第18話.ルイゼの実力2
「『アンタが、第二王子に捨てられた無能で間抜けなルイゼ・レコットねっ! 近くで見るとますますバカっぽいのね?』」
ルイゼは呆気にとられていた。
それは何故かと言えば――無論、目の前の女性の言葉の意味が分からなかったからではない。
(ジャライア語……この国にも話せる方がいるのね!)
エ・ラグナ公国の外れにある部落、ジャラ。
そこに住む人々はジャラ民族と呼ばれ、獣を狩り、野山を駆けまわる生活を送っているという。
何故彼らの使う言葉をルイゼが理解できたかというと、それはルイゼが
丁寧な解説書などあるわけがないので、もちろんすべて独学で。
アルヴェインの公用語とは似ても似つかぬ複雑な言語体系なのもあり、最初の一冊を読み解くには数週間もの時間を要した。慣れてくると存外楽しいものだったが。
それを思い出すと、ルイゼは初対面だろう目の前の令嬢に親近感を覚えてしまう。
(もしかしてこの方も、私と同じように独学で学ばれたのかしら)
彼女と、その父親がジャラ民族でないのは明らかだ。
何故ならば、ジャラ民族は生まれつき浅黒い肌と、金色の目を持つ種族とされているので、目の前のふたりの身体的特徴とは明らかに違う。
――何はともあれ、人前でジャライア語を実践する良い機会である。
ルイゼは笑顔で口を開く。
「『ええ、そうですね。仰るとおり、私は第二王子に婚約を破棄されたルイゼ・レコットですよ』」
すると……目の前の彼女の表情が一変した。
得意げな顔つきだったのが、次の瞬間には目を剥いて愕然としている。
数歩後ずさると、父親の服の袖を夢中で引っ張るが……父親の方もなぜか蒼白な顔色をしていて、身動きひとつ取らなかった。
(あら……? 反応が悪い?)
対するルイゼはといえば不安になっていた。
もしかして、発音が甘い? 何か単語の選択を誤っているとか?
(えっと、ジャライア語は舌を歯の前列に当てて、力強く押し出すようにして発音するはず……)
大丈夫だ、特徴はしっかりと覚えている。他にいくつか覚えている公用語と混じったりはしていないはずだ。
ルイゼは再度、にっこりと柔らかく微笑むと、硬直する令嬢に向かって話しかける。
「『よろしければ、まずあなたの名前を教えていただいてもよろしいでしょうか?』」
「え!? えっと……その……」
「『ジャライア語で構いませんよ。言葉は理解できていますから』」
「あ……あ、い、いえ……私……」
しかし令嬢の方は狼狽えるしかない。というのも、彼女にはルイゼがぺらぺらと美しく話す言葉の意味など、かけらも理解できなかったからだ。
ただ、ルイゼをあざ笑うためだけに、挨拶代わりの無礼な言葉だけを頭にたたき込み、必死にそれだけを毎晩練習してきたのである。
それ以外の単語も、言葉も、何一つとして彼女は知らない。
否、そもそも――失礼極まりない発言の意味を、ルイゼ本人があっさりと聞き取ってしまうなど想定外だったのだ。
そんなことにはまったく思い至らないルイゼは、心配になってきてさらに問いかける。
「『お加減が悪いのですか? お二方とも顔色が優れないようですが、』」
「『――ルイゼ。そのへんにしておいてやれ』」
そこに滑らかに、話しかけてきたのはルキウスである。
ルイゼが振り向くと、ルキウスは肩を震わせて口元を覆っていた。
……途端にジトっとした目つきになるルイゼ。
「『どうしてそんなに笑ってらっしゃるのです、ルキウス様』」
「『君が俺の予想の、遥か斜め上をいくものだから』」
「『……褒めていただいてます?』」
「『これ以上なくね』」
「『……それならば、褒め言葉として受け取りますが』」
軽口を叩き合う二人のことを、その言葉の意味さえ分からないながらも――周囲の人々は唖然として、あるいは驚嘆の眼差しで見遣る他ない。
冷たい人柄で知られるルキウスが楽しげに表情筋を緩めている様も、人の目を集めたのは間違いなかったが……特に注目を浴びているのはルイゼだった。
それこそ今まで無能と蔑まれてきた少女が、何でもないかのように、この場に居るほぼ全ての人間が理解できない他国の難解な言語を使いこなしているのだ。
ルイゼ・レコットを馬鹿で間抜けな令嬢だと信じ切っていた人々にとっては、衝撃以外の何物でもない。
