ローズブーケ

涼子には、トリマーを続けなければならない理由がある。

他人から見れば些細なことかもしれない。

ただ、それを貫くまでは辞めずに続けると、

仕事に就いた時に涼子は自分自身と約束した。




受付時刻から15分は経っていた。

涼子はトリミング室の真ん中にしゃがみ

こんでいる。

その隣にはうなり声をかすかに漏らしながら、マズルをピクピクと動かし牙を見せ威嚇をしている柴犬がいる。

涼子は柴犬の着けてきたリードを右手で短く持ち、左手では口輪を構えている。

優しく撫でるようにして、長く立派なマズルに口輪をはめ込んでいく。

その瞬間、ちらつかせていた柴犬の牙が露になる。


『ギャーギャギャウッ!』


カツーン……



柴犬は叫び声をあげながら、涼子が着けようとしていた口輪を牙で弾き飛ばした。

口輪はトリミングルームに舞い上がり虚しい音を立て転がっていった。


「大丈夫ですかっ……?」


と慌てて口輪を拾った徳永とくながさゆりが

駆け寄ってくる。

さゆりは涼子よりも1つ歳上の23歳だが、

先に涼子の方がこの店でトリマーとして

働いているので後輩にあたる。

小柄で化粧っけもなく素朴な顔立ちなので

涼子よりも歳下に見える。

同じアルバイト勤務で、トリマー経験者だがブランクがあるため、まだオロオロとしてる様子が見受けられる。


涼子は後輩に危ない思いはさせまいと犬にも負担をかけないように、口輪をつける役を

率先してやっていた。


「ぐぅちゃん今日かなり機嫌悪いですね……」


さゆりは眉を八の字にして困惑していた。


「さゆさん、有り難うございます。」


涼子は目礼し、口輪を受けとる。


ぐぅちゃんは3歳の柴犬の男の子で、

トリミングが大嫌いなワンちゃんで爪切りや、スリッカーにも咬みついてきてしまう

ため口を傷付けないように飼い主の了承を

得て口輪を着けさせてもらっている。

自分の自由を拘束するこの口輪さえ抵抗し

続ければ大嫌いなトリミングをされないと

いうことをぐぅちゃんは理解していた。


涼子はすでに20分をこの口輪をつける

作業に費やしてしまっていた。



どうしよう……冬毛に変わってきている

柴犬のシャンプーブローはただでさえ

時間がかかる。

一時間半は時間をもらっているとはいえ、

約3分の1の時間を何も出来ずにいる。

このあとも予約が埋まっているのに……

早くしなければ……



焦った手でまた口輪をぐぅちゃんの顔に

近づける。

ぐぅちゃんは次の手を読んでいたかのように、カウンターを食らわす。


「痛っ……!!」


ぐぅちゃんの牙が口輪を持つ左手にかぶり

付いていた。

人の手を咬まないようにと飼い主がしつけをしていた為、すぐに手を解放してくれた。

ぐぅちゃんも、やっちっまった……という

表情をしていた。

口輪に咬み付くつもりだったのだろう。


本気咬みではなかったものの、成犬の柴犬の咬む威力は中々で、手の甲はじんわりと血を滲ませていた。同時に涼子の視界もじんわりと熱いものが込み上げていた。


「しまこさん……だ、大丈夫ですか……」


話し出すと瞳から熱いものが溢れそうで

言葉を発することができなかった。

さゆりもどうしたら良いかわからずそれ以上話しかけてこなかった。


ぐぅちゃんの息づかいだけが、部屋に響いていた。


ノックの音の後、トリミング室の引き戸が

開き


「おはよーございまーす」

「おはよー」


遅番の洋子と、チーフトリマーの館山光希たてやまみつき

続けて出勤してきた。

光希は身長150㎝で瞳も丸く、くりっとしていて幼く見えるがこの部署では最年長の24歳である。

昨夜の飲み会の女子メンバーの一人でもあった。


「あ……おはようございます」


疲弊した涼子と、さゆりが声を揃える。


「しまこ、血ぃ出てんじゃん」


と洋子が左手に気づく。


「まだ口輪つけられてないの?何してんの?」


