第38話.蠢く影1

 


 ――今日は本当に、朝からいろんなことが起こった。



 ルイゼはすっかり疲労困憊になりつつ、王宮を出た。

 最初は本を借りたらすぐ戻ってくるつもりだったから、馬車の御者も待ちくたびれていることだろう。

 しかも結局、フレッドの土下座騒ぎによって本は借りられなかったのでまた後日借りに行かなければならない。


(家に帰ったら、一度仮眠を取って……それから……)


 馬車を待たせてあるのは王都の大通りだ。

 心なしかふらふらしつつ、大通りまでの道を歩いていると。



「リーナ」



 そう声を掛けられ……ルイゼは恐る恐ると振り向いた。


 誰かと思えば、すぐ後ろに笑みを浮かべて立っていたのは――


(ハリーソン・フォル……)


 フォル公爵家――魔法学院の学長を父親に持つハリーソンだった。

 ルイゼにとっては魔法学院の同級生でもあるが、話したことはない。

 その整った容姿から異性にはかなり人気があるらしく、学院でも目立つ存在だった。


 彼と個人的に親しかったのはリーナの方だ。

 リーナの替え玉をしていたとき、何度か彼にダンスに誘われたこともあったので覚えている。


 そしてフレッドによって婚約破棄を言い渡されたのが、まさに彼の両親の主催する夜会の場だったのだ。


「フォル様、ごきげんよう」


 ルイゼが躊躇いつつも淑女の礼を取ると、ハリーソンは驚いたようだった。


「何だよリーナ。第二王子に捨てられて落ち込んでると思ったのに、普段よりかわいげがあるじゃないか」

「……すみません。私は、リーナじゃなくて――」


 するとハリーソンは目を瞬かせてから……ニヤリと笑った。



「……ああ、そうだった。



(……………………え?)



 一瞬、ルイゼは何を言われたか分からなかった。

 だが、その言葉の意味が麻痺した脳に伝わった瞬間――恐怖のあまり、全身の肌が粟立つ。


 まさか、と思う。


(リーナが……私の名前を使っている?)


「また魔道具が壊れたんだろ? いつまでも取りに来ないから、待ちくたびれてたんだ」


 動けずにいるルイゼの腰に、ハリーソンの手が回される。

 その手がすり……と、肌を撫でさするようにうごめいて――不快さに「ひっ」と喉奥から悲鳴が漏れた。


「やめてください!」

「……何だよ。今日はずいぶんと乗り気じゃないな。まだリーナって呼んだのを怒ってるのか?」


(……なに、この人。さっきから何を言っているの?)


「さ、触らないで。お願いだからもう手を離して……」


 震える声で訴え必死にその腕から逃れようとするが、体格の良いハリーソンの身体はびくとも動かない。

 それどころか、ハリーソンは泣きそうになるルイゼに口角をつり上げ――その唇を、ルイゼの耳元に近づけてきた。


「何だよ。嫌がる振りをして焦らそうってか?」


 熱い吐息が吹きかけられる。

 ルイゼは叫び出しそうなほど怖ろしく、表情を強く歪めた。


(やめて。やめて、やめて……!)


 その瞬間。




「――うわっっ!?」




 一陣の突風が吹いた。


 素っ頓狂な悲鳴を上げて、男の身体がルイゼから離れる。

 かと思えば、その身体は塀に叩きつけられ……ハリーソンが苦悶の声を上げた。


 ゴホッ、と咳き込むハリーソン。

 戸惑いながら立ち尽くしていたルイゼは、唐突に誰かに手を引っ張られた。

 目深に黒いフードを被ったその長身の人物は、ルイゼに言う。


「こっちだ」

「!」


 その手を、反射的に強く握りしめる。


 ふたりはそのままハリーソンを置き去りにし、一目散に路地裏へと駆け込んだ。

 胸元からコンパクトを取り出したその人物は、ハリーソンの様子を観察しつつもそこに向かって低い声で呼びかけた。


「イザック。すぐに追え」


 おそらくそのコンパクトは――小型の【通信鏡】だったのだろう。

 ルイゼは、その人の腕に抱きかかえられるような姿勢になりながらも……しばらく呼吸を押し殺していた。



 ……そうして、ルイゼにとっては気の遠くなるような時間が過ぎ去って。



「すまない。……怖い思いをさせた」


 頭上から、そんな温かな声が聞こえた途端に――瞳から、涙の粒が零れた。

 いけないと分かっていても、次から次へと溢れて止まらなくなる。


 身分を隠すためなのだろう。

 黒いフードを脱いだルキウスが、苦しげに表情を歪めてルイゼを見つめていた。


「る、ルキウス、様……」


 ルイゼは涙に濡れた声でその名を呼んだ。

 彼に縋る手が、小刻みに震える。

 否、手だけではなかった。ルイゼの全身は、がたがたと音が出るほど震えていた。


「ルキウス様、わたし、っ私……」

「無理に喋らなくていい」


 不器用な手が、優しくルイゼの頭を撫でる。

 そんな優しさに甘えて――思わず自分から、強くルキウスにしがみつく。


 一瞬、ルキウスは驚いたようだったが……それでもルイゼの身体を遠ざけることはしなかった。

 そうして、ぽんぽん、と軽く頭を撫でてくれた。


 髪を梳く手に、目を細めて……ルイゼはようやく、まともに吐息ができるようになった。


(さっきは、あんなに怖ろしくて仕方が無かったのに)


 その広い胸板に、身を預ける。

 ルキウスの体温も、少しだけ速い心音も、次第にルイゼの気持ちを落ち着かせていく。


(ずっと、こうしていて欲しい)


 はしたなく、そんなことを思ってしまうくらいに――ルキウスの腕の中は安心して。


 それでも、永遠にそうしているわけにはいかず……ルイゼは名残惜しく感じながらも、そっとその腕の中から顔を出す。

 ルキウスは誰よりも優しいが、ただその優しさに甘えていたいわけではないのだ。


(ルキウス様に、何があったか伝えなくては)


 ルイゼには、まだ何が何だか分からないが。


(何か――いやな、予感がする)


 鼓動をむやみに騒がせるその予感の元を、ルキウスへと伝える。


「ルキウス様。彼……私のことを、リーナと呼んだんです」

「何?」


 ルキウスが目を見開く。

 ルイゼはおずおずと、その先を伝えた。


「それに、また魔道具が壊れたんだろう――とも」



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