第44話.君の知らないこと

 


 正直なところ、大学に在学している間、ルイゼのことはまったく思い出していなかった。


 事実、それどころではなくルキウスは多忙な、そして充実した日々を送っていたからだ。

 王子としての公務を果たしながら、大学の講義に出て論文を書き、学生たちと白熱した議論を交わす。


 ルキウスにとって何より望ましかったのは、教授も学生も、誰一人としてルキウスが王族だという理由で敬遠したり、つまらない世辞を口にしなかったことだ。

 魔道具研究所も近い環境ではあったが、やはりあの国ではルキウスは王族のひとりとして丁重に扱われた。致し方の無いことだったが、そんなフィルターが取り払われた実力主義の世界こそ、ルキウスにとって心地が良かったのだ。


 そんな日々を送っているうちに、三年間でルキウスは大学の卒業資格を得ていた。

 しかし学ぶべきことは多く、時間はいくらあっても足りない。開発に携わっている魔道具も多かった。

 ルキウスは大学院へと進み、最初の三年間以上に密度ある七年間をそこで過ごすこととなった。




「リーナ?」


 その名前はある日、同じ研究室の学生から唐突に聞こえてきた。

 魔法大学への推薦スカウトを蹴ったという彼女の出身国がアルヴェイン王国だったために、同国出身のルキウスにその話題が振られたらしい。


 誰だそれは、と言いかけてルキウスは思い出す。


(ガーゴインの娘は双子だった……)


 そうだ。

 リーナ・レコットは、あの利発な少女――ルイゼの双子の妹だったはずだ。


「ルイゼ・レコットの間違いじゃないのか?」


 ルキウスがそう訊くと、学友たちは全員が首を傾げた。そんな名前には聞き覚えはないという。

 ルキウスはリーナに推薦状を書いたという教授にも会いに行った。

 彼は一度、才女リーナ・レコットの噂を聞いてアルヴェイン王国に向かい、そこでリーナの素晴らしい能力を目の当たりにしたのだと話していた。


「リーナ・レコットには双子の姉が居ます。彼女と間違えた可能性はありませんか?」


 そう訊いてみても、教授は首を傾げるだけだった。

 分からないことだらけのその日の夜、ルキウスは【通信鏡】で王宮に連絡を取った。


 そこで「帰国する」と、ルキウスは淡々と告げた。

 理由を問われたときは「ルイゼが大学に来なかったから」と答えた。それ以外の理由はなかったからだ。




 +++



 十年ぶりに会ったイザックや他の従者たちと、船の上で自分が何を話したかもよく覚えていない。


 王国入りするまでの間にも、ルキウスは数人から話を聞いた。

 そしてそこでは、驚くべき話が出てきた。


 フレッドの婚約者であるルイゼ・レコットが、"無能令嬢"として社交界で嘲笑われていること。

 この春卒業したばかりの魔法学院ではまともに試験を受けず、最下位の成績で卒業したこと。


 ルキウスの知るルイゼ・レコットという少女とは、まったく噛み合わない"ルイゼ・レコット"の話を聞くたびに――ルキウスは、ひどい違和感に襲われた。


 だが十年間という時間は短くはない。

 その間にルイゼは変わったのだろうか。


(……どちらにせよ、彼女に会うまでは何も分からない)




 そして。

 レコット家の屋敷を訪ねて、再会した十六歳のルイゼは――美しい少女に成長していた。


 艶めく鳶色の髪の毛からはほのかに香油の香りがした。

 ルキウスを見上げる紫水晶アメジストの瞳も、通った鼻筋も、さくらんぼ色の唇も……可憐以外の言葉では言い表せないほどに愛らしい。


 スカートの裾を持ち上げ、教本に手本として載っていそうなほどの完璧な淑女の礼を見せたルイゼが微笑む。


「ルキウス殿下。お久しゅうございます」

「……ああ。久しぶり」

「こうして十年ぶりにお目通りが叶い、光栄に思います」


 正直なところ、ルキウスは少し見惚れていた。まともに受け答えできたのは奇跡だったかもしれない。

 そんなルキウスの静かな動揺に、ルイゼが気づいていない様子なのが幸いだった。


(…………だが)


 ルイゼの礼儀作法も、その控えめな微笑みも、ケチのつけようがないほど整っている。

 しかし違和感はあった。彼女はひどく痩せていたし、化粧で隠してはあるが、目元には隈の跡さえも見て取れたからだ。

 今も彼女は、まともに眠れていないのかもしれない。


「大学留学のことはもちろん存じておりましたが、いつお戻りだったのですか?」


 本題をどう切り出そうか悩んでいると、ルイゼが気を遣って訊いてきた。


「……昨日戻ったばかりだ。気になる噂を耳にしたものだから」


 表面上は笑顔を浮かべてはいたが――ルキウスの言葉に僅かに動揺したのか、僅かにルイゼの眉が動いた。



「……君はてっきり、大学に来るものと思っていた」



 どこか拗ねた子供のような響きをしたそれに、自分でも驚く。


(俺は……ルイゼが来るのを、待っていたのか)


