第三節 傷心も帆に変えて
「本っ当にごめん!」
昼休み、架純は仁の席の前で手を合わせ、深々と頭を下げた。
「どうしたんだよ、来るなり謝って」
仁は頭に包帯を巻いたまま、素っ気なく返事をした。普通にしていたら、隠せそうにもなかったから。病院で聞いたのだ。架純がミストゲイルで、ギフテッド・エイプリルフールの時から二年間ずっと戦ってきたことを。
ただ、架純の方は仁のように落ち着き払うフリをする余裕など無かったらしい。架純は両手を机に勢いよく下ろし、土下座でもするかのように更に深く頭を下げる。
「だって、一昨日は私のせいで…」
その先を言いかけた架純の口を、仁が手で塞いだ。
「おいバカ!何のための二年間なんだ、バレたらどうするんだよ」
「でもでも…」
架純が取り乱していると、背後から手が伸びてきた。手は突然、架純の肩を掴む。架純は飛び上がった。振り向く。奏雨だ。悪戯な笑みを浮かべ、奏雨は尋ねた。
「どったの、二人とも。仁君の頭の怪我と関係あったり?」
自分の頭を指さして首を傾げる。架純と仁は言葉を淀ませた。言えない。ミストゲイルの正体は架純で、仁は頭の傷がきっかけでそれを知ることとなったなんて。二年も持ち越してきた一人の秘密が二人の秘密になってしまったばかりだ。迂闊な発言はできない。
すると、仁が唐突に返した。
「そう。ゲーセンの帰り、二人でふざけてたら塀に頭ぶつけちまって」
機転の利いた返事に架純もすかさず乗り、
「そうそう。私が躍りながら歩いてたら、ジュンちゃんの肩押しちゃって。いやぁ、本当に申し訳ないなーって」
と、架純はアドリブで場を持たせた気になっていたようだが、奏雨は架純の顔を訝しげに見つめる。
「本当に?」
「何で嘘つく必要があるのさー。奏雨っち、無闇に人を疑っちゃダメでございますよー?」
そう言って架純は必死に目を泳がせる。奏雨はしばし架純の冷や汗したたる顔を睨み、
「それもそうだね。あんた、嘘つきそうにもないし。ごめんね、変な勘繰りしちゃって」
と、納得した風にその場を去った。胸を撫で下ろす架純の後頭部を、仁はデコピンする。
「何すんのさ!」
眉を潜ませ、架純が仁に顔を近づける。仁は呆れた様子で言い返す。
「お前、誤魔化すの下手すぎ」
「納得してくれたじゃん、奏雨っち」
仁はため息をつき、手の平を上に軽く上げ、首を横に振った。
「あっ、バカにしてる?ひどーい。今日は一緒に帰ってあげませんからね」
ふくれっ面になる。いつもひっついてくるのはそっちだろうに、という言葉はかろうじて仁の口から出なかった。何故なら、仁はわかっていたからだ。こんなこと言っても、結局は一緒に帰ることになるのだと。
案の定、放課後、仁がロッカーから靴を取り出していると、横から架純が割って入ってきた。架純は恭しく靴を持ち、仁の足元に置く。
「どうぞ、お坊っちゃま」
周囲からの視線が痛い。
「何してんだよ、恥ずかしいだろ」
「仕返しですわよ」
架純はそっぽを向く。この場合、恥ずかしいのはむしろ架純の方ではないのだろうか。仁は敢えて言及しなかった。意固地になった架純にはどんな言葉も通じない。心の風通しが悪くなる。
帰り道、二人きりになったところで、仁は改めて話を始めた。
「その、さ。話してもいいぞ、二人だから。ミストゲイルのこと」
道中、顔を合わせなかった架純が仁の方を向いた。喉で空気が固まってしまったかのように、架純は声を発するのを躊躇い俯く。春には珍しい、冷ややかな風が吹き抜ける。
不意に架純が顔を上げ、作り笑いを浮かべた。
「病院で言ったじゃん。忘れちゃったのかな?仕方ないなぁジュンちゃんは」
痛々しい。傷を煙に巻くつもりか。仁は架純の手首を掴んだ。
「そうじゃない。話してほしいのは、そういうことじゃない」
架純の瞳を見据える。決して誤魔化しなんて言わせない、その意志を全面に押し出した。架純の作り笑いは徐々に崩れ、口角が垂れ下がり、目が潤んだ。
「怖かった…ジュンちゃん、死ぬかもって…私、ジュンちゃんを傷つけないように戦ってきたのに…怖いよ…」
震えが伝わる。涙の粒が手に落ちる。これがミストゲイルの、レシーバーズを狩る幻のレシーバーズの素顔。
震えを止めたくて、肩を抱き寄せる。腕の中におさまる小さな体躯。この身体で二年間も独りで戦ってきたのか。仁は己の不甲斐なさに唇を噛みしめた。それから、静かに胸中を発露した。
「昔、川に溺れたことあったろ?架純」
仁の胸に顔をうずめながら、架純は頷く。
「ジュンちゃんが助けてくれた」
「実はあれ、俺じゃねぇんだ」
架純は目を丸くして仁を見上げる。
「でもあの時、私達の他には誰も…」
「手だよ。手が助けてくれた。俺のじゃない、誰かの手が」
