第7話 外道と極道の福音

 道を外れる者が居る、それは確かに

外道げどう』と呼ばれても致し方ない存在なのであろう。


 しかしながら道を外れた者を『外道』であると断じる行為は、その者が元より存在していた場所に所属する『内道ないどう』からの一方的な誹りであり……道を外れた者からの視点を借りれば、未だに旧態依然とした元の位置に漫然と留まり続けるだけの開拓者精神フロンティアスピリットのない、同好の士だけで寄り合いぬるま湯にと浸かっている臆病者として映るのではないだろうか。


 そう、外道と呼ばれる人間とは異端者であり……守旧派とも受け取られる保守勢力と云う名の現状の安寧と平穏を望む組織からすれば、革命派と見做され革新勢力と呼ばれるべき現状に破壊をもたらし、不穏や不和の使者となる可能性を秘めた個のことを指すのであろう。


 閑話休題ではあるが、上記にて述べられている『守旧派・保守勢力』および『革命派・革新勢力』とは……現代日本における政治信条や思想に基づかぬ、選挙に一喜一憂するだけの薄っぺらな政党組織や、組織に擦り寄る烏合の衆たる政治屋どもの存在とは切り離してお考え戴きたい。


 話を戻そう、したがって『内道』に在る者と『外道』に至りし者の差異とは……組織の過去と前例踏襲と云う枠組みの中に留まり守備的に立ち回るのか、その枠組みより飛び出して攻撃的に打って出るかだけの違いであり、当該組織や派閥に所属していない人間の視点からすると本質的に何ら変わるモノではなく、『外道』と『内道』のせめぎ合いとは……似た者同士の痴話喧嘩にも等しいとして映るのだ。


 それはユダヤ教におけるイエス・キリストの存在であり、キリスト教における東方諸教会・正教会・カトリック教会・プロテスタントの区別である。

 儒者は儒教以外の思想つまり老・荘・楊・墨などを指して『異端』と呼んでいた。

 そして古代インドのバラモン教におけるヴェーダ聖典の権威を認める正統派アースティカ唯物論者チャールヴァーカ・仏教徒・ジャイナ教徒などを指す異端派ナースティカとの差異であり、仏教における小乗思想と大乗思想の差異や日本仏教における一向宗における異安心の排斥・曹洞宗内紛など禅宗の中での流派間での正統と異端の対立・日蓮宗の中での対立も同様の事案だ。

 更には学問の世界においてもアイザック・ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』(1687年)において万有引力という新たな考え方を提唱した時には、ゴットフリート・ライプニッツおよびライプニッツ一派の人々は、その考え方を『オカルト』という言葉で呼びつつ排斥しようとした。

 そして西欧では学問、すなわち知の探求は一般的にラテン語等で『Philosophiaフィロソフィア』と呼ばれ、長らく学問の世界ではフィロソフィアが正統なものであったが、1833年にウィリアム・ヒューウェルが『Scientist』サイエンティストという語を造語し、自分たちをそう呼ぶことを提唱した。

 しかし当時の大学という制度で地位が認められ社会的にも認められている学者たちは自身を『Philosophe』と呼ばれることを望み、『Scientist』を正統派ではなく異端者と見ていたため、彼らの社会的な地位は概して低かった。


 そう、各例題の内容から鑑みられるように……外道と内道・異端と正統などと云うモノは、時代と世界情勢・国家や人種・個人および団体の意思のような流動的で些細な事象によって変化する……違いでしかないと結論付けられるのである。



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 そして世界には道を極めた者が居る、彼らは『極道者ごくどうしゃ』と呼ぶべき人間であり……彼らは道を究めんと欲する『求道者ぐどうしゃ』の成れの果てとも云うべき存在なのだろう。


 元来は『求道者』も『極道者』も両者共に肯定的な意味合いを以て並び称された言葉ではあったのだが、現代日本においての言葉の用法に則ると……この二つの言葉の用いられ方はとも云える状態となってしまっている。


 『求道者』とは宗教的な悟りや真理を求めて修行や精進をする人のことを指す言葉であり、転じて運動競技の選手アスリートや研究や学究の徒として一心不乱に勤しむ人物を指し示す言葉として成立している。


