第十七節 僕の好きな風は
【X月X日 百獣村での出来事】
昨日、東京都郊外秘匿地区、通称『百獣村』付近にて、バリケードより10mほど離れた地点で倒れていた男子高校生一人を保護した。
一介の高校生に対してそのような判断が下されたのは、場所が場所というのもあったが、何より『糸』の存在が大きかった。その糸は植物や虫から作られる有機的な柔らかさを感じさせず、むしろ合金のような無機質な印象を与えた。
ただ、不思議なことに、恐らく百獣村での喧騒の渦中にいたと思われるのに、外傷はまるで無いのだ。むしろ、争乱の跡地に似つかわしくないほど安らかに眠っていた。第一発見者である自衛隊員も、一目見た時は死んでいるのではないかと疑ったほどである。パトカーの中で、彼はうわ言を呟いていた。『レイジ』何の事だろうか。しかし、確かに言えるのは、彼は眠りの中にあったというのに、不気味なほど強い意思力を放っていたということである。
サイレントボーダーに襲われ、星牙に守られた後、強烈な微睡みが仁を覆い尽くした。意識が消えていく。正確に言えば、グラデーションがかかるようにして、今ある現実と別の現実とが切り替わっていった。
暗夜より黒い闇の中、取り留めもなく仁が歩いていると、一人の男が目の前に立ち現れた。知り合いじゃない。ましてや、過去に一度たりともすれ違ったことの無い顔だった。
「やっと届いた」
無限の色に光る男は当惑する仁に微笑みかけ、自分の胸に手を当てた。
「はじめまして、仁君。僕は澪士」
朧気に名前を反芻する。直後、奇妙なことに気づいてすかさず尋ねた。
「何で俺の名前を?」
澪士は優秀な学者のごとく落ち着き払い、明瞭に答えた。
「僕は君の心の奥深く、深層心理に存在している。名前を知るぐらい、わけもないことさ。ということはだ、次に君が思った疑問も熟知しているのさ、僕は」
仁が口を開きかけたのを手で止め、澪士は続けた。
「君は二年前の4月1日、黄金の渦が空に浮かび上がるのを見たね?」
口を塞がれたまま頷く。
「あれは命の核、コアを人工的に変えてしまう光を放っているんだ。そうして変質した生命は、レシーバーズと呼んでいるものに姿を変える。君も例外じゃないよ」
驚愕で呼吸が止まる。理解できなかった。架純の話では、オーダーとサイレントボーダーは仁を含む持たざる者、つまり普通の人間を淘汰しようという考えを持っているはずなのだ。その根底が覆されるようなことを、この男は口走った。
「無理もない。君の場合、少し特殊でね。君が授かったのは僕と同じ、『受け取る』力なんだ。それも、繭の状態でね」
言っていることの半分も入ってこない。聞こえてはいる。しかし、何を指し示しているのかわからない。奇妙な感覚だった。
「いずれわかる時が来るさ。ともかく、それを起こしたのが架純ちゃん達の戦っている相手、オーダーなのさ」
架純から少しだけ話は聞いていた。オーダーという悪者がいて、人を滅ぼそうとしているのだと。
「けれどオーダーを、海央日向を憎まないでほしい」
疑問符が頭の中を染め上げた。
「困惑する気持ちはわかる。実際、彼女がしていることは止めなくちゃいけないことだ。でも、悪じゃない」
仁は澪士の手を下げ、混乱する気持ちを声にしてぶつけた。
「どういうことだよ!架純が言ってたぞ。あいつ、人間を皆殺しにしようとしているって。悪じゃなかったら何なんだよ!」
澪士は慈しむ目で仁を見た。
「君は架純ちゃんと喧嘩した時、思ったはずだ。どうして気持ちをわかってくれないんだ、とね。同じことだよ。君は日向の気持ちを考えたことはあるかい?」
人殺しの気持ちを考えて何になる。仁が不満気に睨む。
「そう思うだろうね。けれど、見方を変えれば架純ちゃんだって命を殺しているんだよ。ただ、殺すためにね。彼女のことは憎くないだろう?どうしてかな」
「あいつは皆を守るために…」
夢中で叫びかけた仁は、澪士の言いたいことに気づいた。だが、本当にあるのか?
