ラナンキュラスとトリマー

おおはしカフカ

金木犀

「でもどうせ、バイトでしょ」


その言葉を聞く度に涼子は苛立ちを隠せなくなっている。


イライラを隠すことなく、マドラーでカクテルの氷を砕く勢いでゴリゴリとかき回す。


これで察しろ、と思いながら涼子は男を一瞥した。


男は苛立ちに気付く様子もなく、誇らしげに話を続けようとしていた。


さっきの言葉のあとに続く台詞は大体予想がつく。


「しまこちゃんも早く正社員にならないとね」


はいでた~~、上から目線。


想像通りの言葉。悔しいので涼子も言い返す。


「トリマーという仕事にやりがいを感じてるので……雇用形態に関わらずやりたくもない仕事に時間を費やすのは抵抗ありますね」


我ながら苦し紛れな言い分と思ったが、言われっぱなしも耐えられないし、この男との会話も切り上げたかった。


男がこの会話の前に『今の仕事早く辞めて転職してぇ……』と嘆いてたことを思いだし、皮肉を交えてトゲのある言葉をお返ししたのだ。男からの返答を待つ気もなく、涼子はちょっとお手洗いに…、と宴の席を立つ。



飲み会にセッティングされたイタリアンバルのこのお店はカウンターが6席、テーブル席が6卓と広くはないが、バランスよく設置された観葉植物に、温かみのある木製のテーブルを淡いオレンジ色のライトの光がアットホームな店内を一段と優しい空間へと創り出している。


涼子達の席は6卓のうちの2卓を組み合わせて壁際に団体席としてセットされている。


涼子は先輩達のセッティングした飲み会の人数合わせで呼ばれていた。


人見知りの涼子がしぶしぶ参加したことにより男性3名、女性3名の飲み会が無事開催されたのだ。


下座にいた涼子はすんなりと席を外れることができ、時間稼ぎのためのお手洗いにエスケープした。


中にはいると個室が一つの他に、大きい鏡とお化粧直しのスペースが広々と設置されていた。メイク落としのための綿棒、高級化粧品ブランドのあぶらとり紙、いざというときのナプキン、英字でosmanthusと書かれたフレグランススプレー、瑞々しい生花で纏められた卓上ブーケが規則正しく並べられていた。


