第85話.秘書官は拗ねる1
その翌日――ルキウス・アルヴェインは、"超"がつくほどにご機嫌だった。
普段、ルキウスの表情の変化はとにかく分かりにくく、そのせいで「氷のよう」などと他人から揶揄されてきた。
しかし今日の場合は、おそらくどんな人間が見ても、ルキウスの機嫌が抜群に良いことには一瞬で気がつくのではないだろうか。
というのも、彼を目にした文官たちが軒並み顔を引き攣らせて「秘書官殿。ルキウス殿下の表情筋のご様子がおかしいです……!」と報告してくるくらいなので、相当である。
かくいうイザックもビビっていた。
書簡を手に執務室に入れば、一目瞭然だったからだ。
(周囲にほわほわした花が散ってる……)
無論、錯覚なのだが。……たぶん。
今日も今日とてルキウスが書類仕事を手早く処理し続けているのはいつもと変わらないが、明らかにまとう雰囲気が違う。
ファンシーな花を背後に散らした、どことなく柔らかな面差しをおっかなびっくりと見つつ、イザックはルキウスに近づく。
「絶好調みたいだな、ルカ」
人目がないのを良いことに気安く話しかけると、ルキウスは机から顔を上げた。
「まぁ。そうだな」
「そうか。……いやー、数日前にゴミ袋持った彫像になってた男と同一人物とは思えないな!」
さすがにキレられるかと思いつつ、茶化すようなことを言ってみると。
ルキウスは面白い冗談を聞いたように小さく笑った。
「はは」
(はは!?)
戦くイザックに対し、ルキウスは無敵の笑みを浮かべている。
そしてこの男がこんなにも浮かれている理由など、考えるまでもなく。
(十中八九――いや、十中十、ルイゼ嬢のことだよなぁ)
昨日、ルキウスとイザックは久方ぶりに魔道具研究所に向かったのだ。
一ヶ月後に開かれる魔道具祭には、ルキウスも王子として、それ以上に国内外に名の知れた魔道具開発者として賛助を表明している。
毎日の公務をこなし、暗黒魔法についても研究を続け、服毒死したセオドリク・フォルの真意を掴もうと情報を集めながら――同時に、魔道具祭に向けて新しい魔道具の開発にまで取り組んでいるというのだから、やはりルキウスはどこかおかしいと思う。
超人なのは分かってはいるのだが、筆頭秘書官としては「もちっと休め!」と苦言を呈したいところだ。
といっても、ルキウスにとって魔道具開発というのは、どちらかというと気分転換に当たるようなので、イザックもあまり強く言うことはなかったが。
そして昨日は、ようやく時間が出来た中での研究所への来所だった。
だが、シャロン・カリラン公爵令嬢がルキウスの研究室に侵入しようとしたとかで、警報が鳴り響く慌ただしい中で……ルキウスに命じられ、イザックはずっとシャロンに張りついていた。
研究所には取調室のようなものは設けられていないので、致し方なく空いていた休憩室に通されたシャロンは、聴取に対してはやたらと協力的だった。
以前ルキウスとは親しくしており、彼の研究室があると聞いて、居ても立っても居られず訪ねたこと。
研究所に入るのは初めてで、認定証の使い方を正しく認識しておらず、騒ぎを起こし申し訳ないと思っていること……それらを滑らかに話す少女を監視しながら、イザックはなんとなく不気味な気分になった。
ルキウスの顔を見た瞬間に、まるで白馬の王子様が迎えに来たとでもいうように瞳を潤ませていたシャロンの姿は、イザックが今まで見てきた数多くの令嬢たちと同じ性質のものだった。
王族であるルキウスに選ばれたい。妻として迎えられたい。女として求められたい――あるいは、自分が選ばれるはずだと、なんの根拠もなく信じているような。
だが、厳つい警備兵からいくつもの質問を投げ掛けられながら、臆さず答えるシャロンの姿は毅然としていた。
最終的には、子煩悩だというカリラン公爵がわざわざ足を運んできて、娘を引き取っていったが……最後までシャロンは申し訳なさそうに頭を下げていたのだ。
そんなシャロンの姿を、ずっと心配そうに見つめていた魔法省のエリオットと共に見送ったときには、既に夜遅い時刻だった。
送っていくと申し出たが素っ気なく断られ、ルキウスも先に王宮に帰還したと聞いたので、そのあとはイザックも文官用の宿舎に直帰していたのだが。
(あれ?……)
そこまで考えたところで、すこぶる勘の良い秘書官・イザックは気がついた。
「ルカ、お前……」
「なんだ?」
「さては、ルイゼ嬢と思う存分イチャつくために――オレを見張りに行かせたな!?」
なんという男だ。恐ろしすぎる。というかひどい。
しかしルキウスは事も無げに頷いた。
「それが主な理由ではある」
(アッサリ認めやがった!)
オレだってルイゼ嬢と話したかったのに!……と続けようとしたイザックだが、思い直す。
最近のルキウスは多忙に追われ、魔法省のエリオットからは睨みを利かされ、ルイゼに自由に会えないことがかなりストレスになっているようだった。
それが今、これほど上機嫌なのだ。何があったかは知らないが、それこそ恋人たちにとって天に舞い上がるような幸せな出来事があったのだろう。
心から惚れ込んでいる主君の、未来の奥方と仲良くしたいという気持ちはあるし、それ以上にイザックにとってルイゼは話していて楽しい相手なのだが、何より二人が上手く行っている事実こそ嬉しいものだ。
……それでも、心情的にはちょっぴり拗ねてしまうが。
そんなイザックに、ルキウスは続けた。
「だがそれだけじゃない。……カリラン公爵令嬢のことが気になってな」
瞬きをするイザックに、ルキウスは「覚えていないか?」と首を傾げる。
その意外な言葉に――改めて、イザックはシャロンの容姿を脳裏に描いた。
ボブヘアーの桃色の髪の毛に、蜂蜜色の大きな瞳が印象的な愛らしい少女。
優雅な物腰で、おっとりとした微笑みがよく合っていた。
飾り気ない休憩室の椅子に座っている姿は違和感だらけで、警備兵たちも何度かたじたじになっていて……。
「…………ああっ!」
記憶の焦点が定まり、イザックは柏手を打った。
(そうか。あの子、あのときの!)
十年前のことだが、確かに面影がある。
だが思い出すと同時にイザックは首を捻った。
「……本当に同一人物か?」
昨日、約束もなしにルキウスの研究室を訪ねようとしたシャロン。
ルキウスの名を呼びながら、同情を引くように涙を零していたシャロン。
十年前の姿と結びつかないのも当然だ。
むしろ……思い返せば、十年前のシャロンと、取調中のシャロンであれば印象は似ているのだが。
「イザック。カリラン公爵令嬢について探れるか」
となれば当然、同じ疑問を抱いているはずのルキウスからはそんな言葉が飛んできて。
イザックは肩を竦めつつ、「おう」と頷いてみせた。
「任せとけ。……で、それとは別件なんだが」
「暗黒魔法の件か」
手にしていた書簡を見せれば、即座にルキウスは気がついたようだった。
どこか緩んでいた雰囲気は、その頃にはとうに消え失せていたのだった。
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