第70話.一律調整課1
糊の利いた、新品の制服の袖に腕を通す。
動きやすいようにと、長い髪はミアに頭の高い位置でひとつに結ってもらう。
顔に薄化粧を施してもらえば、準備はすべて整った。
「行ってらっしゃいませ、ルイゼお嬢様。お荷物はお任せくださいませ」
にこやかに送り出してくれる専属侍女のミアに、ルイゼは笑顔で手を振った。
「ありがとう、行ってきます。また後でね!」
馬車に乗って向かった先は――ルイゼにとっては馴染み深い場所である、魔道具研究所だ。
研究所では春秋の二回に分けて、新規職員の採用試験が行われている。
ルイゼはその秋の試験に合格し、研究所への就職が無事に決まったのだった。
特別補助観察員であった頃は寮の客室を借りていたが、今日からは改めて別の部屋への入寮も決まっている。
許可を得たので隣の部屋にはミアと、そしてルイゼが怪我を治した白猫のエフィーも一緒に住み込むことになっている。
研究所に着くと、出入り口付近に警備兵以外の人の姿はなかった。
新規職員の人数については知らされていないが、おそらくそう多くはないのだろう。
(一緒に試験を受けた方も、三十人くらいだったもの)
確認のために、配属先の記された書類をカバンから取り出してみる。
そこに書いてあるのは、「一律調整課」の文字で。
(聞いたことのない課……)
集合場所については所内の地図の絵と共に掲載されているので、おそらくそこが職場になるのだろう。
木製のカード入れを首から提げたルイゼは受付を通り、さっそくその場所へと向かうことにする。
集合時間は午前八時五十分。あと二十分はあるので、余裕で間に合うだろう。
「……あっ! レコットさん!」
そんなことを考えながら廊下を進んでいると、聞き慣れた声に呼びかけられて。
振り返ったルイゼは表情を綻ばせた。
白衣の裾を揺らしてバタバタと駆け寄ってきたのはアルフ――第三研究室でも顔なじみだった彼だ。
やんちゃそうな糸目の青年は息を切らしてやって来ると、ルイゼの目の前で立ち止まった。
「お久しぶりですアルフさん。お元気でしたか?」
「久しぶり。ぜんぜん元気じゃないっスよ!」
今日も今日とて不健康そうな顔色の彼が歯を見せて陽気に笑う。
ルキウスも、第三研究室の人々の場合もそうなのだが、ルイゼの周りは研究に没頭すると自分を疎かにするタイプが集まりがちだ。
そう心配に思うルイゼ自身も、魔道具の解体に夢中になると寝食を忘れるタイプなのだが……今のところ、周りの侍女たちが止めてくれるのでどうにかなっていたりする。
「お祝いが遅れちゃったけど――改めて、就職おめでと!」
ぱちぱちと拍手してくれるアルフに、ルイゼはお礼を言って頭を下げる。
「ウィン先生も大喜びだったスよ。イネスさんも、レコットさんが観察員を辞めるって聞いたときは泣いて駄々こねてたけど……試験に受かったって知って、もう飛び跳ねて喜んでて」
――そう。
一ヶ月半前、ルイゼが特別補助観察員の認定証を返却したときは、第三研究室の全員が真剣に引き留めてくれたのだ。
それでもルイゼは彼らに伝えた。
秋の試験に合格して、ひとりの研究員としてこの場で働きたいのだと。
(試験勉強はもちろん、大変だったけれど!)
特別補助観察員として過ごし学んだ日々が無ければ、もしかしたら合格は厳しかったかもしれない。
それくらい試験は難しかったが、どうにか乗り切り……今、職員のひとりとしてこの場に立つことができている。
「というか制服姿、良い感じっスね! ポニテも可愛い!」
「ありがとうございます」
親指を立てて褒めてくれるアルフに照れ笑いしつつ、ルイゼはそういえばと気になっていたことを口にした。
「今まで誰も、制服姿の所員の方を見かけたことがないんですが……」
「ああうん、たぶん全員紛失してるから。もちろんおれも」
(紛失!)