チーフトリマーの光希はさらに続けて言う。


「口輪貸してみ」


言われるがままに口輪と手汗でびっしょりになったリードを光希に引きわたした。


「手洗って、消毒してきな~~」


と背後から洋子に肩をポンとたたかれる。

込み上げていた熱いものが一粒瞳から落ちた。

お礼を伝え、シンクに手を洗いにいく。

幸い、傷はそこまで深くなく消毒を済ませ、

トリミング室に戻った。

そのときすでに光希はぐぅちゃんの口輪を

見事に着け終え、洋子がぐぅちゃんの爪切りを終わらせていた。

戻ってきた涼子を確認すると


「あと一時間で頑張れ!ぐぅちゃんも頑張ってんだから」


光希に渇を入れられ、涼子とさゆりは

ぐぅちゃんのシャンプーに取りかかった。


--情けない。


涼子は居た堪れない想いに駆られていた。

先輩ぶって、結局何も出来てなかった。

あの二人との実力差はどれだけ働けば縮めることが出来るのだろう。

涼子はゴールのないマラソンを走って

いる気持ちになっていた。


――――いや、約束の時まで続けられたら、

それでいい。どうせ私は社員になれなかったアルバイトなんだから――――



時刻は19時。涼子の上がる時間へとなっていた。光希と洋子の協力により、

その後の予約に影響を出すこともなく、

定時には上がれる支度をしていた。

ハサミに油を差し一丁ずつ丁寧に手入れを

していく。


コンコン


ノックとほぼ同時にドアが開く。


「失礼します~~!トリマーさん達、今日の三田みたさんの送別会参加しますよね?部署ごとにプレゼント用意するって話あったじゃないですか?

回収に回ってるんですけど、どこにありますか~?」


副店長の藤堂千明とうどうちあきが軽快にトリミングルームに入室した。

千明は現在25歳で3年前にアルバイト勤務で入社したが、1年目に受けた社員試験に合格し実力を認められ現在の役職を任されている、と光希から聞いていた。

……私とは違う人間なんだろうなぁ……と

涼子は羨望を抱いていた。


「やっべ!忘れてた!」

光希はくりっとした瞳を一回り大きくして

言う。


「館山さ~ん、昨日買うって言ってたじゃないですか~~!どうします?送別会21時からなんで、私モールで買ってきましょうか?」


口角は上がっているが目は笑ってない

千明が提案する。

昨日はあの飲み会のため失念していたのだろう……。

光希はあの中の男性メンバーの一人と連絡先を交換していたようだった。


「あの……私もうあがりなんで買ってきますよ!モールで何か探してきます!」


「まじ!?いいの??有り難う~~!!」


涼子は仕事での未熟さをフォローしたくて、

こういった役を自ら名乗り出てしまう。

行きたくなかった飲み会を断れなかったのも、自分の仕事の出来ない所を別の方法で

挽回しようとした為だった。

こんなことしても本質の改善になんて

ならないのに。


「助かるよ!有り難うね。ドッグキャット部とスモールアニマル部からは雑貨品のプレゼントを用意してるみたいで。被らないようにお花とかお願いしても良いかな?三田さん

お花好きだし」


千明からの指示に、かしこまりました!と

涼子は残りのハサミの手入れを済ませ

休憩用に持ち込んだパーカーを羽織り

モールへと急いだ。


涼子が勤務するショップ『ぺっともーど』は、ファミリー向けのショッピングモールに

入っているテナントの1つだ。


ショップを出ると、すぐ隣には

『FLOWERHOUSE bouquet

《フラワーハウスブーケ》』

という名前の小さなお花屋さんが

併設されている。


カラフルな花々がディスプレイされている。

涼子は花の種類に詳しいわけではないので、

贈答用のブーケ売場に行き、最後のひとつを手に取ろうした。


あ、これくださるー?とキラキラした装飾

たちを見に纏った婦人がブーケを手に取り

レジまで行ってしまった。


えーーー!マダムーーー!

それは、私が……!

