第16話 エスカペード邸


 街中にはそれなりの通行人や馬車の数があるため、人が歩くよりやや早いくらいの速度で、一行を乗せた馬車は領都の南側にある住宅地へと向かった。


 比較的裕福な平民がきょを構える、中規模の邸宅が立ち並んでいる地域である。

 庭の付いた家が多く、建物同士の間隔は割と広い。ただ、貴族の屋敷ほど庭も家も広くはなく、家を囲むのも簡素な柵や生け垣であることが多かった。


 エレンの案内に従って、馬車はほどほどに大きい鉄柵に囲まれた屋敷の前に停まる。


 鉄柵にはまだつるだけのいばらが這い、三階建ての建物の外壁にはところどころつたがはびこっている。こちらも葉は落ちて血管のような茎ばかりとなっているが、時期が来れば青々とした葉が生い茂るのだろう。


「ここだ……何事もなければいいんだけど」


 停まった馬車の窓から顔をのぞかせて、エレンが少し不安そうに呟く。


 馬車を降りようとする彼女をグラハムが制し、素早く御者席から降りて門扉もんぴに向かって近づいていく。馬車に向けて手振りで合図を送る必要もなく、ヘレナがアルベリックとクリスティアーナが馬車を降りるのを制止していた。


 念のためにデュシェスも馬を下り、不測の事態が発生した場合に備えて待機している。


「……おかしいな。一応、客が来た時のために門衛もんえいが近くで待機しているはずなんだが」


 門扉に歩み寄っていくグラハムを見やりながら、エレンが首をかしげて呟く。

 その言葉を聞いて、表情を引き締めたのは馬車のそばで待機しているデュシェスだった。


 グラハムは油断なく周囲を警戒しながら、閉ざされた門扉に近づいてそっと手をかける。これも鉄製の格子で作られた扉は、少し力を入れて押しただけで抵抗もなく開いた。


 わずかに表情を険しくして、グラハムがちらりを馬車に目をやる。デュシェスが小さくうなずくと、彼はこの場にそぐわない明るい声をあげて門の中に入っていった。


「ごめんくださーい、エスカペードさんのお宅はこちらですよねー? ジェームズ・エスカペードさんはご在宅ではいらっしゃらないですかー?」


 移動中にエレンから聞き出した、この屋敷の住人の名前をグラハムは口にする。

 屋敷内の気配を探っても、特に動くものの存在は感じ取れなかった。生きた人の気配がいくつか感じ取れるものの、どれも一箇所でじっとしていて動かない。


「デュシェス様、あと頼んます! 俺が戻るまで他の人は馬車から降りないように!」


 肩越しに台詞を放り投げて、グラハムは急ぎ足で屋敷の正面玄関へ向かう。


 玄関の扉も、手をかけて軽く引いただけでなんなく開いた。普通であれば侵入者を止めるはずの門衛もどこにも見当たらず、玄関の中にも使用人の姿はない。


 緊張した表情にわずかな焦りをにじませて、グラハムは玄関に足を踏み入れると人の気配のある場所へ全速力で駆け出す。


 階段を二段飛ばしで駆け上がり、二階の奥の主寝室と思しき部屋へとたどり着く。

 屋敷の主はすでに六十を越える歳だそうだが、発掘に同行するだけのことはあって足腰は頑健なようだった。


 廊下にも人気はなく、誰にも誰何すいかされることなくグラハムは主寝室の扉を開ける。


 主寝室の窓は厚みのあるカーテンで閉ざされたままで、室内は薄ぼんやりとした闇に満たされていた。その部屋の床に、屋敷のあるじと思われる大柄な男性が夜着やぎを身につけただけの姿で倒れているのを見て、グラハムは目を見開いて駆け寄った。


 そっと口元に手を当てると、しっかりと呼吸しているのがわかって安堵の息を吐く。


 大きなベッドの上には、人一人分の上掛けの盛り上がりもあった。そちらも確認すると、同じく夜着を着た年配の女性で、おそらく男性の妻だろうと思われた。

 女性にも外傷はなく、呼吸を確かめてからグラハムは立ち上がって室内を見回す。


 室内は特に荒らされた様子はなく、この手の邸宅では備え付けになっていることが多い金庫にも手を触れた様子はなかった。立派な額縁に入った趣味の良い絵や、年代物の花瓶といった貴重品も目に付くが、それらもまったく手つかずのまま残されている。


「……手遅れだった、ってことか」


 グラハムは呟きを落として、足早に部屋を出ると正面玄関まで駆け戻る。門扉の外に停められたままの馬車に走り寄ると、不安げに窓から顔をのぞかせているエレンに向かってへらりと笑ってみせた。


