第86話.秘書官は拗ねる2
ヤズス地方を治める辺境伯ロレンツ・カーシィの名にてエラの町より届いた書簡を、イザックは執務室に置かれた長机の上に広げた。
そこに書かれていた内容を簡潔にまとめると、
――暗黒魔法を最初に発動する際には、対象を心理的に弱らせる必要があること。
魔法効果を持続させるには、七日~十日に一度は対象と接触しなければならないこと。
対象に一度に下す命令の内容は、ひとつか二つが限度であること。
魔道具は平均して数週間から数ヶ月で壊れるため、次の魔道具を使わなければならないこと……。
これらは間違いなく、セオドリク・フォルより魔道具を渡され、それを使い続けていたリーナよりもたらされた情報だろう。
(えーと。命令の内容ってのは、ルイゼ嬢を嫌うことに、リーナ・レコットを愛すること……それに、魔道具研究所の地下をセオドリクに好きに使わせることだよな)
リーナの一言で、ガーゴインの思考はその都度組み替えられていたということなのか。
そしてこちらは暗黒魔法に掛かっていたガーゴイン自身からのものだろう。
――魔道具を初めて発動された直後が、最も意識が濃く汚染されること。
つまり、
リーナやルイゼが傍に居ないときは、比較的意識が明瞭としていること。それらが書かれている。
書簡の端から端まで、主が真剣な横顔を落としているのを見ながら――イザックは邪魔にならぬよう小さく、感心の吐息を吐く。
(よく短期間でここまでまとめたな)
ガーゴインには記憶の混濁が見られていたし、リーナにとっては年端のいかぬ少女の頃の出来事も含むのだ。
そして体調面で芳しくない様子を見せる二人が、当時の記憶を辿るには相当な苦労を要したはずだ。
もちろん、王立治療院から派遣された治療師たちが熱心に彼らを看護しながら地道な聞き取りを続けた努力の成果があるだろう。
しかしそれ以上に、リーナとガーゴインが力を尽くしたのは明らかで。
(リーナ・レコットも、贖罪を果たそうとしてる……)
遠い地で妹と父が、少しずつでも前を向いていると。
そう知ったなら、きっとルイゼは喜ぶだろう。
「……ルイゼに知らせてやりたいな」
ぽつりとルキウスが呟く。
イザックがそう思ったのだから、ルキウスがそう感じたのは当然で。
だからこそイザックとしても歯痒かった。
これらは魔法省を代表してケチをつけてきたエリオットが居なければ、今すぐにでもルイゼに共有できるべき情報だったのだ。
(まぁ……奴らに隠れて知らせる方法くらい、ルキウスならいくらでも思いついてそうだが)
彼がそうしないということは、つまり、ルイゼがそれを望まなかったということで。
魔道具研究所で日々熱心に職務に明け暮れているルイゼのことだから、エリオットや魔法省の人々に認められていない自分には、まだ暗黒魔法に関わる資格がないと思っているのかもしれない。
(相変わらず真面目だよなー、ルイゼ嬢)
「――俺の私情を抜きにしても、ルイゼに知らせるべき情報だ」
するとルキウスが小さく、珍しく愚痴を言うようにそう漏らしていて。
彼の気苦労が伝わってきて、イザックはここ最近のことを思い返してみる。
ルキウス――そして国王陛下の意向としても、暗黒魔法の秘密については最小の人数にて共有すべきだとして意見が統一された。
現在、フォル公爵家の件も含めて暗黒魔法のことを関知しているのは、国王のフィリップに王妃のオーレリアを始めとした、国の一部の重鎮たち。
そしてルキウスとイザック、魔法省の役人連中、執行部の部長であるエリオット、それに魔道具研究所の課長二人と、あとはエラの町に居るロレンツや、数人の治療師たちに限られている。
研究所の課長全員に協力を要請すべきか、ルキウスは迷ったらしい。
だが最終的に、最も信頼がおけるとして術式刻印課のフィベルトと、外装加工課のユニにのみ事情を打ち明けたのだ。
(両課長とも、魔道具のことは熱心に調べ続けてくれてるそうだが)
魔道具研究所の課長たちは、つまりアルヴェイン王国を代表する魔道具の専門家である。
彼らが優秀なのは事実だが、フィベルトやユニたちは、既存の魔道具の改造や改良に長年取り組んできた人間なのだ。
現代の魔法や魔道具とは、一切の仕組みも成り立ちも異なる暗黒魔法を前にして、やはり門外漢なのは否めないらしく……それは他の課長たちも同様だろうと、本人たちも零していたらしい。
彼らは魔道具の開発者ではなく――王国内には残念ながら、ルキウスに匹敵するような実力を持つ開発者は無に等しい。
押収した魔道具を奇才天才だらけの魔法大学にでも持ち込めば、暗黒魔法について現在より多くの情報が得られるのは間違いないだろうが……しかし爵位は剥奪したとはいえ、自国の貴族の醜聞に絡む内容だ。
しかも、王国騎士団が調べ上げ、セオドリクは海上輸送にて魔道具を他国に運んだらしいことも分かっている。十年間に亘ってその事実が明るみに出なかったことは、まず責任に問われるに違いない。
この件で他国の人間を頼るのは、王国にとってはあまりにもリスクが大きいのだ。
そして、そんなアルヴェイン王国の未来を一身に背負わされたルキウスが。
知識と閃きにおいて申し分ないと、贔屓目なしに評価している唯一の存在が――ルイゼ・レコット伯爵令嬢なわけで。
(やっぱすごいよな、ルイゼ嬢……)
そう思うイザック自身、魔法ならまだしも、魔道具の分野では自分も役に立ちそうにないのでいろいろもどかしかったりする。
もちろん、ルキウスの筆頭秘書官であるイザックの役目は別にあると理解してはいる。ルイゼを羨ましがっている場合ではないのだということも。
「……やはり【通信鏡】をルイゼに渡しておくんだった」
「それならエリオット・エニマに内緒でルイゼ嬢に情報共有できるもんなー」
分かりにくい冗談に合いの手を入れると、「まったくだ」とルキウスが憮然とした面持ちで同意する。
しかし、そういえば――ルキウスは以前にも、ルイゼに【通信鏡】を渡そうとして申し出を断られたと言っていたことがある。
確かハリーソン・フォルにルイゼが襲われ、それをルキウスが撃退したときのことだ。あのときはあまり、深く考えていなかったのだが。
「そういえば前にもそんなこと言ってたけど……なんで断られたんだっけ?」
「まず価格が気になるらしい。それと、俺の顔が見たくてずっと覗いてしまうから、と言っていた」
(ノロケかーっ!)
イザックは机に突っ伏したくなった。
まったく、どこに罠が仕掛けられているか分かったものではない。
そしてこんな軽口を叩きながらも、ルキウスの明晰な頭の中では書簡の内容が休まず分析されているのだろう。
……ということがはっきり認識できているので、イザックも別に止めるつもりはないわけなのだが。
「それは俺の台詞だ、と返したら、恥ずかしそうに真っ赤になっていたな」
だがそんな秘書官の心情も知らず、ルキウスはさらりと真顔で続けていて。
(このノロケ、いつまで続くんだ……!?)
イザックは冷や汗を掻きつつも、昔よりずっと楽しそうな主人の様子を面白がってしまうのだった。
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