第2話 ここに、降りたった時のハナシ
「…ここは、どこだ?」
わたしはまるで、記憶喪失者のような台詞を漏らしていた。
もちろん、自分が誰かは覚えている。
だが今、この世界のどこかに立っている自分はまったくの別物だ。
あいにく鏡が無いので、顔は確かめられないが、持ち上げた腕は若々しく筋肉が引き締まっていた。杖を使わずに、二本の足だけで立つのもしばらくぶりだ。
見知らぬ場所に放り出された不安よりも、若さあふれる"生"への喜びがわたしの中を満たしていた。
「…さて」
ひとしきり、新しい身体を噛みしめた後、わたしは現状の把握を始めることにした。改めて辺りを見渡すと、小高い丘の上に自分は立っており、緑豊かな森が広がっている。肉眼で見た限り、家などの人工物も人影も無い。
「とんだとこに送られたものだな。まぁ、街中に突然現れる訳にもいかないか」
考えに耽るわたしは無意識に首から下げた"それ"に手をかけていた。ここに送られる際に、唯一持ち込むことを許された代物であり、わたしがこの世界の住人でない証でもある。
とりあえず、わたしは歩くことにした。
空にはわたしが知ってるのと瓜二つな太陽が輝き、雲一つない晴天だが、それほど暑さは感じない穏やかな気候だった。この世界の天体がどのように動くのかは想像すらできないが、明るいうちに人の気配がする場所を見つけておきたい。
しかしいざ、この世界の者と会った際はどうするか?
考えるげべき事柄は多いが、生来即興での打開で人生を渡り歩いてきたわたしだ。
「ふっ、これではとても
自嘲するわたし。
と言っても、新しいわたしに与えられたのは、新しい身体を包む衣服だけだ。軽く探ってみたが、金品もなければハンカチのひとつも無かった。
着の身着のまま。裸一貫でないだけマシだったか。
衣服は、上下共に素朴な色合いの服で、肌触りもそれなりにいい。少し特徴的な匂いがすることから天然染めがなされているのかもしれない。以前のわたしが好んで着ていたのも天然染料だったが、どれもがかなりの高級品だった。この一式がこちらの一般的な装いだとするなら、化学染料や繊維などはこの世界に存在しない、もしくはまだ発明されてない段階なのかもしれない。だとすら、息子や孫たちが何かと手離さずにいたタブレットやゲーム機もこの世界にはないかもしれない。せっかくそれらを愉しむに適した身体となったのに、そうだとしたら少し残念だ。
「…待てよ」
そこで、わたしは早急に懸念すべき事案がある事に気づいた。
それほど文明や開拓が進んでいない世界であるなら、野生動物にかなりの確率で遭遇する危険もあるのでは?
おのずと、わたしの背筋に緊張感が走る。
いくら若返った肉体でも、野生の捕食動物の相手は未経験だ。
「下手に移動するべきではなかったかな…」
独り言も小声になり、木々の隙間の薄闇に、目と耳を凝らした。
「…うう」
すると、わたしの耳が捉えたのは、野生動物の唸りでなく、同じ人間の呻きだった。
「誰かいるのか?!」
わたしは、声が聞こえた方へ駆け出した。
程なくして、一回り大きな樹木の影に倒れた人影があるのを発見した。
それは、見る限り完全な人間の男であった。顔立ちは少し西洋寄りか。服装はわたしと同じ素朴な出で立ち。一番の違いは、押さえている右肩の方から赤黒い血が流れ出ていることだった。
「大丈夫か!」
わたしは急いで駆け寄ると、すぐに自分が羽織っていた上着を脱ぎ、男の傷口に巻き止血を試みた。
「す、すまない。あんたは…?」
脂汗を浮かべる男は、何とかわたしの方を見上げ絞り出すような声で訪ねた。
「わたし?わたしは…」
なぜかこの時、わたしの口からかつての名前が出てこなかった。
逡巡したわたしは、また首元の"それ"に手を伸ばしていた。
そして、思いついた。
「…俺は、クラウン。クラウン・セマムだ」
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