「エレンさんのお知り合いのジェームズさんって、灰色の髪に立派な口髭を生やした大柄な紳士で間違いないっすよね? なんか盛大に寝坊したらしくてまだ寝室でお休み中でした。あれ、起きるのにしばらくかかると思うんで、いったん中で待たせてもらっていいですかね?」


 使用人も寝坊中らしくてどこにも姿が見えないし、とグラハムは続ける。

 エレンは一瞬きょとんとした表情を見せたあと、言葉の意味を理解したらしくわずかに緊張した面持ちとなった。


「エスカペード博士は……無事なのかい? 奥さんは……?」

「あ、大丈夫大丈夫。どちらも怪我一つないっす――ただ、あんまり大事にはしたくないんで申し訳ないんすけど、警邏けいらを呼ぶのは控えたいな~、と。屋敷の人がたに危害を加えられた様子はないけど、一応物盗りが入ったっぽい状況ではありますから……本来なら警邏を呼ぶべきだとわかってはいるんですがね」


 微妙に視線をさまよわせながら、グラハムはいま一つ切れの良くない言葉を紡ぐ。

 その意味を、正確に理解したのは馬車の中から両者の話を聞いていた、アルベリックとヘレナだった。


「……侵入した賊の痕跡を、できる限り残して調査にかかりたいということか。ということは相当徹底的に、侵入者の痕跡が消されているんだな?」

「加えて、この街の警邏にどこまで信をおけるかも不明ということですね。単なる能力不足くらいならまだしも、侵入者とつながりがあって便宜べんぎをはかるようまいないが渡されている可能性も皆無ではない、と」


 打てば響くような二人の答えに、グラハムは苦笑を浮かべて正解っす、と答えた。


「屋敷の住人に危害を加えていないあたり、そこまでタチの悪い相手じゃないとは思いますがね。少なくとも、目的遂行を第一とするプロの仕事であることは間違いない……エスカペード氏に確認してみないとわかりませんが、おそらく目的は例の呪いの箱じゃないかと」


「……状況から言って、その可能性は高いだろうな」


 眉を寄せてアルベリックは言うと、馬車に乗ったままのクロエとヒュームに視線を送った。


「クロエはグラハムに協力して、賊の手がかりを探してくれ。さすがにエレンをさらおうとした連中とは別口だろうが……私たちの馬車よりも速く、連中が領都に移動できたとはとても思えないからな。ヒュームはエスカペード氏の身体に異常がないかてくれ。意識を失っているだけというグラハムの見立てが間違っているとは思わないが、念のために」


 矢継やつぎ早に指示を出すアルベリックに、クロエとヒュームはそれぞれの表情をあらためて承諾しょうだくの返事をする。

 立ち上がった二人が馬車を降り、屋敷の中に向かおうとするのを呼び止めてアルベリックはエレンに声をかけた。


「すまないが、エレンも一緒に行ってくれ。まず一番にエスカペード氏の容態を確認しないとならんが、意識を取り戻した時に知人であるエレンがいればよけいな騒ぎを起こさないで済むはずだ。ヘレナは使用人棟に行って、屋敷の使用人たちの無事の確認を頼む」


 かしこまりました、と一礼してヘレナは馬車の座席から立ち上がる。


 馬車を降りる際、一瞬だけデュシェスへと目をやったのは、アルベリックの警護は任せるという意志の表れだった。デュシェスが目だけでうなずくのを確認して、ヘレナは屋敷の中へ向かうグラハムたちのあとに続いた。




 それから一時間ほどが過ぎ、やるべきことを一通り済ませたあと、アルベリックを含めた一行の姿はエスカペード邸の応接室にあった。


 天鵞絨ビロード張りのソファに座って向かい合うのは、アルベリックとエスカペード氏である。


 ヒュームが確認したところ、氏の体調にはなに一つ問題はなく、単に薬物で気を失っているだけだとわかった。氏の奥方も同様で、二人ともヒュームの覚醒の術によって、何事もなく意識を取り戻した。


 さらに言えば、屋敷の使用人も誰一人欠けることなく、無事な姿が使用人棟で発見された。

 こちらは縄で縛り上げられ、猿ぐつわをかけられていたが、すり傷を負った者が多少いた程度で大事に至ることはなかった。


 その一人である侍女服の女性が、ソファの間のテーブルに茶器を置いて立ち去る。


「……本当に、なんとお礼を言っていいことか。色々と配慮してくださったことに、この家の主として心より感謝申し上げます」


 衣服をあらためた男性――エスカペード氏が軽く頭を下げるのに、アルベリックは鷹揚おうような態度で手を振ってみせる。


「いや、気にしないで欲しい。本来なら警邏を呼ぶべきところを、私たちの都合を優先してめてもらったのだから当然のことだ。それに、今回の件は元を正せば、エレン嬢があなたに預けた呪い付きの箱が発端になっているみたいだからな」