衝撃の事実発覚だった。
だが確かに、第三研究室の面々も、知り合った所員も、ほぼ全員が私服に白衣をまとったというラフな格好だったので……アルフの言うとおり紛失したか、あるいは着用が面倒で着ていないのかもしれない。
「そういえば第三研究室の皆さんは……」
ルイゼがきょろきょろと周囲を見回すと、アルフは落ち込んだ様子でがっくりと肩を落とした。
「……実はおれだけ、異動になって」
「えっ! そうなんですか?」
「そうなんスよ! 決まったのはつい先週だったかなぁ。ここ数年はほとんど人事異動なんてなかったのに、魔法省大臣が代わった……つか、レコットさんのお父さんの休養の影響スかね……」
病気療養に入るガーゴインに代わって魔法省大臣に決まったのは、元副大臣のサミュエル・イヴァだ。
つまり彼の名の下、魔法省の直轄組織である魔道具研究所にも少しずつ変化が起きているということなのだろうか。
――もしかして、とふとルイゼは気がついた。
「……アルフさんの異動先って、一律調整課ですか?」
「そうそう! 確かそんな名前で――ってあれ? もしかしてレコットさんも?」
ルイゼが頷くと、アルフは明らかな安堵の色を表情に浮かべた。
「良かったぁ! これで百人力っス!」
「私もアルフさんが一緒でほっとしました」
話しながらも道なりに進んでいく。地図に記された集合場所まではまだ距離があった。
「そういえばイネスさんがキレてたっスよ。『室長ばっかりルイゼちゃんに会ってずるい!』って」
アルフの声真似と顔真似が抜群に似ていなかったので、ルイゼはくすっと笑みをこぼす。
「フィベルト室長には本当にお世話になってばかりなんです」
「貴族の集まりとかいろいろ、大変そうっスよねぇ。平民のおれにはまったく分からない世界だけど」
肩を竦めるアルフ。
最近のルイゼは、レコット伯爵代理として何度かパーティーや催しに出席している。
と言っても必要最低限のものに絞っての参加ではあるのだが。
(一部の人からはまだ、白い目で見られることもある……)
だが意外と言うべきか、そういった視線は日に日に減りつつあった。
というのも、ルキウスの帰国を記念して開かれた夜会で出会った人々が……密やかながらに、ルイゼの良い評判を広げてくれた影響が大きかった。
貴族の内緒話というのは、実際はとんでもない速度で広範囲に広がっていくものだ。
ルイゼが外国語を流暢に喋ったことや、ルキウスとファースト・ダンスを踊ったことなどは、夜会の出席者を中心にあらゆる場で語られ――気がつけば、"無能令嬢"としての噂を一気に退けてしまう勢いになりつつある。
それは"才女"と謳われてきたリーナが父と共に、一時的に表舞台から姿を消した影響も大きいようだった。
夜会でのリーナの振る舞いについても同時に悪い噂が広がっていたからだ。
(それと……フレッド殿下のおかげでもある)
これは後から知ったことだが、フレッドはルイゼに図書館で土下座してからも、毎日のように王宮で同じような行動を繰り返していたらしい。
王族としての権威が損なわれる――では済まないことなので、彼のおかげと言い切っていいのかは微妙だったが……それでも、ルイゼのことを思っての行動だったのは事実だ。
(やっぱりどこか、ズレているとは思いますが!)
