第52話.私の初恋
ルイゼは少し冷めてしまった紅茶を、一口含んだ。
「それから私は……魔法学院に入学してからは、リーナに言われるがままにリーナの替え玉として過ごしました」
ルキウスの顔を見るのが怖く、俯いたままそう話す。
「試験や難しい授業には、私がリーナの振りをして出席をしました」
もしもルイゼが首を横に振っていたら。
きっとリーナはまた、躊躇いなく使用人の誰かを傷つけていたのだろう。
だからリーナの言うがままに、ルイゼは従うしかなかった。
家庭教師の先生にも辞めてもらい、人の交流からは遠ざかり、孤独な時間を過ごした。
近しい人が出来ても、すぐにリーナがルイゼの振りをして邪険に振る舞うものだから、いつからか友人を作ることさえやめていた。
(……でも)
それでも、ルイゼ自身にも非があるのは事実だ。
「私自身も、リーナと一緒に他の方々を騙した人間です。フレッド殿下、学院の先生方やクラスメイトたち。それに……ずっと、ルキウス様にも言えませんでした。あんまりにも自分が――情けなくて」
(……ルキウス様は、どう思われただろう)
こんな話を聞いて、彼がどんな反応をするのか。
まるで審判の時を待ち受けるような心持ちで、ルイゼは待った。
数十秒の沈黙の末に、ルキウスが口を開く。
「………………何故だ?」
ルイゼはおずおずと顔を上げた。
ルキウスの表情は、苦虫を噛み潰したように歪んでいる。
「何故、君がこうも理不尽な目に遭い、心ない言葉をぶつけられ、妹の代わりなどを務めさせられ――自身の誉れを汚されなければならない?」
「…………」
「そもそも治癒魔法で、病気の類は治らない」
「……ルキウス様の仰る通りです」
彼の言葉に、ルイゼはそっと頷く。
魔法省大臣である父だ。そんな初歩的なことを知らなかったはずはない。
そして知っている上で、ルイゼを責めたということは――
「父にとっては、ただの八つ当たりだったのだと思います。母が死んだ悲しみを、私にぶつけることで……きっと少しは、心の安らぎを得られたのかと」
ルイゼの声音が、他人事のように淡々としていたからだろうか。
ルキウスが耐えかねたように立ち上がった。
「それなら君の安らぎはどこにあるッ!?」
ルイゼは驚きに口を噤む。
(……ルキウス様が、声を荒げられるなんて)
ルイゼにとってのルキウスは、どんなときでも静かな、落ち着いた声音で喋る男性だ。
それが今、目の前で感情を露わにして激昂している。ルイゼは信じられない思いでそんな彼を見上げる。
「たった六歳の少女が、家族に罵倒され、救おうとした使用人にすら敵意の目を向けられ……そんなことはあまりにも――あまりにも理不尽だ……ッ!」
そう叫んだ直後に。
ルキウスは固まったルイゼに気づくと、はっとした顔をした。
……やがて、ぽつり、とほんの小さな声で呟く。
「……すまない」
ルイゼが何か言う前に、ルキウスは長椅子に座り直して深く俯いてしまった。
腕で顔を覆って、項垂れたようなその姿は――まるで、懺悔をしているようで。
「……だが俺には分からない、ルイゼ」
「ルキウス様……」
「傷つけられた君の安らぎは、どこにあるんだ」
しかしその言葉には、ルイゼは迷わず答えられた。
「ここに、あります」
弾かれたようにルキウスが顔を上げる。
ルイゼはじっと彼の瞳を見つめる。
肉親によって穿たれ、傷ついた。
この胸の痛みも、心を苛む苦しみも、きっと生涯消えないだろう。
(だけど――)
だけど、だからこそ、どんなに辛くても今まで生きてきたのは。
「ルキウス様。あなたが私の心を、救ってくださいました」
「……そんなことはない。俺は君のことを、こんな場所にずっと放っておいた。俺の所為で、君は」
「遠くで輝く星を、恨む人間が居ますか?」
むしろいつまでも、輝いていてほしいと思うだろう。
地上の自分には手の届かない場所でも。
どんなに焦がれても、二度と会えないとしても。
それでも――いつまでも誇らしく、その煌めきを見上げ続けるだろう。
(私にとってあなたは、それほどに眩しく特別な方だから)
ルイゼはすくっと立ち上がる。
ふたりの間にある、テーブルの横を回ると――ルキウスの前で立ち止まる。
それからその左手を取ると、引き寄せ……両手でぎゅっと握りしめた。
「……っ?」
ルキウスは呆気にとられたような顔をしていた。
そんな彼の表情を見るのも初めてで……ルイゼは思わず、可愛いと思ってしまった。
(そっちは口に出しては、言えませんけれど)
「……それに、ですね」
「それに?」
こほん、とひとつの咳払いを落としてから。
「それに――今はこんなにも近くにあなたが居ます」
ルイゼは笑った。
たぶん子供の頃とあまり変わらない、自然な表情で。
(あなただけが――私の安らぎだったんです、ルキウス様)
ほんの少しでもいいから、優しい彼に伝わるようにと祈って。
カタン、と椅子が揺れた。
その音を、どこか遠くでルイゼは聞いた気がした。
ずっと近くに端正な顔立ちがあって。
それから……唇になにかが触れていて。
けれどその温もりは、数秒の後に離れていく。
そこでようやくルイゼは我に返った。
(今、キス…………を)
目を見開いて呆然としたまま、ルイゼは人差し指で、自らの唇を撫でた。
確かに、感触が残っている。疑いようも無いほどに鮮明に。
「…………っ?!」
それを自覚した途端に、砕けかけた細い腰を逞しい腕が抱き寄せる。
ルキウスに抱き留められたまま――耳まで真っ赤に染め上げて、ルイゼは震える声で呼んだ。
「……ルキウス様」
「……卑怯だな、俺は」
感触を辿ったばかりのルイゼの手すら捉えて、ルキウスが顔をくしゃりとさせて笑う。
「君があまりにも、嬉しいことを言うから……それで、調子に乗った」
「…………っ」
「怒ったか?」
わなわな、とルイゼは唇を震わせる。
「お、……怒ってます」
「そうなのか?」
「はい。私、あの、とても怒っています」
「そうなのか。それは、悪かった」
笑みを滲ませた温かな目をして、ルキウスが笑うから。
ふいっと顔を背けて、ルイゼはご機嫌斜めの振りをした。
「……私、まだお返事も出来ていないのに」
「そうだな。本当にすまない。……自重はできないが、次はまず許可を求めることにする」
ズレた弁明をしつつも、ルキウスはルイゼを抱く手を離そうとはしない。
そしてルイゼも……そっぽを向きながらも、決して、彼の緩い拘束を振りほどく気にはなれなくて。
(――――最初から、分かっていた)
誰がいったい、怒れるのだろう。
だってこんなにも幸せで。
本当は胸が震えるほどの喜びに、息も止まりそうで。
恥ずかしいのに愛おしくて仕方が無くて。もっと触れ合いたいとすら、はしたなく考えていて。
ルイゼの心は、彼のことをいつも探して、求めている。
(私の安らぎ。私の星。私の……初恋)
涙が流れそうになったから、ルイゼは呆れた振りをして笑って。
それで精いっぱいに、誤魔化した。
(私は、どうしようもなく……あなたのことが好きです)
そうしないと心の声は、きっと彼の耳に届いてしまったから。
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