「あの箱か……」


 エスカペード氏の顔に苦い表情が浮かぶ。アルベリックらの予想通り、屋敷に侵入して氏を気絶させた賊の狙いは、彼がエレンから預かっていたその箱だった。


 彼の話によれば、夜中に目が覚めた時にはすでに室内に賊の姿があり、妻を人質に取られる形で脅迫され、別室に保管してあった箱を渡すことになったらしい。


 賊の人相風体に関しては、全員が体型のわからないようなマントを身につけていた上、覆面まで被っていたため手がかりはないといってよかった。


「まさか、あの箱がこんな形で狙われることになろうとはな……私にとっては、多少珍しい呪いがかかっている程度の、研究材料の一つでしかなかったんだが」

「使われている素材も珍しいものだと聞いたが? だから、エレン嬢の呪いの解析が終わったあとで、素材の分析をするために預かったのだと聞いた」


「ああ……ただ、今回の発掘では持ち帰った発掘品の量が多くてね。整理するために一部の物品は家に持ち帰っていた――まさか、それが原因でこんなことになろうとは夢にも思わなかった。まして、あの箱にそんな凶悪な呪いが潜んでいようとは……」


 エスカペード氏が痛ましげな目を向けたのは、フードを外して誰からも充分な距離をおいた上で立っているクリスティアーナの姿だ。


 意識を取り戻した彼が落ち着いてから、彼女の事情はエレンから伝えられていた。


 発掘団がクレナ村を離れたあとで、呪いによると思われる症状が村人に出たこと、村人の治療にあたっていたクリスティアーナにもその症状が伝染したこと、病を治す平癒の術でも、呪いを解く解呪の術でもいっこうに効果はなかったこと……


「まだ、彼女や村人の症状が呪いによるものと決まったわけではないが……」

「わかっているよ。私もローブリッター嬢の解析の腕は信用している。だからこそ無害な呪いだと信じて、研究のために箱を預かったのだが……古代の遺跡の発掘品には、本当にごくまれにだがそういった一見無害でありながら、一定の条件がそろった時だけ発動する呪いのかかったものがあるんだ」


 アルベリックの言葉に、氏は丹念たんねんに整えられた口髭くちひげに覆われた口元を歪ませる。


「滅多にないことではあるが、過去にそういう事例があったことは記録に残っている。ひどい場合はうっかり持ち帰った研究室の人員が残らず死に絶えたり、貴重な品であった場合は人の手から手へ渡って、その課程で死者を出し続けたりしたこともある」


 それを考えれば、即座に死に至らないだけまだ穏健な呪いといえるだろう、とエスカペード氏は苦い笑みを浮かべる。


 思わずアルベリックはクリスティアーナと顔を見合わせ、氏は苦笑を深めて自ら口にした言葉を否定した。


「いや、実際に被害を受けている人の前で言うことではないな。それに、直接その品を目にもしていない人間まで呪いにかかるというのはかなり厄介だ。呪いにかかった人間との接触が条件だというのなら、下手をしたらどこまでも呪いが広がる可能性がある」

「……もう少し、私たちの到着が早ければ……」


 悔しさをにじませたアルベリックの声に、いなを唱えたのは意外にもソファの背後に立ったデュシェスだった。


「それは無理だ。あの馬車で可能な範囲で出せる限りの速度を出して、それでも間に合わなかったのだから……てっして走り通せばまた話は別だったろうが、その場合は事故を起こしていた可能性が高い。護衛としてその選択肢はありえないとしか言いようがない」

「デュシェス様の言う通りです。私たちの誰かがデュシェス様の馬をお借りして飛ばせば、襲撃の前に領都に到着することはできたかもしれませんが……アンジェ様の護衛に必要な最低限の人員で動いている以上、誰か一人でもお側を離れるということは考えられません」


「……わかっている」


 デュシェスの言葉に重ねるようにヘレナが言い、アルベリックは悄然しょうぜんとしてうなずく。


 その顔をエスカペード氏は気遣きずかうような表情で見やり、異相のために表情の読み取れないクリスティアーナへと同情の眼差しを送る。


 グラハムは誰にも気づかれないようにきつく拳を握り、ヒュームは内心の見えない茫洋ぼうようとした顔つきで沈黙する。ただ、クロエだけは妙に強い光を瞳に宿して、薄く朱に染まった西日の差し込む窓の外を見やっていた。


 そんな同行者たちの様子を気に留めず――あるいは礼儀正しく意識から外し、エスカペード氏は明るい口調を作って言った。


「まぁ、今ここで言っても始まらないことだ。肝心のものは奪われてしまったのだし――取り戻す手段を考えるにしても、きっぱらでは頭もろくに働かないだろう。よければ、夕食はうちで食べていくといい。メイドにはもう人数分の食事を用意するよう伝えてあるからね」


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