第51話.傷だらけの日
大好きな母が亡くなって、ルイゼは毎日のように泣き続けた。
ルイゼだけではない。使用人たちも悲嘆に明け暮れ、レコット家の屋敷は暗く陰鬱になっていった。
母は屋敷の使用人たちにも慕われていた。誰もがこのときを覚悟してはいたが、それはあまりに突然だった。
それでも時間は流れ、日々の生活は続いていく。
数日が経つと少しずつ、母との死別を受け止め、誰もが悲しみを乗り越えつつあったが――ルイゼの父であるガーゴインだけは、ずっと塞ぎ込み続けていた。
「ルイゼ、すまない。……ひとりにしてくれないか」
今日もルイゼが、本の記述で気になったことがあるのだと話しかけても……父は暗く落ち窪んだ目でルイゼを見ることもせず、自室に戻っていった。
廊下に取り残されたルイゼは、ぎゅっと眉を寄せる。
(……お父様は、お母様のことを本当に、心から愛していらっしゃった)
それ故に父は、母を喪った悲しみから少しも抜け出すことができずにいる。
食事もまともに取らず憔悴していく父の傍にいながらも、何もできないのが歯痒かったが……ルイゼに出来ることは、何もないのも事実で。
悔しくてもどかしい気持ちを抱えながら、ルイゼの毎日は過ぎていった。
+++
「お姉様、どうせ暇よね。話したいことがあるから来てくれる?」
そんな日々が続く中。
刺々しい口調によって呼び止められたルイゼは、無言のまま振り返った。
ルイゼの背後に仁王立ちしているのは、まったく同じ顔をした妹――リーナである。
父が心身の不調を起こしてからというものの、リーナの様子もまたおかしかった。
子供ながらの無邪気な残酷さを、容赦なく他者に向けるリーナ。
ルイゼのところにも、数人の侍女からリーナの横暴さに関して涙ながらの訴えが届いている。
以前までは父が注意していたが、今は伏せっているためにやりたい放題に振る舞っているのだ。
(……私が、しっかりしないと)
そうして拳をきつく握りしめるルイゼの背後に、リーナは鬱陶しげな目を向ける。
ルイゼの傍つきであるミアを、どうやら睨んでいるらしかった。
「ちょっと、あなたはついてこないでよ! わたくしはお姉様と話がしたいの」
「……私は大丈夫よ、ミア」
頷いてみせると、ミアは渋々ながら下がってくれた。
ルイゼはリーナに無理やり腕を引っ張られ、彼女の部屋に入る。
ルイゼと異なり、少女趣味の家具に溢れた部屋は――しかし、そこかしこの壁に穴や亀裂ができていた。
気に入らないことがあるとリーナは物を投げて暴れるというから、そのせいなのだろう。
そうして、部屋の様子をおっかなびっくりと見ていると。
「それでおねえさまの家庭教師なんだけど、辞めさせてもらえる?」
単刀直入に目の前のリーナにそう切り出され、ルイゼはきょとんとした。
「……どうして?」
「分かるでしょ? わたくしは魔法が使えないのよ」
それは知っている。
しかし、何故それがルイゼの家庭教師の話に繋がるのかが分からない。
戸惑うルイゼを、ぎろりとリーナが睨みつける。
「それなのにひとりで勉強を教わったりして……もしかして、わたくしに嫌がらせがしたいの? "魔力無し"だって馬鹿にしたくて仕方が無い?」
「っ違うわ! そんなつもりない!」
「じゃあさっさと教師を解雇して。そうしないと許さないから」
(リーナ、どうしちゃったの……?)
高圧的に迫ってくる妹を前に、ルイゼは呆然としていた。
確かに、自分たちは仲の良い姉妹ではない。ルイゼはいつも他者を貶すような言い方をするリーナが苦手だったし、リーナは暗くて地味なルイゼのことを馬鹿にしていた。
それでも、リーナがここまで一方的な態度でルイゼに接してきたことは無かったはずだ。
「……リーナ。闇魔法が使える先生って、本当に限られているの」
なんとか分かってもらおうと、ルイゼは口を開く。
「私の先生も、お父様が何とか見つけてくださった方で。光魔法の先生は、まだ見つかってもいなくて。……だから」
「だから何?」
「だから……私は、リーナのお願いは聞けない」
ごめんなさい、と頭を下げる。
きっと、リーナは分かってくれる。ルイゼの思いは伝わるはずだ。
そう思ったが――リーナは、鼻で笑っただけだった。
「……リーナ?」
「……いいわ、それならわたくしにも考えがあるから」
怪しい笑みを浮かべたリーナは、そのまま足早に部屋を出て行った。
何か、悪寒のようなものを感じて――ルイゼは慌ててリーナを追った。
しかし、もう廊下にリーナの姿はない。
どちらに行ったのか分からず、ルイゼはきょろきょろと周囲を見回す。
(リーナは、どこに――)
その瞬間だった。
――ガシャアアンッ! と硝子が割れたような、凄まじい音が聞こえた。
次いで、少女の絶叫に近い悲鳴が聞こえ……反射的に音のする方に向かって、ルイゼは駆け出す。
スカートの裾を踏んで転びかけながらも、必死に走った。
(なに? いったい何が……)
そうして普段はあまり使わない、屋敷の西階段の手前までやって来ると。
ルイゼは……惨状を前にして、凍りついた。
「何、これ……」
廊下には血の海があった。
その中に砕け散った硝子の破片と、切り花にされた黄色い百合の花が浮いている。
そして、それよりも何も。
「ケイト……?」
その真ん中でうつ伏せに倒れているのは、ケイト・クロム。
主にリーナについていた、侍女見習いの十歳の少女だ。
血溜まりは、ケイトの伏せた顔を中心に広がっていた。
それでもルイゼがすぐケイトだと分かったのは、身長が低かったからだ。
他の侍女たちは全員成人を迎えているので、すぐに見分けがつく。
「う、うぅ……」
くぐもったようなうめき声が聞こえてくる。
ルイゼは衝撃によろめきながら、ケイトのすぐ傍に立つ彼女を見つめる。
そこにふんぞり返っていたのはリーナだった。
リーナは、あまりにもこの状況に不釣り合いな満面の笑みを浮かべていた。
「どう? 少しは反省したかしら、お姉様?」
「……何を、言っているの?」
「お姉様って本当に頭の回転が鈍いわね。お姉様が言うことを聞かないから、この侍女に仕置きをしたのよ」
(――――え?)
