第6話 早過ぎの男

 左丘明さきゅうめいは春秋時代、魯の国兗州東平郡富城県の人であった。


 老境に差し掛かった或る日の左丘明は、自身がその人生において成し遂げた事業について……盲目となって久しい闇の世界から己を振り返り、他者からの評価を忸怩たる思いで噛み締めていた。


「あの……何も理解していない莫迦者どもめがっ!

 儂に対して孔子師匠せんせい指導書アンチョコ屋みたいな扱いをしおってからに……全くもってけしからんっ!

 儂が『春秋左氏伝』をしたためたのも、お主らが孔子師匠の深き意図を……『春秋』に記されしその深き思想を理解し得なかったからこそ、無知なる衆愚の民への憐憫の情を示してやっただけであったと云うに……彼奴らめは儂から受けた恩を仇で返すような真似しかしおらんっ!


 何が『左丘明のは、荒唐無稽な絵空事である』だっ!


 何が『孔子の弟子のに、左丘明の文章は軽過ぎる』だっ!


 孔子師匠には申し訳ないのだが、どのように重厚な語り口で思慮深い文体であろうが……読者に伝わらねばまるで意味がないのだっ!

 だからこそ儂が『春秋』を平易ラノベ化しての注釈書たる『春秋左氏伝』を発表した際には、彼奴らも……人民どもも拍手喝采で迎え入れた癖に、儂が渾身の一次創作オリジナルとして世に発表した『国語』は嘲り……軽々しく扱うとは、儂の創作者としての自尊心プライドをズタズタに切り裂きおりよるわっ!!

 彼奴らは……愚昧な民衆どもは、儂を孔子師匠の二次創作者パロディ作家としてしか評価しておらぬのかっ!

 ぬうう……忌々しき事柄よ、儂が孔子師匠よりも上回る創作能力を持ち合わせておるとは口が裂けても云わぬが……それにしても儂への評価が低過ぎるのだ、何故だ……何故なのだっ!!


 やはり世の趨勢は儒教文学の支配下にあり、儂の描くような幻想文学ファンタジーの出る幕ではないと云うことなのかのぅ…………」


 失意と絶望に打ちひしがれる左丘明であったが、彼は知らなかったのだ。


 左丘明が生きた紀元前500年頃よりさらに2500年以上も時を経た日本と云う国で、彼が記し彼が夢想した荒唐無稽な幻想文学ファンタジーがあらゆる種類の物語を押し退けて……その文学的地位を確固たるモノとしていることを。


 そう……左丘明が注釈書として遺した『春秋左氏伝』に記載されているほぞむの逸話エピソードこそ、実は彼が晩年に痛感するべきこのドス黒い感情を表現したモノであったことも…………………。



【It was too early for him:完】




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 『ほぞむ』とは自分のヘソを噛もうとしても口に届かないが、それでも噛もうとするほど残念でいらいらすることを表す故事成語である。

 

 春秋時代、祁候の三人の臣が祁候に進言したが、祁候が聞き入れずに言った言葉だと伝わっている。


 作中に登場した左丘明が記したとされる『春秋左氏伝』に「郤国を亡ぼす者は必ず此の人なり。 若し早く図らずんば後に君臍を噛まん」と表記されていることに基づくものである。


 なお…… 『春秋左氏伝』とは孔子の編纂による書籍であるとの説も根強く、左丘明が実在したか……また彼が『春秋左氏伝』を記したとの事実は、現在においても諸説があり……歴史的に確定されてはいないことを追記しておく。




2021.4.8

   澤田啓 拝

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