十万人達成記念配信! 〜ヒーローは遅れてやってくる〜
マスターの車に、はじめて乗る。どこにでもある大衆車で、それになんだか親しみを感じる。
ありふれたドアの音に、エンジンをかける音。惰性で流れだすカーラジオ。それは、マスターによってオフにされた。
「かまへん。配信か何かやってんねやろ。観ててくれてええで」
アトムの一家は、ほんとうに神なのだろう。みんな優しすぎる。俺はきっと一生アトムの方角に足を向けて寝ることはない。
「ハルタ君ー、早よ来てー。もう十万人いっちゃうよぉー」
モカの声。俺を、呼んでいる。さっきよりも顔色が悪い。それ以上ラーメンを食うな、と画面に向かって叫びそうになるのを、回り続けるタイヤが踏むアスファルトのひび割れを感じることで我慢する。
「ハルタ君」
俺を、待っている。あの景色の場所で。
またラーメンを一杯空にし、スタンバイしている次の一杯に。こんどはモカが得意ではない激辛麺だ。俺の悲惨な有様をライブ配信でお届けするために買っておいたものだが、それにもモカは臆することなく箸を突っ込み、辛い辛いと叫びながら果敢に立ち向かっている。
あんなにか弱いのに。腕なんて、すぐに折れてしまいそうに細い。腹も壊しやすいし風邪は引くわ花粉症だわ胸はないわのモカが、これほどまで強く粘っている。
思い違いをしていたのかもしれない。
俺がモカを連れて行くんだ、とずっと思っていた。どこかで、モカを守っているような気がしていた。それは、半分は間違ってないだろう。だけど、全部じゃない。モカが、あそこで俺を待ってるのかもしれない。モカという存在であり続けることで、俺を守っているのかもしれない。残りの半分について、今、なんとなくそう思った。
ナナコさん。俺を、好きだと言ってくれた。人生において、はじめての経験だ。
こんな俺のことでも、大事に思ってくれる人がいる。もちろんナナコさんだけじゃなくマスターや奥さんもそうだし、これまで出会った多くの人が等しくそうだ。
だけど、そうだと分かっていたとしても、ナナコさんはやっぱり特別で、素敵な俺の憧れだ。
俺が、あのお医者さんだったら。
目の前に苦しんでいる人がいて。そして、同時に自分の家族もその横で苦しんでいたとして。
俺なら、迷わず家族を取る。医者なら平等でなければならないのだろうが、医者失格と言われても、俺は絶対にそうする。
——幸い、私の家族は、あの通り健康ですから。
あのお医者さんは、たしかにそう言った。
動画を再生するときに確認した通知では、モカのほか田中さんからも鬼のように着信が入っていた。バイトが終わっているはずの俺と連絡がつかないのを、心配しているのか。
俺に連絡がつかないから、モカは自分一人で始めたのだろう。田中さんも、それをプッシュしたに違いない。
申し訳ない、と思った。そして、待ってろ、と。
「今向かってます。モカに合流します」
動画を再生しながら、田中さんに短くメッセージ。お気をつけて!というスタンプがすぐに返ってくる。きっと、俺からの連絡を逃さないよう、スマホにかじりつきになっていたのだろう。
「相川くんな、無理せんでええんやで」
スピーカーからではない、ステイサムの分厚い喉仏が震えて発せられる声。
「ナナコのことは、気にせんとき。あんたのことが好きなんやろうけど、あんたはあんたの思うようにしたらええ」
「マスター」
まさか、知っていたとは。
「自分の娘やで。それくらい分かるわ。その辺のしょうもない男連れてきよったらどないしたろか思てたけど、相川くんならええ男やし、まあええかと思てたんや。そやけどな、相川くん」
はい、と思わず背筋を正す。従順なシートベルトが、付いてきた。
「それは、あんたもナナコが好きなんやったら、の話や。親バカかもしれんけど、ナナコはどんな芸能人よりも可愛い。ナナコと付き合いたい男なんか、掃いて捨てるほどおる。そやけど、たぶん、あんたは他の男がそう見るようにはナナコを見てへんのんちゃうか」
