初期草稿「ここでのハナシ」(未完)

第1話 ここに、至る前のハナシ

 62歳。

 これは、わたしの享年である。

 短いかどうかは個々の印象次第だが、少なくとも、わたしが生きていた世界業界の中では、長過ぎる方だと思う。さらに、わたしの命を奪ったのは、銃でも刃物でもなく何者かの殺意急性の病自然がもたらす死であった。死に場所も、人気のない都会の片隅で、泥とゴミにまみれながら腐っていくわけでもなく、我が家の大広間の真ん中で、柔らかな布団に横たわり、わたしを慕い、わたしのために涙を流してくれる者たちに囲まれながら、恐怖も痛みも寒さも感じることなく、まるで眠りにつくようにして、わたしは死んだ。

 わたしは、愛されていた。

 その事実がまるで、光の滝の如く今際の際にあるわたしを包み込んだ。生者の頃には、向き合えなかったこの事実に、今になって受け止めることができようとは。

「皮肉。とでも言いたいか」

 不意に背後から声がしてわたしは振り返った。

 自然と身体に緊張と殺意を走らせていた。

「死んでも、その反応は抜けないようだな」

「…賀菊の親っさん」

 そこには、肉親のいなかったわたしが唯一親として、慕い愛した男が立っていた。

 しかし、妙だ。先立ったはずのあの人がこちら側にいることは不自然ではないが、その姿は若々しく、しかもその額には角が生えていた。

「察しがいいな。こっちも助かる。俺は、お前が親と呼んでいた男ではない。ちなみに、周りを見てみろ」

 気づけばわたしは、死に場所となった私邸の大広間に立っていた。しかし、私たち以外に人影はない。親しみと落ち着きを感じるが、ここはあの場所ではない気がする。

「そう。これは幻だ。こちら側の世界には定まった実態がない。だから、こちら側に来た者の記憶の中から、適した情景や姿を拝借し、投影している」

「落ち着ける空間、そしてもっとも敬うべき人物の姿をか」

「その通り」

 ちなみに、わたしの心も分かるのか?

「その通り」

 全てが筒抜けなのか?

「今のお前には、心を隠す器がないからな」

「それで、その姿を借りたということは、あなたはこちら側でもっとも敬うべき存在なんだな」

「そうだな。お前の国の死生学で言えば、閻魔と呼べる存在だ」

「それは、光栄だ。親っさんの姿をした閻魔様に地獄へ案内してもらえるとはな」

「自分は地獄行きだと?」

「浄土に行けるとは思っていないが」

「確かに、お前の罪だけを見ればそうだ。しかし、そう単純に済まないから、この件はこの俺が預かることにした」

「どのような問題が?」

「愛だ」

「愛?」

「そう。お前が往生際に受け止めたあの愛。正直、ここまでの罪に釣り合う愛なんて今まで聞いたことがない。本来なら、それに見合う酌量を行うのだが、下手をすれば浄土行きになるかもしれん」

「情状酌量はありがたいが、完全無罪までは望まないな」

「かといって、かの者の意を削ぐようなこともしたくない。よほどお前は、恨まれ、そして愛される人生をおくってきたようだな」

 わたしに向くのは、前者恨みだけだと思い込むようにしてきたが、今ならその言葉も素直に受け入れられた。

「では、どうすれば?」

「そこでだ」

 すると、閻魔様は何か後ろめたそうに背中を丸め、わたしを手招きした。

 そばに駆け寄るわたし。

「ちょっと頼みがあるんだが…」

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