第59話.逃げ出した先は1
その日、リーナは地下の独房を逃げ出した。
「ねぇ、これね、とっても重いし……ずっと着けたままだと痛いの。少しの間だけでいいから外してほしいわ」
世話役の女性にそう涙ながらに訴えれば、容易いことだった。
あまりにリーナが愛らしいものだから、きっと同情心を覚えたのだろう。
迷いながらも手足の拘束具を外した女の首に、リーナは昨夜の夕食時に隠しておいたスプーンを突きつけた。
しかも、ちょうど地下の見張りのひとりが手洗いに立ったタイミングを、わざと狙ったのだ。
そのおかげで、たったひとりで見張りを続行していた騎士に女を突き飛ばし、リーナはさっさと地下を抜け出した。
しかもその隙に――近くの棚に無造作に置いてあった、奪われた魔道具すらも取り返したのだ!
(やっぱりわたくしって、"才女"のリーナ・レコット!)
数日ぶりに地上へと飛び出したリーナは、踊り出したいほどの気分だった。
誰だって思いつかないような脱出劇も、あっさりと実現できる。それはすべて、リーナの類い希な才能あってこそだ。
「っ」
夏の太陽は眩しく、ここ数日、暗い地下に閉じ込められていたリーナの目の前がちかちかと光る。
しかし呑気にしてはいられない。
地下からは足音が追ってきているし、この東宮には憎きルキウスの配下だらけなのだ。
(早く逃げないとだわ!)
――実際の所。
その後のリーナの行動に関して、ルキウスの推測はひとつだけ大きく外れていた。
地下を逃げ出したリーナが一目散に向かった先は、ハリーソンが待つ魔道具研究所の地下ではなかったのだ。
リーナはぜえぜえと息を荒げながら、必死に走った。
あり得ないほどの薄着で王宮内を走る姿は、とんでもなく悪目立ちしていたのだが……そんなことは、気にしてはいられなかった。
(どこ……! どこにいるの!?)
きょろきょろと周囲を見回すリーナの耳に、そのとき――こんな大声が届いた。
「ルイゼ! 本当に僕が悪かったよ!!」
リーナはぎょっとした。
(ルイゼ!?)
まさか王宮内にルイゼが居るのか。
瞬間的に怒りで沸騰しそうになるリーナだったが、その目に留まったのは……庭園のド真ん中で地面に伏せた赤いマントの男だった。
それは、今まで生きてきた中でリーナが一度も見たことのないポーズだった。
その男は地面に直接座り込んで、噴水の方向に向かって頭を深く下げているのだ。
(は? 何あれ? ……なんかの儀式?)
「この通りだ、僕はすっかり反省している! だからっ、リーナとの婚約はすでに解消したんだ! 僕とやり直してほしい、全部僕が悪かったから!! 頼むよルイゼ!」
喚く男の傍には、不自然なまでに誰の姿もない。
まるで、誰もがそんな不審人物に呆れて遠ざかっているというように。
だが、遠目にそれを見ている間にリーナは気づいてしまった。
その声の主は、自分がよく知る人物で――探していた人のものだということに。
「……フレッド様……?」
そう大きな声ではなかったが。
なぜかその男はむくりと頭だけを起こした。
それからリーナと目が合うと、何度か瞬きをして。
「え? ほんとにルイゼ? ……じゃないな。お前はもしかしてリーナ……か?」
(――なんで、今さら)
リーナの胸を、ある種の衝撃が貫く。
しかしそれを頭を振って振り払うと、小走りにフレッドに近づいた。
フレッドも薄汚れた格好のリーナに驚いたようで目を見開いていたが、それについては触れてこない。
「フレッド様。こんなところで何を……」
「ああ。ルイゼに土下座してるんだ」
リーナは沈黙した。
念のためもう一度、周囲を見回す。しかし、何度見渡してみてもフレッドとリーナ以外、この場には誰の姿もない。
「姉がこの庭園の、どこに居ますの?」
「ルイゼは居ないよ」
「は?」
「でも毎日ルイゼに土下座をして、少しでもルイゼの名誉を回復させようと思って」
「はぁあ……?」
(コイツ、いよいよ気が触れたの?)
