第55話.悪魔の誘い

 


「お金に困ってるんですってね、ケイト」



 主人の娘であるリーナから。

 明け透けな言葉を投げかけられたケイトは、テーブルを拭いていた手をぴたりと止めた。


 ケイトは昨年――九歳の頃から、レコット伯爵家に奉公している。

 知り合いの家の伝手を辿って、何とか侍女見習いの役を得たのだ。

 正職の侍女に比べると給金は遥かに安い。それでも僅かに畑を持つだけで、領地のない小貴族であるクロム家では、ケイトの稼ぎが頼りでもあった。


 自分が頑張れば頑張るほど、家にまとまった仕送りを送ることができる。

 ケイトにとってはそれが何よりも嬉しかった。


「……確かに我が家は決して裕福ではありませんが」


 だから、リーナに答える声には少なくは無い棘が混じる。

 普段、ケイトが少しでも反抗的な態度を見せるとすぐにリーナは不機嫌になり、「出て行け」と怒鳴りつけてきた。


 しかし今日は様子が違っていた。ベッドに寝転がったリーナは、ケイトに向けて笑ってみせたのだ。


「弟が病で苦しんでいるんでしょう?」

「! どうして、それを……」

「あなたはわたくしの侍女だもの。わたくしはあなたのことをよく分かっているのよ?」


 リーナがにやにやと微笑む。ケイトは思わず、その笑みから目を逸らした。


 ケイトは、このリーナという年下の少女が苦手だった。

 我儘で、傍若無人。平気で他者を傷つけ、馬鹿にする。


 ケイトの珍しい髪色も、リーナはよく「老婆のようで汚らわしい」と笑いものにした。

 子供のすることだと自身に言い聞かせても、堪忍袋の緒が切れそうになることが何度あったことか。



(……この子に比べて)



 双子の姉であるルイゼは、リーナと容姿はそっくりだが似ても似つかぬ人格者だ。


 ルイゼは、世にも珍しい光魔法と闇魔法の使い手だという。

 だがそれをおごることもなく、誰にでも等しく慈愛を向ける。六歳の少女とは思えないほどに大人びている令嬢だ。

 そんな優しく美しい方だからか、先月は何と第二王子殿下の婚約者に選ばれた。


 いつも楽しげに、誇らしげにしているルイゼ付きの侍女たちが、ケイトは羨ましくて仕方が無かった。

 それでも見習いの立場で、配属について意見が言えるわけもなく……毎日、我慢をし続けて仕事に邁進してきた。


「弟が病で苦しんでいるから、何だと言うんですか」

「高い薬を買えれば、治る病なのでしょう? その費用を、わたくしが出してもいいと言っているの」

「……恐れながら、それはリーナお嬢様の独断で決められる話ではないかと思います」


 宮中伯を父に持つ娘だ。確かに、その小遣いからして並外れた金額だろう。

 だがケイトの弟を癒すための薬は、それで賄える程度の額でもない。


(もしも可能ならば、レコット伯爵にご相談したかった……)


 伯爵は懐が深い方だ。この屋敷での生活で、ケイトはよくそれを分かっていた。

 給金を前借りしたいなどという、見習い侍女の願いを聞き入れてくれるということは、さすがに無いかも知れないが……それでも、ケイトは一縷の望みをかけるつもりだった。


 だが数日前に伯爵夫人が亡くなった以上、もうそんなことは言い出せなくなった。

 愛する妻を失って苦しむ人に、自分の弟を助けてくれなどと懇願できるはずがなかった。


「それでは、私はこれで失礼します」

「待ちなさい、ケイト。お金ならあるわ」


 下がろうとしたケイトの足が、ぴくりと止まる。

 その隙をリーナは見逃さなかった。彼女は衣装棚の奥を漁ると、無造作に紐で括られた紙幣の束を取り出し……それをケイトに投げつけた。


「ほら、拾って。確かめてちょうだい、本物のお金でしょう?」


 ケイトは拾わなかった。だが、目は気がつけば釘付けになっている。

 こんな大金を目にしたのは初めてのことだったが、偽の紙幣には見えない。


「どこでこんなお金を」

「出所なんてどうでもいいでしょう? それはただの前金よ。わたくしのお願いを聞いてくれたら、その五倍を出すわ」


 ケイトは訳が分からなかった。

 貴族令嬢といえども、これほどの大金をポンと取り出せるわけがない。

 どう考えてもまともなお金ではない。そう分かっているのに。


 それでも、どうしても――目の前の札束が、目の前の景色を歪ませる。


(……このお金があれば)


 ごくり、とケイトは生唾を呑み込む。



「私は……何をすればいいんですか」



 待っていた――と言わんばかりに、リーナがとびきりの微笑みを浮かべた。

 近づいてきた彼女はケイトの目の前に立ち、妖しく唇の端をつり上げる。


「あなたの役目は一つきりよ。――ルイゼを騙すの」

「は……?」

「それもあなたみたいな、何の特技もない人間でも簡単。わたくしに顔を殴られた振りをして、ひたすら苦しげに呻きなさい」


 呆然とするケイトに、リーナは気にせず話を続ける。


「ルイゼはそれを見て、一所懸命に治癒魔法を使うでしょうけど……そもそも怪我をしてないんだもの。治るわけがないわよね?」

「そ――そんなの、すぐにバレるに決まって……」

「あなたの顔には傷のメイクを施すし、辺りに撒く血液には鶏の血を使うわ。馬鹿なルイゼなら騙されるわ」

「…………」

「決行の日時はまた連絡する。場所は、西階段手前の廊下よ。それと倒れるときは、万が一にもメイクだとバレないように俯いて倒れるの。大丈夫よ、その後に硝子の花器を壁にぶつけて壊すから、硝子で怪我を負うことはないだろうし」


 ケイトが口を挟む暇はなかった。


「あなたには重傷を負った振りをして、そのまま屋敷を去ってもらう。そのときにルイゼに恨みの言葉を吐きなさい。全部お前のせいだ、お前がリーナお嬢様の言うことを聞かなかったせいだって――そう言うのよ、ケイト。いいわね?」


 リーナが一言ずつを発するたびに、ケイトの顔からは血の気が失せていく。


(いったい何を考えているの……)


 すでに悪ふざけの範疇を完全に超えている。

 しかしそれ以上にケイトが震え上がったのは――それが


(この子に、この恐ろしい策を吹き込んだのは誰なの……?)


 ケイトはすぐに部屋を出ようとした。

 しかし、時は既に遅すぎたのだと――目をつけられた時点で終わっていたのだとケイトが思い知るのは、その数秒後のことだった。


「ああ、ここまで聞いておいて今さら断れるとは思わないでね? わたくしの後ろにはたくさんの怖い大人たちがいるのよ」


 再び立ち止まるケイト。

 じっとりと嫌な汗を掻く彼女を、さらに追い詰めるように。


「今すぐにあなたの弟に、薬と偽って毒を飲ませることだってできるの。小汚い屋敷の人間を丸ごと殺すことだって」

「…………ッ!」


 怒りの形相でケイトが振り返ると、リーナがケラケラと声を立てて笑う。


「やだわ、もう。そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃない。今からわたくしとあなたは共犯なのよ」

「共、犯……?」

「そうよ。……一緒にルイゼを騙して、嘲笑ってやりましょうね」


 動けないケイトの手に、無理やりリーナが紙幣の束を握らせる。

 可笑しそうに笑い続けるリーナを見下ろし、ケイトは混乱のあまり動かない頭で思った。



(………………悪魔…………)



 その言葉は、まさに目の前の少女を表すのにぴったりの表現だと。



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