「この前ルキウス殿下が久々に研究室に顔を出してくれたんスけど、そこで室長がレコットさんとダンスを踊ったことがバレて、そのときの殿下の表情がね……もう……」
そのときのことを思い出しているのか、アルフの顔が次第に青ざめていく。
実はその事件についてはルキウスの秘書官であるイザックから聞いていたルイゼは、どんな反応をしたものか分からず苦笑してしまった。
ルイゼには貴族の中に知り合いらしい知り合いが居ない。
そこで名乗りを挙げてくれたのが、術式刻印課の課長であり、第三研究室の室長でもあるフィベルトだった。
貴族の三男であった彼は既婚者で、小さな子供も居る。未婚であるルイゼのパートナーとしては最適で、何度か一緒にパーティーなどに出席した。
それでもフィベルトに用事があるときは、ひとりで出席している。
そうすると、周りを歳の近い貴族の子息たちに囲まれてしまうので……もともと人付き合いが得意ではないルイゼはかなり参っていた。
「これ、訊いていいことか分からないんスけど」とアルフがおずおずと前置きする。
「どうしてルキウス殿下にパートナー、頼まないんスか?」
「ルキウス様は……お忙しい方ですから」
「でもレコットさんが誘ったら、ゼッタイ断らないよねあの人!」
自惚れるわけではないが、アルフの言う通りだろうとルイゼも思う。
それほどにルキウスはルイゼのことを大切にしてくれている。想ってくれている。
(でも、今の私は……ルキウス様と公的な関係にはない)
妻であったり、婚約者であったり。
そういう形あるものに収まることは、今はできないと……そう、ルイゼはルキウスに伝えたから。
後悔したことは一度もない。
だが――王族である彼との距離を感じるのも事実で。
(観察員の認定証を返却してからは、余計に……)
「ルキウス殿下、貴族令嬢たちに囲まれて毎日キャーキャー言われてるらしいっスよ……まだ婚約者もいない最優良物件だから、当然かもしれないスけど」
「……はい。私もよく話には聞いています」
「そしてその全てを冷たくあしらってるとか。あの人、マジでレコットさん以外の女の子は眼中にないんスよ」
「そ――そんなことは」
ない、と反射的に否定しようとして、ルイゼは口を噤む。
ほんの一ヶ月半ほど前のことだ。
きっと心変わりしてしまう、と言ったルイゼに、キッパリとルキウスは言い放ったのだ。
(『万が一にも俺にそんな日は来ない』、って……)
ルキウスと語り合った言葉を、触れ合った体温を思い出すと、どうしようもなくドキドキしてしまう。
それと同時に……彼に会えない日々には寂しさが募っていて。
(……って、いけないわこんなんじゃ。私は、治療用魔道具を造るんだもの)
アルフが横に居なかったら頬をはたきたかったが、それは出来ないので拳を握るに留める。
(それまでは、弱音なんて吐いてられない……頑張らないと!)
その第一歩が、この魔道具研究所への就職でもあるのだ。
そう密かに奮起している間に、いつのまに集合場所まで辿り着いていたらしい。
立ち止まったアルフにつられ、ルイゼも足を止める。
そして地図が指し示す場所――集合地点にあったのは、
「……倉庫ですね」
「……倉庫っスねぇ」
顔を見合わせたふたりは、とりあえず頷き合い、目の前の倉庫の中に入ってみることにする。
木箱や雑用品の類が棚の上に積み上がった室内は、掃除がされていないのかかなり埃っぽい。
ゴホンゴホンと咳き込むアルフの傍ら、手にした書類にルイゼは再び目を落とした。
一律調整課の責任者として名前が記載されている人物が居るのだ。
「エリオット・エニマ様……男性の方でしょうか?」
「ああ、その人は――」
「時間通りに集合してるわね」
アルフの言葉を遮って。
硬質なヒールの音がカツンと響く。
振り返ると、倉庫の入り口にはいつの間にかひとりの女性が立っていた。
ルイゼよりは少し年上だろう、きれいな人だ。
金茶色の髪の毛は、兎の耳のように二つに結っている。
強い意志の宿ったワインレッドの瞳は、挑むような煌めきを放っていた。
そして彼女は、立ち尽くすルイゼとアルフに向かって。
にこりともせず言い放った。
「あたしはエリオット・エニマ。あなたたちの指導役を務めるため、魔法省から出向してきました」
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