まさかリーナと婚約関係を解消されたショックで、正気を失ったのか。
そう思うほどだったが、そんなリーナにフレッドはアッサリと。
「"才女"はルイゼだったんだよな、リーナ」
「――!」
息を呑み、リーナはフレッドを睨みつける。
「違うんだ。……責めているわけじゃなくて、確認したかっただけだから」
フレッドは苦笑しつつ、そんなことを言う。
「何と言うか、僕の態度にも大いに問題があったから。別にリーナを恨んじゃいない」
(……何なの、コイツ)
的外れなことばかりを延々と言い放つフレッドに、心底うんざりとする。
誰がそんな下らないことを話せと言ったのか。
しかも自分だけが――何もかも反省したような顔をして語るフレッドを見ていると、不思議なくらいに苛立ちが止まらない。
(……いいわ。さっさとコイツのことは見限ってハリーソンのところに行けばいい。まだ利用価値があると考えていたわたくしが間違っていたわ)
リーナはフレッドに背を向けた。
(アンタなんか虚空のルイゼに思いを馳せて、そのまま死に絶えればいいわ)
そう念じながら、その場を立ち去ろうとしたときだった。
「ルイゼのところに行くのか?」
リーナはぴたりと立ち止まった。
フレッドが起き上がった気配がする。
彼はリーナが動かないと見ると、少しずつ近づいてきて優しい声で続けた。
「ひとりが怖いなら僕も一緒に謝りに行くよ、リーナ」
「………………」
……もう。
もう、限界だった。
「フレッド様」
リーナは満面の笑顔で振り返る。
そして、同じく笑いかけてくるフレッドの肩を――思い切り後ろへと突き飛ばした。
「――――バッカじゃないのッ!?」
尻餅をついたフレッドが、何が起こったか分からない顔つきでリーナを見上げてくる。
「ああもうっ、ほんとアンタって馬鹿よ! 馬鹿を通り越してイカれてる! むしろ狂気を感じるくらいだわっ!!」
「リーナ……」
「ひとりが怖いなら一緒に謝りに行く!? 冗談は頭だけにしときなさいよ! そんなんだからわたくしに騙されて、惨めな末路を迎えてるって理解してるわけ?!」
リーナは何度も地団駄を踏む。
きれいに舗装された石畳の道など、ボロボロに壊してしまいたいほどに。
――この男のすべてに、腹が立って仕方が無かった。
「誰が謝るもんですか! 誰が、誰がルイゼなんかにっ! わたくしから全部を奪っていったあんな女にッッ!」
リーナは駆け出した。
後ろから呼びかけてくる声があったが、振り向かない。
(あああああああッッ!)
イライラする。歯軋りが止まらない。
手近な物に当たりたくて、華やかに咲き誇る花々を踏み荒らし、伸びた
(ルイゼも! ルキウスも! あのムカつく側近の男も!)
リーナは頭を掻き毟りながら、呪いの言葉を繰り続ける。
(王妃も! フレッドもッ! そうよ全員――今すぐに死ねばいいのよっ!)
蔓に棘があったのか、いつのまにか手のひらには細かな傷がいくつもあった。
だが脳が焼き切れそうなほどの怒りが、そんな痛みさえも忘れさせる。
リーナは無我夢中で走った。
王宮の塀を跳び越え、裸足のまま、研究所の地下に向かって走り続けた。
――そしてようやく。
小さな森の中、地下に続く隠された扉の前に辿り着いたというのに。
なぜかリーナはそこで、木陰に身を潜めていた。
木にしがみつくようにしながら、自分でも恐ろしいほどに震えていた。
「……なんなのよぉ……」
リーナの見つめる先。
微笑むハリーソンの隣には――
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