 ルイゼならあり得るかもしれないと思っていたのは事実だが、それを自分でも無意識のうちに待ち望んでいたのか。


 だとしたら随分と、勝手だと思う。

 この十年間、彼女のことをずっと放っておいたのに。


「……何があった? ルイゼ」


 ルキウスが核心に触れると、ルイゼはひどく驚き――ぎゅっと唇を噛み締めて、黙り込んでしまった。


(……話しては、くれないか)


 当たり前か、と心の中で自嘲する。ルキウスの存在など、ルイゼの中では大した物では無いだろう。


 しかも帰国直後に聞いたことだったが、数日前にルイゼはフレッドとの婚約を一方的に破棄されたらしい。

 そのフレッドは、ルイゼを切り捨てた直後に妹のリーナとの婚約を発表したとも言う。


 この十年間で、どれほどの苦しみがルイゼの華奢な身体を押しつぶそうとしていたのか――。


(彼女をこんな場所に置き去りにしたのは、過ちだった)


 今さらに押し寄せてくる強い後悔の念を覚えながら、ルキウスはルイゼを見つめる。

 小刻みに身体を震わせる彼女の手を、不用意に掴めなくなる前に。




(――あのとき、攫ってしまえば良かった)




 あのお茶会の日。


 父に呼ばれて少し悲しげに笑って立ち去ろうとした、六歳の彼女の右手を引いたとき。

 フレッドが婚約を結ぶ前に、あのまま手を引っ張って……明るい光の下へ、連れ出してしまえば良かったのだ。

 年齢に少し差があろうが、構いはしなかった。ルキウスにはそう出来るだけの立場と力があったのだから。


 そんなことを考えながらも、ルキウスの口はどうにか動いてくれた。

 フレッドと正式に婚約破棄をするために、ルイゼにも同意書を書いてもらう必要があること。

 ルイゼの都合さえ良ければ、ルキウスが付き添うこと。それを聞いたルイゼは安堵したような、申し訳ないような表情を浮かべていた。


「殿下のお申し出は非常にありがたいです。ですが父から謹慎の言いつけを受けておりまして、それが解けるまで外出は難しいかもしれません」

「君が謹慎? なぜ?」

「父によれば、家の名誉を汚したための罰と……」


 ルキウスは呆気に取られた。

 何だそれは、と心から思う。人々の前で婚約破棄を突きつけられたルイゼに、まだ罰を与えるというのか。


 それに、


(……ガーゴインは、ルイゼのことを愛していた)


 ――やはり、何かがおかしい。


 ルイゼのことだけではない。レコット家では何かが起こっている。

 しかしその全容の一端さえも、ルキウスには把握できていない。


(イザックに調査をさせるか)


 もどかしい気持ちを抱えながらも、ルイゼに伝える。


「この家は――君には狭くて窮屈だ。ルイゼにはもっと広い世界が似合う」

「ルキウス殿下……」



「これはたとえばの話だが、もしも俺とけっ」



 ルキウスははた、と我に返った。


(……俺は今、何を言いかけた?)


 結婚――と。


 そう唇が動こうとしたのは理解できている。しかし、感情の面は簡単に追いついてこない。

 そんなことはルキウスにとって初めてのことだった。いつも彼は、頭の中で思考を組み立ててから他者との会話に臨むからだ。


(結婚。それが手っ取り早いのは事実だが……いや、そういうことではない。彼女の意志を無視して進められるようなことではないし。そもそも俺とルイゼは、十年前に魔道具のことを語り合った友人同士というだけで……)


 歯車がぎくしゃくとして、あらゆる方向に思考が飛んでいく。

 密かに混乱し続けるルキウスを前に、ルイゼは心配そうに眉を下げていた。


「殿下、お顔が赤いです。もしかして熱があるのでは」


 何でもないと否定し、ルキウスは王宮に戻ることにした。

 このままルイゼと向かい合っていると、どんどん思いがけない言葉が口を突いて出てくるかもしれない。

 そんな情けないことになる前に、医務室に寄って早急に休憩を取った方がよさそうだ。


 玄関まで見送りに来てくれたルイゼを振り返り、ルキウスは思う。

 誓いを胸に刻むようにして、胸中で唱えた。



(……何としてでも。君をここから連れ出してみせる)



 まるで憐憫のような。

 同情のようで、慈愛を含んでいて、愛着に似て、独占欲を孕んだ思慕のかたまり。



 その感情が恋なのだとルキウスが自覚したのは、もう少し先のことになる。



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