第84話.ルイゼ不足と、ルキウス不足

 


「っ……」


 両手の自由は、彼に奪われているから。

 ルイゼは見る間に紅潮する頬を隠すこともできず、しかし目の前の端正な顔から目を逸らすこともできず――為す術無く、ルキウスのことを見上げていた。


 そのせいか、ますます上機嫌そうに口元を緩ませたルキウスが顔を近づけてくる。

 さらり、と柔らかな銀髪が流れてルイゼの頬にかかる。そんなもどかしい感触にさえ、小さく身体が震えた。


「ルイゼは?」

「えっ……」

「ルイゼは毎日、俺のことをどれくらい考えてる?」


 どこか煽情的な色香を放つ瞳に見つめられる。

 鼓動が騒ぎ立てる。ドキドキと落ち着かない心音さえ、彼に見透かされている気がする。


 以前ならばきっと、恥じらいが勝ってとても答えられなかった。

 それをルキウスだって鷹揚に、許してくれるはずだとも身勝手に思っている。


 それなのに――何故かその日だけは、言葉だけが素直に出てきてしまって。


「……っと……です」

「え?」

「……ずっと……ルキウス様でいっぱいです」


 あんまり恥ずかしくて、とても、顔を見て伝える勇気はなかったが。


 蚊の鳴くような声での告白は、ルキウスの耳に違いなく届いたようだった。

 男らしい喉仏が、上下に動いて……薄い唇からは、溜め息が漏れた。


 彼が呆れたわけではないのだと、今はルイゼにも分かる。

 目の前の、白い頬には赤みが差している。ルキウスは間違いなく、照れていた。


 今まで見たことのないような、そんな表情が嬉しくて――また、ルイゼの胸はきゅうと疼いた。


「……どうしようかな。君が可愛くて仕方がない」

「ルキウス様……」

「キスしてもいいか、ルイゼ」


 もはや返事を返すのもままならず。

 逆上せたようになりながらルイゼは小さく頷いた。


「んっ……」


 性急に、口づけられる。


 冷たい壁に後頭部を当て、両手を彼に絡め取られたまま、何度も何度も、角度を変えて交わし合った。

 指と指の間に、彼の骨張った指がしかと這入り込んで、二度と離したくないというようにルイゼのことを捕らえていて。


 そんな――茹だるほどに熱く、激しいキスに翻弄され続けて。


(――も、もう、むり……!)