わぁ……さすが女性に人気なお店だと涼子は感嘆の声をもらす。


居心地よく過ごしてほしいという店主からの想いが伝わる心配りが散りばめられていた。


鏡に映る自分のテカテカに脂の浮き出てきた顔をぼぅっとみる。


しばらく、戻りたくないな…と思いに沈む。


化粧直しする気にはなれないが、時間は稼ぎたいのでセミロングのパーマヘアをくしゅくしゅと揉み込むようにいじる。


初対面での会話がそれほど得意でない涼子にとって、人目を気にせずに過ごすこの時間は貴重だ。


緊張と苛立ちとで凝り固まった心を少しずつ解きほぐしていく。


しかし唐突にガチャっと扉が開く音がした。


ギクリ…と、涼子は体を強張らせる。ほぐれかけていた心はピシピシとまた固まりはじめた。涼子の憩いの空間に何者かが侵入した。


はっと振り返ると女性メンバーの中の一人が様子を見に来ていた。


「しまこぉ~~酔ったぁ?大丈夫ぅ?」


頬をピンク色にして呂律もあやしい先輩こそ大丈夫なんだろうか、と頭をよぎったが、突然の侵入者が先輩でよかった…と安堵の気持ちの方が強く笑顔で返答をする。


「大丈夫ですよ!洋子先輩が私のこといつも通り『しまこ』って呼びまくるから皆さんに本名覚えられてないんですけど~~」


一個上で23歳の宮城洋子は目鼻立ちはっきりとした顔に黒髪ロングヘアーの一見クールビューティーでとっつきにくい印象である。


仕事で上手くやっていけるか不安だったが、実際話してみると気さくな女性で涼子も穏やかな気持ちで会話を楽しめる。


大志摩涼子おおしまりょうこだと長いじゃーーん」


フルネームで呼べば皆それなりに長いですよ、とこれまで何度突っ込んだかわからない。


仕事中、洋子に『おおしまこさん』と謎の言い間違いで呼ばれたことが今のあだ名の由来である。おおしまこも長いのでしまこに定着した。


「それに洋子と涼子って響き被るし」


といたずらっぽく笑って洋子は付け足した。


涼子に洋子、ともに平成生まれにしては昭和感満載な名前なのでお互いに仲間意識を抱いているに違いないと涼子は思っている。


涼子のこれまでの生活で変わったあだ名で呼ばれた経験もなかったので、しまこというあだ名はひそかに気に入っていた。


「今日の飲み会微妙だよねーしまこさっきちょっとキレてたでしょ」


リップを塗り直しながら洋子は言った。


気づかれてしまった。


あの男に対して怒りを露にしたつもりではいたが他の人にまで察しられてしまうと、場の雰囲気を台無しにしたのではないか……と


不安になってしまう。


カッとなるくせに気は小さいのだ。


涼子が口籠っていると、洋子はそろそろ戻るか!と話を変えた。


触れられたくない所は踏み込んでこない洋子に心の中で感謝をする。


そうですね、と涼子はトイレに逃げ込んだときと同じテカテカ顔のまま席に戻った。


食事のあとみんなはカラオケに行く話で盛り上がっていた。


場の空気を台無しにしてなかったことに密かにホッとしていた。


涼子は次の日が早番だったので先に帰らせてもらうことにした。


勿論この飲み会でアドレス帳の件数が増えることはなかった。



帰りの電車に揺られながら、涼子はほろ酔いの頭でさっきの男の言葉と嘲笑を浮かべた表情を思い返していた。


つい最近もあの表情をみたなぁ…と忘れようとしていた記憶が呼び覚まされる。



涼子は関東に40店舗を展開する業界では大手のペットショップ『ぺっともーど』のトリマーとしてアルバイト勤務している。


一年目はトリマーという仕事に就けるだけで心は満たされていた。


アルバイトでもいい、トリマーとして働けるなら……!!という気持ちだった。


勤めたばかりの頃は周りからも


「トリマーってわんちゃんの美容師さんでしょ?すごいね!!」


「今度うちの犬もやってよ!」


と言われることも多く、この道を選らんだことは間違えてなかったと自信を持っていた。


しかしここ最近働き方について追及されることが増えた。


高校の友達と集まるときも、いつ社員になるの?とかボーナスないの?とか、


自分がやりたい仕事をしているか、


よりも正社員になることが人間の成功のように話をされることが多くなった。


なので飲み会での男から言われた言葉も、


涼子にとっては耳の穴が塞がるんじゃないか……と思うほど耳に詰め込まれてきた言葉だったのだ。


涼子も正社員の方が福利厚生や給料も安定していて、アルバイトのままよりもずっと良いだろうという周りの意見も頭ではわかっている。


ただ、目指していた仕事に就けているということ……それだけでも、誇って良いのではないか。


アルバイトですがやりたい仕事に就いてます。こう言うと


「でもどうせ、バイトでしょ?」


お馴染みの言葉がまたループする。


以前高校の同級生で女子会を開いた。


そのときのメンバーの一人が正社員として事務員に勤めたといっていた。


毎日毎日同じことの繰り返しで辟易していると、虚ろな目で仕事のことを語っていた。


涼子は自分のやりたい仕事に就けたことは有難いことなんだなぁ……と噛み締めながら彼女の話を聞いていた。


そんな彼女の目がイキイキと輝きを取り戻したのは、涼子の仕事の話題になった時だった。肉食動物が食料となる獲物を見つけたときのような目。


お馴染みのあの言葉を封切りに、彼女はあからさまな嘲笑を浮かべ語り始めた。


「やりたいことを仕事にしてるのもすごいけどさ、もっと先のこと考えてる?退職金とか産休とか大事だよ?涼子のこと思って言ってるんだよ」


正論だと思う、けど何かが違う、それなのに言葉にできない。奥歯を食い縛り愛想笑いを貫いた。それが精一杯だった。


「涼子も早く正社員になりなよ」


その言葉をピリオドに話題は新しい彼氏の話や、気になる人ができた、などという女子会ならではの恋愛トークが泉のように湧き出ていた。


そのあとの記憶はもう曖昧だ。嘲笑を浮かべた彼女の表情は今日のあの男との表情と重なる。


獲物を捕らえ栄養を蓄えて、あぁ……明日も生きていけるぞっと目を輝かせている。


自分は勝者である、とそんな表情だった。



ズキンとこめかみの痛みにハッとする。


知らぬ間に歯を食い縛っていたようだ。


気付くと電車は涼子の下車する駅へと到着していた。ドアが閉まりきる前に慌てて外へ飛び出す。


危なかった……明日は暴れる柴犬の予約が入っていたからもうゆっくり休みたい…。


電車から飛び出すとようやく残暑から抜け出した10月のヒヤリとした秋の空気が頬を撫でた。


日曜日の深夜近くとなれば、明日からの戦いのため企業戦士達はすでに休息をとっているのだろう。タクシー乗り場もいつもより空いている。自然と足が乗り場へと向かう。


涼子の自宅は駅から100mほどの坂道を二本登らなければならない。大体20分ほどかかる。人通りもある道なのでこの時間でも徒歩を選ぶことも多い。


ただ、今日は早く帰りゆっくり休みたいという気持ちが乗り場へと導いていた。



-----私は時給980円のただのアルバイト----



目を背けている自分の現状が脳裏に浮かぶ。


タクシー乗り場の寸前の所で、1000円でも節約しなければいけないという気持ちが湧き出て足を止めた。


改めて気合いを入れ直しタクシー乗り場から踵を返した。


ザァーザワザワ……


小夜風が街路樹をゆらし涼子の背中を押すように吹いた。


同時に爽やかで甘い香りが鼻腔をかすめた。小さな刺激に目が覚める。


香りはもう空気に溶けてしまっていた。


鼻に残るわずかな香りで儚いその存在を確かめる。


あの橙色の…小さい花…なんて言うんだっけ…。


香りの記憶からその姿を思い描く。


ああ、そうだ、金木犀だ。


あの小さな花からどうしてこんなにも存在感のある香りが出せるのだろう。


雨や風で惜し気もなく散ってしまう


橙色の小さなあの花が


『私はここにいるよ。ここで生きているんだよ。だれか気づいて』


と言っているような気がした。


「わたしはここで生きているよ…」


ぼそっと、涼子は言葉を夜の風にのせた。


そして香りの在処を探るように、深く深く空気を吸って涼子は一歩を踏み出した。




金木犀osmanthusの花言葉


『謙虚』『気高い人』




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