「あるんだよ。日向にも、戦う理由が」
澪士が手の平を上にかざすと、光と闇の球がホログラムのように浮き出た。
「昔、世界には神と混沌があった。決して交わらない二つの存在はある日、孤独に耐えきれなくなった神によって運命を変えることとなった。生命の創造さ」
光の中から小さな星が飛び出し、宙を揺蕩う。
「でも、神は生命が暮らす場を与える力を持っていなかったんだ。孤独だったからね。そこで神は混沌に提案した。君の中に住まわせてくれないかってね」
光と星が闇に溶け込もうと近寄る。しかし、闇が光達を弾き返す。
「ただ、混沌にしてみれば不都合なことだった。神とは違って孤独ではなかったけれど、とても不安定だったんだよ。混沌という形を維持するので精一杯なほどにね。それでもと神が引き下がるものだから、混沌はある契約を結ばせた」
突然、光と闇が均等な間隔で並び立ち、星が闇へ足を踏み入れていった。
「神は混沌と不干渉の関係を保つ。つまり、子供とは離ればなれでいること。混沌が形を維持できるように永遠の従事を保証すること。そして、子供には永遠に進化してもらうこと。この三つを守らせた」
三本の柱が光を囲む。まるで磔のように。仁の胸中は義憤の念で溢れていた。
「理不尽すぎる」
声が漏れる。澪士が静かに頷く。
「特に厄介なのが永遠の進化だ。混沌の管理下にある以上、決して誤魔化しは効かない。破れば世界が滅ぶ。だから長い間、生命は進化しながら同胞を蹴落とす運命にあったんだ」
ふと、動物のドキュメンタリー番組が脳裏をよぎった。生命の神秘のように語られてきた進化。確かに、恩恵はあったと思う。しかし、実際は呪いでしかなかったのだ。そのためにどれだけの仲間を犠牲にしたか。
「僕と日向は同郷でね。この話はよく聞かされていたよ。この話を聞くたび彼女が苦しそうな顔をしていたのを、今でもよく覚えている。純粋だよ。僕なんて本当かどうか確かめるために研究者になったっていうのにね」
苦笑しながら語るその瞳には、哀しみが滲み出ていた。
「だから彼女はコアを人工的に変えて、生命を進化させようとしたんだ。結果、人類が滅びても構わない。むしろ好都合だと思っていたんじゃないかな。現行の支配者がいなくなれば、それは進化とほぼ同義だからね」
酸素が生まれ、プランクトンが誕生した。そのプランクトン達から派生して多くの海洋生物が生まれ、あるものは陸地に上がって恐竜と呼ばれる爬虫類となった。そして恐竜が滅び、数回の氷河期を経て、多くの生命が犠牲になったことで人類の時代が訪れた。
なら、今回も同じなのだろう。対象が人類であるだけで。
「でも、僕はそれを認めたくない。本当の進化はそんな形ばかりのものじゃないはずなんだ。心こそが進化の在り方だと、僕は信じたい。そして、彼女にもわかってほしい。優しさの向け方は他にもあるんだって」
澪士は消えそうな身体で仁の両肩を掴み、必死の形相で訴えた。
「だから君に頼みたい。救ってくれ。世界も、人も。そして、愛する者も」
『愛する者』の確認を取ろうとした仁に、澪士はあっさりと答えた。
「架純ちゃんのことだよ」
「いや、あいつはそういうのじゃなくて、妹みたいな奴っていうか…」
必死に訂正を求める仁に笑いかけ、澪士は額をくっつけて最後の一言を告げた。最も真摯で、最も神妙な声で。
「守ってくれ。そのために授けたんだ。切札(すべて)を」
「どうしてここに…?」
奇妙な感覚だった。二年間、報復しようと考えていた相手を見て安堵するというのは。
「何者だ、君は」
自衛官が尋ねる。忘れていたとばかりに奏雨は自衛官の手首を握り、
「ちょいとごめんね」
と言うと、瞬時にライトニングレイへ変貌し、弱めの電流が全神経を麻痺させ、自衛官の意識を奪った。元の姿に戻り、眠りについた自衛官を壁にもたれかけさせた後、架純にワケを話した。
「街中でとんでもなく話題になってたからさ。急いでとんできたってわけ」
その軽やかさに、もう学校で戦った時の殺伐とした気風は感じられなかった。
「駆けつけられなかった分、ここで取り返すよ。だからさ、あんたらはここでじっとしといて。信頼は大事だろう?」
