりとルキウスを見つめ返すのだった。
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