ひゅっ……と、ルイゼの喉が鳴る。
本当は信じたくはなかった。
けれどその言葉からして、目の前の光景からして、もう疑いの余地はなくて。
リーナが、硝子製の花器の皿で――ケイトを殴りつけたのだ。
(……なんてことを……)
あまりの事態に、思考がうまく働かない。
だが凍りつくルイゼを、さらに急き立てるようにリーナが手を打った。
「ほら、お姉様! さっさとケイトを治してあげたら? だってお姉様は、治療魔法が使えるんだもの!」
「!」
リーナの言うとおりだった。
ガーゴインのみならずティアの魔法系統を受け継いだルイゼには、光魔法――即ち治療魔法が使えるのだ。
(早く助けないと!)
血の海を気にせず膝をついたルイゼは、倒れたケイトの顔の前に両手をかざす。
膝に鋭い痛みが走る。おそらく硝子の破片が刺さったのだろうが、自分のことなど気にしている場合ではない。
「『ヒール』!」
そうして唱えてみせれば、すぐに黄金色の光が溢れ出して。
……しかし、それが降り注いでもケイトは動かないままだった。
ルイゼは再度魔法を唱え直す。
「『ヒール』、『ヒール』、『ヒール』っっ!」
しかし結果は同じだった。ケイトは苦しげに呻くばかりだ。
(どうして? どうして魔法が発動しないの!?)
もっと上級の治療魔法でないと駄目なのか。
でもルイゼは他の魔法を覚えていない。独学で『ヒール』を覚えるのにも、かなりの月日を要したのだ。
ルイゼが焦る間にも、使用人たちが集まってくる。
しかしさすがに、この
そんな中、リーナのケラケラと嘲笑う声だけがルイゼを蝕んだ。
「なぁんだ。闇魔法も光魔法も使えるはずなのに、本当にお姉様って大したことないのね!」
「『ヒール』……『ヒール』……っ!」
「ほらほら、ケイトが痛がっているじゃない。早く治してあげなさいよ!」
「……っ」
魔法を連続で使ったせいか、目眩がしてくる。
それでもルイゼは唇を噛み締め、何十回目かも分からない魔法名を唱えようとした。
「『ヒー……」
「これは何の騒ぎだ!?」
そこに使用人に連れられやって来たのは父だった。
ルイゼは少しだけほっとする。
父ならばきっと何とかしてくれる。その思いで、口を開いた。
「お父様――」
「ルイゼ。お前が侍女にこんなことをしたのか!!」
びくっ! とルイゼは肩を震わせた。
(え……?)
激しい剣幕で、ルイゼを怒鳴りつけた父は……軽蔑するような眼差しでルイゼを見下ろしている。
雷に打たれたように硬直しながらも、どうにかルイゼは説明しようとした。
「ち……違い、ます。……リーナが、ケイトを……」
「妹に罪を擦りつけるのか。なんて下劣なんだ」
「違――お父様。違うんです……!」
「あーあ。お姉様って、本当に最低。ねぇお父様?」
横からリーナが口を挟むと、「その通りだな」と父が大きく頷く。
そして肩を竦めると。
言った。
「ティアもお前のせいで死んだんだ。お前がまともな治癒魔法が使えたなら、彼女は死ななかったかもしれんな」
……その言葉は、父と同じ顔をした人が発したはずなのに。
うまくルイゼは呑み込めなかった。優しくて、家族を誰より愛していた人の言葉だとは、受け入れることができなくて。
父の指示で、負傷したケイトが運び出されていく。
リーナはルイゼに嘲笑う笑みを向けてから、そんな父についていった。
ルイゼはそれを、為す術なく見送った。
ぽろぽろと、見開いたままの瞳から涙がこぼれ落ちていたが、拭うほどの気力も無かった。
ルイゼはそのまま、残った使用人たちが助け起こしてくれるまで……その場で声もなく泣き続けた。
その数週間後。
ルイゼはたったひとりでケイトの見送りをした。
神殿で治癒魔法を使って貰うには、多額の布施がいる。
ケイトの家は爵位を持ってはいるが、かなり貧しいそうだ。顔の治療は施さず、レコット家から出た手当金だけを持って、ケイトは故郷に帰ることにしたらしかった。
ひとりで屋敷を出ようとしていたケイトは、ルイゼが呼ぶと立ち止まったが……顔中を覆う包帯の中からは、憎悪の篭もった目だけが覗いていた。
彼女は、あまりにも淡々とした声音で言い放った。
「ルイゼお嬢様が、最初からリーナお嬢様の言うことを聞いてくださっていたら……私はこんなことになりませんでした」
そうしてケイトは屋敷を去った。
ルイゼはそれを黙って見送った。
涙は出なかった。もはや、自分には泣く権利もないと思えた。
(……お母様も、ケイトも、助けられなかった)
自覚する。
いっそ、呪ってしまいたいくらいに。
(私の力なんか、誰の役にも――立たなかったのね)
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