奏雨が言うと、遊月は拘束された手で器用にも拍手してみせた。
「さすが俺の生徒だ」
すると、奏雨が遊月のいる独房に近づいて申し訳なさそうにした。
「あんたにも迷惑かけちゃったね」
だが遊月は気にする様子もなく、朗らかに語りかけた。
「若者は間違えてナンボだよ。とにかく、戻ってきてくれてよかった」
奏雨の口から微笑みがこぼれた。隣の独房で、皐姫が頭を下げる。
「託します。皆様の命、御守りください」
奏雨の脚が変貌する。電気を走らせ、皐姫を一瞥した後、
「了解」
と言い残し、閃光の瞬く間に去っていった。その残像を見て、架純は己に言い聞かせた。これでいいんだ。奏雨ならやってくれる。
だが、胸中はざわついていた。自分じゃなくていい。憎まれている奴がでしゃばっても仕方無い。いくらそう思っても、脚は大地を蹴り出したがって疼いている。腕は手錠をほどき、振られることを待ち望んでいる。
すると、奏雨とすれ違いで、扉から仁が息を切らしてやって来た。
「ジュンちゃん!?」
仁は傍に倒れている自衛隊員を指さして、戸惑いを口にする。
「何で?」
「色々、ね」
架純は言い淀んだ。
「いや、そんなことよりも!何でここに来たの?ていうか、何で来られたの?」
今度は仁が慌てふためき、言い淀んだ。
「頭の中のレーダーっていうか、心眼が目覚めたっていうか、そいつの言うことを聞きながら走ったらここに来られたっていうか…」
「何それ」
吹き出す架純につられて、仁も笑い出した。
「…よかったよ。笑えるみたいで」
仁の言葉に、架純の瞳は少し潤んでしまった。気を紛らわせようと、思いついたままに口走る。
「それより、どうして来たの?」
気を取り直さんとばかりに、仁は咳払いをした。
「お前に、伝えなくちゃいけないことがあってさ」
声が強ばっている。
「なに?」
強ばりが伝染する。しばらくの沈黙が流れる。無音で見つめ合う時間。いつもなら、無性に恥ずかしくなっておどける場面だ。けれど、今は不思議と落ち着いてくる。静けさを取り戻した架純は、いつもの調子で聞き直す。
「…何なの?言ってみてよ」
仁は深呼吸を挟んで、ようやく言った。
「好きだ!」
再び音が消える。直後、仁はいつになく取り乱して言葉を連ねた。
「いや、あの、俺が言いたいのは恋愛的なアレじゃなくてな…ああクソ!」
頭をかきむしり、仁は言い直した。
「世間はメチャクチャ言ってるけど、俺は絶対お前の味方だから!こんなとこに閉じこもんなくていい!愚痴も聞く、ハンカチだって貸してやる、何でも受け止めてやる!だから、世界も人も諦めんなよな!俺が好きな架純は、意地っ張りでおっちょこちょいでダンスが好きで、諦めない架純なんだからよ!」
夢中で言いきった仁は肩で息をする。遊月はその様子に拍手を送り、皐姫は目を点にして呟いた。
「…その、結局、言ってらっしゃいませんか?『好き』と…」
数秒遅れで気づいた仁はこの世の言語とは思えないような叫びを上げて悶えた。圧倒された架純は、そんな仁の姿を見て笑みをこぼした。何だか、心に覆い被さっていた雲が全て吹き飛んだようだった。
仁を見つめ、架純は言った。手錠から風が漏れ出る。麻酔はすっかり抜けていた。
「ジュンちゃん。ありがとう」
架純の身体は徐々に空気に溶け込み、独房の隙間から風が走り出した。
道中、頬が緩んでたまらなかった。やっぱり仁はヒーローだ。いつだってつらい時、手を届かせてくれる。今は答えを待っていて。全部終わったら言うから。大好きって、ちゃんと伝えるから。
都心部、レシーバーズ跋扈する渦中に、一陣の風が舞い込んだ。風は数多のレシーバーズを打ち上げ、人の形をとり始めた。傷だらけのライトニングレイは知っている。黒い殻を破り、緑の鎧を纏うその少女の正体を。名前を。
「一緒に戦おう、奏雨っち!」
そしてその少女の姿を見るだけで、咎め立てだとか何だとか、全ての理屈が吹き飛んで、頼もしさと温もりが胸の中を渦巻くことを、奏雨は知っている。
「ちゃんと疾走(はし)りなよ、ミストゲイル!」
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