そして――ようやく笑いが収まったらしいルキウスが、打って変わって冷たい双眸で、騒動の元凶となったふたりを見下ろす。
「それとモルド子爵。どうやら俺の説明が不足していたようだが、俺にとってルイゼは
……この意味は分かるな?」
あまりの迫力に、ビクリッ、と子爵とその娘が揃って縮み上がる。
それからモルド子爵は……貴族としての意地なのか、冷や汗まみれになりながらもどうにか口を開いてみせた。
「……重々、理解しました。せっかくの夜会の場を騒がせて申し訳ございませんでした、殿下。……レコット伯爵令嬢も、とんだ無礼を失礼いたしました。どうかお許しいただきたい」
「だ、そうだが。……どうだルイゼ?」
ルキウスに訊かれても、ルイゼはといえば何で謝られるのだろう、と不思議に思うばかりだったが……とりあえず、こくりと頷いておく。
すると子爵は明らかにほっとした顔になり、ほとんど泣きそうになっている娘を連れて壁際まで退散してしまった。
ルイゼは、ほんの少し残念に思いつつその後ろ姿を見送る。
(もうちょっと、ジャライア語でお話してみたかった……)
そんなルイゼの考えていることを察知してか、ルキウスが言う。
「君の発音は驚くほど完璧だったぞ。安心していい」
「ルキウス様にそう言われましても……素人愛好家レベルですし」
「何を言う。まさか君がジャライア語まで習得しているとは、さすがに予想外だったぞ」
(それはこちらの台詞です!)
ルキウスがスラスラとジャライア語を喋り出したことのほうが、ルイゼにとってはよほど驚きだ。
(ルキウス様って、何か弱点とかあるのかしら……?)
密かに首を傾げたとき。
タイミングを見計らったように、ワルツの前奏が流れ出した。
中ホールの奥に設けられた舞台には、豪華にもオーケストラの一団が揃っている。
ホールに入場した当初はBGM代わりに静かな音楽を奏でていたのだが、いよいよ本格的にダンスの時間が始まるようだ。
だが、ルイゼには演奏に気を取られる暇はなかった。
ルキウスが突然、ルイゼの目の前に跪いたからである。
黒い手袋をした右手が、呆けるルイゼに向かって差し出された。
「俺と踊ってくれるか、ルイゼ」
「…………!」
(そうだった。今夜の私のパートナーは、ルキウス様!)
決して、失念していたわけでは無いが……今さらながらルイゼは緊張してきた。
というのも、
「……私、今までどなたとも踊ったことがないのです」
周囲に聞かれないよう、ほんの小さな音量でルイゼが囁くとルキウスが目を瞠る。
(恥ずかしくて、事前にお伝えすることができなかった――)
化粧が崩れない程度に、ルイゼは唇を噛む。
(フレッド殿下とも、一度も踊った経験がないだなんて)
本来ならあり得ないことだ。
女性の本格的な社交界デビューは十五歳と決まっている。
ルイゼは現在十六歳だから、この一年間、何度か王族の婚約者として舞踏会に招かれたこともあった。
しかしフレッドとは一度も踊っていない。
というのも彼は、婚約者であるルイゼをそっちのけにいつもリーナをダンスの相手に誘っていたからだ。
ファースト・ダンスは婚約者と踊るものと決められている。
しかしルイゼは一度も、ファースト・ダンスを踊れず――そんな惨めな壁の花に、フレッド以外の男性から声が掛かるはずもなかった。
(リーナの替え玉としてなら、名前しか知らないような相手と何度か踊ったことはあるけれど)
そんな人間が、どうしてルキウスの手を取れるだろうか。
情けなくて、俯くルイゼだったが……そんなルイゼの耳元に、低く心地の良い声音が届く。
「それならば尚更。――俺は、君と踊りたい」
ルキウスの細められた
それから、内緒話をするように声を潜めて。
「念のために伝えておくと、実は俺もダンスの経験がない」
「……えっ!?」
「公式行事の場ではな」
最後の一言は、悪戯っぽく。
驚きと共に見つめ返すルイゼを、ルキウスは優しい眼差しで見ていた。
「お互いに正真正銘、今夜がファースト・ダンスというわけだ。それなら遠慮はいらないだろう?」
「……ルキウス様」
「この手を取ってくれるか、ルイゼ」
(ああ、そんなの……断れないに決まっています)
今度こそ迷わず、ルイゼはそっとルキウスの手を取った。
「……はい、喜んで」
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