 ルイゼは数十秒で音を上げた。

 足腰が震えて、手を繋いでいなければ立っているのさえ難しかったと思う。

 というのも、このような、息をするのも苦しいようなキスなどまったく経験がなかったのだ。


 今までに二度、ルキウスと口づけを交わしたことはあった。

 急に奪われた一度目はともかく、二度目のときはもっと優しくて、穏やかで……とにかく、今日のものとは明らかに性質が違う。


 こんな、蹂躙されるような激しさは知らない。

 息継ぎの合間に、どうにかルイゼは抗議のために口を開いた。


「だ、だめですっ、ルキウス様」

「……なんで?」


 獣のような目に射竦められて、動けなくなる。

 怖いような、このまま呑み込まれたいとすら思ってしまうような――と考えかけて、ルイゼはそんな思考を振り払おうと必死に自分を奮い立たせた。


「だ、だって誰かに見られるかも……っ」

「見せつけておけばいい」


 その掠れた声音が目の前の男をますます煽っていることなど、精一杯の当人は気がつくこともなく。

 再び唇を奪われそうになったところで、ルイゼは思わず叫んだ。


「だめですっ! 心臓がっ!」

「……心臓?」


 ルキウスが瞬きをする。唐突に内臓の名前を出されて呆気に取られたのだろうか。

 その隙にどうにか、ルイゼは自らの危機を訴えようとした。


 このままでは本当に死んでしまうかもしれないと、どうにかルキウスに分かってほしかったから。



「止まっちゃいます、から……ドキドキ、しすぎて……」

「――――――、」



 しばし、ルキウスの動きが止まった。


 拘束されていた両腕が、ゆっくりと解放される。

 ルキウスは観念したように大きく息を吐いた。


 髪をぐしゃりと掻き上げて、どこか苦しそうに言う。


「ルイゼ。……君こそ、俺の心臓を止める気なのか?」

「そ、そんなつもりは……」

「いや、すまない。……君があんまりにも愛おしくて、我を忘れかけていた」


 飾り気なく、そのまま本音を取り出したかのように言われてますます赤くなってしまう。


 ……ほんのりとしたぎこちなさが漂う中、ルイゼは少しだけ乱れた服の裾を直す。

 両手の指に、まだルキウスの感触がはっきりと残っている。自分のとはまったく違う、男の人の大きな指に力尽くに愛撫されたかのような感覚が。

 それを自覚すると動けなくなりそうで、誤魔化し気味に延々と服の裾を弄り続けるルイゼのことを、ルキウスはジッと見ていた。


「研究所の制服、よく似合っているな」

「……ありがとうございます」


 ほんの三週間前にアルフに褒められたときは笑顔で返せたのに、今はまともに顔が見られない。

 ルイゼがすっかり狼狽しているのに気がついてか、ルキウスも腕を組み、常以上に静かな声で話しかけてくれる。


「仕事はどうだ?」

「そう、ですね……一律調整課のお仕事は多方面に渡るので、やりがいがあります」

「魔道具祭の準備も、君たちが中心になって動くと聞いたが」

「はい。まだ始まったばかりですけれど、自分にやれることを頑張ります」


 少しずつ笑顔が出てきたルイゼのことを安堵したように見守りつつ、ルキウスがぽつりと言った。


「俺も魔道具祭に向けて、新しい魔道具を考えている」

「えっ!」


 思いがけないニュースにルイゼは顔を輝かせた。


(ルキウス様考案の新しい魔道具……! いったいどんな物かしら)


 ぜひ詳細を聞きたい。明晰な彼は、次はどんな魅力的な発明を思いついたというのだろうか。

 好奇心ばかりを瞳に溢れさせて見上げるルイゼの頬を、ルキウスの手が撫でた。


「まだ形にはなっていないんだが。完成したら、いちばんにルイゼに見せるよ」

「はいっ。楽しみにしています」

「ルイゼも何か、考えているんじゃないのか?」


 まだ誰にも言っていないのに、どうして分かったのだろう。

 そう思いながらも、ルイゼは頷く。


「はい。研究所全体で目玉になる魔道具を造りたいのと、それと……私自身も、魔道具を造ってみたいと思っています」


 子どもの頃から、こんな魔道具があったら楽しそうだと何度も思い描いてきた。

 だからそのうちのひとつを、この機会に形にしてみたいと思っている。


(まだ【刻印筆】も支給されていないから、難しいかもしれないけれど……イネスさんやアルフさんなら、手伝ってくれるだろうし)


 気合いを入れるルイゼを、ルキウスは細めた双眸で見つめる。


「そうか。……でも、ちゃんと夜は寝るように。食事も三食きちんと摂って、くれぐれも無理はしないように」

「ふふ。大丈夫ですよ、ルキウス様」


 はにかみを返せば、心配性なその人の腕が、ルイゼの髪を引き寄せる。

 鳶色の髪先に瞳を閉じて口づけたルキウスは、一枚ののように美しく――ルイゼはしばし見惚れてしまった。


「……参ったな。ずっとこうしていたい」

「っ……」

「君に会えないだけで、こんなにも自分が弱るとは思わなかった」

「弱るって……ルキウス様が、ですか?」


 意外な言葉にルイゼが驚いて聞き返すと、ルキウスは困ったように眉を下げた。


「おかしな話だろう。この十年、会っていなかったのに……今では、ルイゼの居ない毎日なんて想像もつかない」


(それは……私もです)


 何とか口に出さずに思いとどまったのは、つい先ほどのルキウスの無体な所業が思い起こされたからだ。


(決して、いやだったわけではないけれど……)


「もう一度、キスしてもいいか」


 ……でも、今度こそ断ろう、とルイゼは固く決意する。

 だってそうしないと、今度こそ自分の心臓は壊れてしまうと思うから。


 意気込んで口を開いたルイゼは、しかし寸前になって唇をきゅっと結ぶ羽目になってしまった。


「駄目?」


(ひゃっ……)


 睫毛と睫毛が触れそうなほどの距離まで、気がつけばルキウスの美貌が迫っていて。

 再び壁に押しつけられた身体には、すでに逃げ場などなかった。


 そしてそのときにはもう――ルイゼだって、駄目なんて言えるわけがなくて。


(だって本当は……ルキウス様が求めてくださって、嬉しいから……)


 それに、と考える間もなく、音を立てて唇を吸われる。

 甘く痺れるような感覚が全身に広がっていって。


 ひとりでは立っていられないルイゼの腰を、ルキウスの腕が掴んで抱き寄せる。

 目の前がクラクラして、呼吸が苦しくて――でも、信じられないほどに幸せで。


「困った。何度口づけても君が足りない」

「………………私、も」


 キスの合間に呟く彼に、ルイゼは囁いた。


「足りません。……ルキウス様が」


 やはり今日の自分はおかしいかもしれない、と思いながら。

 驚いたように目を見開いて――それから蕩けそうに、甘やかに笑うルキウスを前に。



(……大好きです、ルキウス様)



 ルイゼはそっと目蓋を閉じて、彼に身を委ねたのだった。



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