 そしてもう一方の『極道者』とは江戸時代より侠客としての道を極めた人物を称える時に『極道者』と称した事から、博徒までも極道を称する様になってしまった。

 そのため本来の意味を外れてしまい道楽を尽くしている者、ならず者や暴力団員と同義語で使われる逆の意味で使用される事が多くなった言葉として変化していった。


 前述の『外道』と『内道』の差異と同様に、『求道者』と『極道者』についても大きな違いは見受けられない。


 どちらかと云えば『極道者』とは道を極めた到達点にまで至った人物を指す言葉であり、同じ方向ベクトルを向いた存在で比較するならば『求道者』と呼ばれる人物よりも更なる高みの位階レヴェルに座す者なのかも知れない。


 ここで日本人の心や努力する道程を美化する排他的な精神が顔を覗かせて、これら二つの言葉の在り様についての事態をややこしくしてしまったのではないかと想像できる。


 そう、理由については謙遜だとか遠慮だとかを美徳とする、謎の先入観バイアスが効いてしまうことにより、道を究めんとする者を尊び……既にその域に達してしまった状態にある人物については、過去の努力があったと云う事実を無視し、現状に満足している者として卑下するような空気感が存在するのではないだろうか。


 どちらかと云うと、その道を極めし者であるところの『極道者』は……何故だかな人物であり、『求道者』と呼ばれる人物と対を為す存在であると認識してはいないだろうか。


 大相撲の第35代横綱双葉山定次ふたばやま・さだじは連勝が69で止まった時に『我、未だ木鶏たりえず』と陽明学者の安岡正篤やすおか・まさひろに打電したという事案があるが、この逸話エピソードを以て求道者の美談とする精神論が……日本と云う国家・国民に蔓延する調の根幹であり『極道者』を絶対的に認めぬ闇の深い病巣なのだと思われる。


 達成された記録に対する祝福を与えるよりも早く新たな目標を強制され、到達点についての言及は否定的でありながら、引き続き『求道者』としての努力を強いられる……永劫に終わることなき死の行進曲デスマーチが奏でられるような、当事者からすると抜け出せない蟻地獄に嵌ってしまったかの如き、名状し難き恐怖と狂気が混在する社会には見えはしないだろうか。


 そしてそれは令和の世にも連綿と続く恐るべき社会の病態として存在しているのかも知れない。


 世の善男善女が何を成し遂げようとも……どのように偉大な記録を打ち立てようが、匿名性の高い電脳空間において偏った正義や正論を振りかざす卑怯なる衆愚共により、無自覚で無知蒙昧で共感力に欠ける揚げ足取りの言霊に晒され……数多の輝ける精神が生命が闇の中へと押し潰されて消失したことだろう。


 だからこそ敢えて私は提言したい、歴史や時代背景や社会常識、国家や人種や性別や姿形、それに世界を蝕む同調圧力の波や場の空気だけを汲み取ることに囚われて……自身を発露する機会チャンスを永遠に失ってしまうような愚かしい真似を、誰一人として行わぬように……ただその人が在りたいように在ることが叶う世界であるべきではないかと。


 そして全ての個人が在りたいように在ることが叶う日が到来したのであれば、その世界には外道と極道者が蔓延はびこり……互いが互いを排斥することも異端視することも、内道も外道も求道者も極道者も……帰属するべきあらゆる組織から解き放たれ、真の意味での尊重と歩み寄りアサーションが人類と云う種族にもたらされるのであろうと想起される。





【Lie treatise:完】





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 外道(サンスクリット語: tīrthikaティールティカ)とは、仏教用語で悟りを得る内道に対する言葉である。経典によっては『異道・邪道』などとも呼ばれる。

 転じて、一般に道に外れた人(堕落した者)全般も意味する。

 インドにおける本来の意味は渡し場・沐浴場・霊場を作る人のことで、一派の教祖を意味する。外道という言葉としては、他の教えを語る者parapravādinパラプラヴァーディンがある。


 極道者とは、本来仏教用語で仏法の道を極めた者という意味であり、高僧に対し極道者ごくどうしゃと称し肯定的な意味を指すものである。



2021.4.11

   澤田啓 拝

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