と思った時にはブーケはお持ち帰り用に

綺麗に包まれていた。


どうしよう、もう完成しているブーケないよ……と途方にくれていたとき、


「あの……よかったらブーケ作りましょうか?」


お店のロゴの入ったエプロンをした

涼子とさほど年齢の変わらない男性スタッフがおずおずと声をかける。


「え!いいんですか?今日プレゼントするのに必要で……」


「勿論ですよ!ご希望のカラーや使用したいお花はございますか?」


男性スタッフはニコッと目が線に見える位の笑顔で口元は八重歯が覗いていた。


「実はあまりお花に詳しくなくて…

お花屋さんにおまかせでお願いしてもいいですか?」


「はい!おまかせください!」


朗なか笑顔のまま、贈り相手はどんな人柄か、送別会でのプレゼントに使うことや

質問を重ねながら、ブーケを作り上げて

くれた。


「わぁ……綺麗……このお花は知ってます!薔薇ですよね?」


「その通りです!ピンクと白の薔薇を組み合わせてみました。いかがでしょうか……?」


少し不安の色を覗かせながらお花屋さんは

涼子の返答を待つ。


「すっごく素敵です!あっという間に作られていくのが、魔法のようでした!さすが社員さんですね!」


ややあってから、


「有り難うございます!ただ僕社員ではなくアルバイト勤務なんです……。ブーケ、大丈夫でしょうか……?」


お客様にこんなこと言うものおかしいのですが、とお花屋さんは付け加える。


涼子は自分から何気なく出た言葉に驚いて

いた。


仕事ができる人は社員に違いない。


自分の中で留めておこうと決めた卑屈な思いを溢してしまった。

口にしてしまっては、昨日の男やマウントをとってきた同級生の女友達と同じではないか。


「……すみません!早とちりしてしまって。ブーケ本当に素晴らしいです!プロフェッショナルな仕事だと思いました」


「え!!うわぁ……すごく嬉しいです!有り難うございます!」


お花屋さんは頬を紅潮させて頭を下げる。


「私も、実はお客様というよりは、この隣のペットショップのトリマーでアルバイトしてるんです」


「そうだったんですね!トリマーさんって動き回るわんちゃん達を綺麗にしていくから、すごいお仕事ですよね」


社交辞令かもしれないのに、と頭に浮かび

ながらも涼子はお花屋さんの言葉を受けて、

昨日からの刺々しい気持ちが和らいでいくのを感じた。

陽だまりに咲くお花のような温かさ。

お会計を済ませお店を後にしようとしたとき、



「僕にとっては大切なお客様なので、何か

あればいつでも相談にきてくださいね!」



涼子はお日様に向かって咲く花のように

まっすぐとお花屋さんを見てお礼を伝えた。

刺々しさのない綻んだ表情を浮かべながら。



三田さんの送別会も終盤になり、

諸々のプレゼントなどと一緒に先ほどの

ブーケも千明が代表して渡していく。


「すごーい!素敵なローズブーケ!

私、薔薇大好きなの~!嬉しい!」


三田さんは、商品部のチーフを担当していた。仕事熱心で自分にも他の人にも厳しく、

いつも眉間にシワを寄せてることが多かったが、商品部の皆から絶大な信頼が寄せられている人だった。

こんなに柔らかな微笑み方をする人だったのか、と涼子は初めて知った。

この笑顔をお花屋さんに知らせたいな。

ブーケを手掛けてくれたお花屋さんの事を

涼子は思い浮かべていた。

要望を汲み取りながら、お店にある花を

美しく組み合わせていて、まさにプロの仕事

だった。

アルバイトだから、社員だから、というのは

問題ではなくプロとしてどう働いていくのか

が重要ではないのか。

光希や洋子との違いはプロ意識の差ではないのか。

仕事が出来ないことに対して他の事で

取り繕うのではなく、

仕事と向き合わなければいけないのではないか。


涼子の中に、何かが芽生え始めていた。


今度、お花屋さんに改めてお礼を伝えにいこう。


涼子は生き生きと咲き誇るローズブーケを

見つめながら、そう心に決めた。




薔薇(ピンク)花言葉

感謝 ※一部を抜粋


薔薇(白)花言葉

深い尊敬 ※一部を抜粋

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