仁は自分の右の手の平を見つめ、あの時のことを回想した。
お互い、ジェットコースターの身長制限がどうのと注意されるような年頃だった時のことだ。二人で川へ遊びに行った。しかし架純が砂利に足を取られ、溺れてしまった。助けようと仁は手を伸ばしたが、届かない。膝ほどもある川の中で溺水した架純を見ることしかできないのか。
幼心に無力感を覚えた仁のすぐ脇から、腕が伸びたのだ。振り向くが誰もいない。手だけだ。手だけが架純に向かって伸び、小さな手を引っ張り上げた。手が消える直前、仁の耳に声が響いた。
「届いた」
声の主はわからない。けれど、仁は今でも、その言葉を鮮明に覚えている。心に刻んでいる。
だから、今の架純に伝えた。
「俺じゃ届かない手が届いた。あの時はそいつ。で、悔しいけど、今は架純」
架純の肩を握る左手に圧がかかる。
「お前のポリシーに俺がいたのは嬉しい。けど、俺が怪我したぐらいで手を伸ばすのをやめるな。これから先、俺が怪我する度に怖がるのか?」
架純は反論しようとしたが、仁が無理矢理に口を塞いだ。
「俺は架純が諦める方が悔しいし、怖いんだよ」
春風が吹く。暖かだが鋭い空気の流れに、架純の髪はなびく。
アラートが鳴る。スマートフォンアプリの一つで、半径1キロメートル以内でレシーバーズの発見報告が確認された際、自動的に警告してくれる。近くにレシーバーズがいるということだ。
架純の肩から手を離す。立ち尽くす架純の背中を軽く押し、仁は言った。
「疾走(はし)れ、ミストゲイル」
踏み出した一歩が風を纏い、少女の身体は疾風に変わった。瞬時に音の主へと駆け抜けていく架純(ミストゲイル)を見て、仁は頬を緩ませた。
「そういう架純が、俺は…」
夕暮れのショッピングモール、三階の橋渡し通路で、恐れおののく男の前で大口を開くのは、顎が異様に発達した鰐の怪物。噛み砕かれる直前で、ミストゲイルは男を救い出した。ミストゲイルを見て、怪物はたどたどしく尋ねた。
「オ前、ザイレントボーダー達トソックリ。レシーバーズ?」
鰐の怪物は首を傾げ尋ねる。
「デモ、人ノ匂イ、プンプンスル。人間ナノカ?」
頭部を指でかきむしる。思考しきれなかったのか、牙を鳴らし、鰐の怪物は吼えた。
「アアモウ嫌!考エルノ嫌!ココ、オ前食ウ!食エバワカル!」
ココが巨躯を振るわせ、突進してきた。直線上の攻撃を、ミストゲイルは柳のようにかわしココに言った。
「ならここで覚えればいい。私はミストゲイルだ」
体勢を整えたココはミストゲイルを食べようと大口を開け、再び突進する。ミストゲイルはココの噛み合わせる寸前でかわす。牙の音が耳元で響く。すれ違い様に攻撃する。しかし、鱗に覆われた肌は拳の一撃を通さない。
ココは足場をならし、歯ぎしりと唸り声が上げる。
「ジットシテロ、食ウカラ!」
荒い鼻息が埃を巻き上げる。その瞬間、ミストゲイルは地面を蹴った。鱗は攻撃を通さない。ならば鱗の無い部分、つまり粘膜で包まれた部位は?例えばそう、鼻の穴は?ミストゲイルの手刀が、広がったココの鼻腔に入り込む。
そして、鮮血が噴き上がった。ココは鼻を押さえ、激痛に目を潤ませた。
「痛イ、痛イヨ、オーダー…」
大口を開けた隙を逃さず、疾風の連撃を叩き込む。殴打、手刀、蹴り、全てが口腔を抉る。大量の血がココの顎を滴る。巨体は力無くその場に倒れ伏した。血管が脈動する様子は微塵も感じられなかった。
それを確認した後、ミストゲイルはその場を去った。今日も手を伸ばせたと、彼に伝えるために。今日は男の人から聞くことができたと伝えるために。
「ありがとう」
の一言を。
闇夜の中、ショッピングモールの最上階でサイレントボーダーと、全身が先鋭的な造りの鎧で包まれた何者かが、ココの死体を見下ろしていた。
「ランク4程度なら瞬殺ですね、オーダー」
サイレントボーダーがオーダーに話しかける。無言。咳払いをし、サイレントボーダーは話題を変えた。
「やはり、種によって能力差があるようですね。人間の生活に近い生命ほど知能の発達が著しく、遠いほど身体機能に優れる」
「だが」
オーダーは口を開いた。鈍重で、深淵なる声。
「ランク1に迫れる素材は今のところ、人に限られる」
「人の上に立てるのは人のみ、といったところでしょうか。福沢を侮辱するわけではありませんけど」
サイレントボーダーの言い分に、オーダーは微笑んだ。
「構わんだろう。あれは平等論の話ではないか、持たざる者の。想定しとらんさ、持つ者のことなど」
夜風が銀の鎧を撫でる。
「さて、風はどこへ吹くかな」
月に照らされ、鎧の表面が星を散りばめたように輝いた。
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