そのとおりだ。ナナコさんといえば天使を超えて神だから、いっかいの生命体ごときが仰ぐことすらおこがましい。
「優しすぎるのはな、それはな、美徳や。そやけど、ときに人や自分を苦しめることもあるんかもしれんな」
誰の、何の話だとは言わない。それでも、マスターが何を言いたいのかは、よく分かる。
「ま、ええねや。あんたは正直な男やった。改めてそう思えて、嬉しいわ」
「マスター。申し訳ありません」
「謝ることない。いっつもナナコの前で挙動不審になっとったアンタが、今日にかぎってえらい冷静やった。ナナコは、惚れ直したかもしれんな」
「そんな、冗談はやめてください」
「悔しがりよるで。ああ見えて、案外気ぃは強いからな。あんたの相方のその子——」
と俺の握りしめるスマホを顎で指し、
「——のことやから、冷静になってられるんや、てな」
「そんなことないです」
「なんや。男やったら、潔く認めんかい」
「はい、すみません」
マスターが、豪快に笑う。そして、少しばかりアクセルを踏み込む。
北山のマンション。マスターには何度もお礼を言ったが、ええから早よ行ったれ、後悔してからやったら遅いぞと押し出された。
手にしているスマホからは、まだモカの頑張る姿。まだ激辛麺と格闘しているが、時間が経てば経つほどに麺は伸び、モカにとって不利になっている。
遅くなって済まない。
待たせたな。
俺なしで、よく持ち堪えた。
ヒーローは遅れてやって来る。そうだろ?
カメラの画角に自分が映り込んだ瞬間、何と言おう。そのことを考えながらモカから預かっている鍵でエントランスを解錠し、エレベーターに。
「ハルタ君——」
モカの声は、もう泣きそうになっている。リアルタイムコメントには、モカを励ますコメントと俺に早く来いと催促をするものが溢れかえっている。
「もう十万人超えちゃうよぉ」
二階。
「早く来てぇー」
ついに、鼻から麺を一本垂らしたまま、泣き出してしまった。
三階。
モカ。
モカ。
待ってろ。
モカの部屋のドアの鍵穴に通り魔のように鍵をブッ刺し、回し、跳ね開けて、靴を飛ばして駆け込んで。
カメラ。ライブ配信用の機材。散らばったカップ麺の容器。充満しているそれらの匂い。テーブルの前にちょこんと座っている、モカ。
目が合った。
「うええええぇ」
俺の姿を見た瞬間、大泣きに泣き始めてしまった。
駆け寄る。カメラに映っている。ここでキメてこそのハルタだ。さっき思い浮かべた選択肢のうち、
——俺なしで、よく持ち堪えた。
というものを採用することに決めている。いつも俺が演じる大キモ厨二童貞クソ虫男に相応しいからだ。
「ごめんな。モカ。一人で頑張ったな。ごめんな。ありがとう。待たせてごめんな」
あれ。
思ったのと違う?
「ハルタ君——」
暖かい。それに、やわらかい。
「——わかってると思うけど、ライブ配信やで、これ」
モカのいつもの香水。俺の鼻の中で踊った。
抱きしめている。思い切り。
モカも応じて、俺の首に腕を回している。
おかしい。
こんなはずじゃなかった。
ちらりと、ライブ配信用のモニターに目をやる。登録者は、十万とんで七人。
記念すべきこの瞬間、俺はモカと抱き合っていた。
顔から火が、というか炎上のモトか。
いや、それでもいい。
俺は、選んでここまで来た。
「モカ。十万人、超えたよ」
「うそ。ほんま」
抱き合ったまま顔をモニターに移したモカが、声を明るくする。
「やったあ!」
「ハルタ君、おめでとう!みんな、ありがとう!」
俺たちは、抱き合ったまま歓声を上げた。
みんな、観てくれているだろうか。マスターは運転中だろうけど、ナナコさんは。奥さんは。モカのお父さんは。お母さんは。俺が一日だけ入院したとき出会った看護師さんは。もしかしたら、前に世話になって辞めてからドン底だった俺に食い物を施してくれていた喫茶店のオーナーや銀閣寺荘の大家さんも。
みんな、観てくれているだろうか。
ハルタモカ、結成から半年弱。ようやく、登録者数十万人を超えました。
今日、俺たちは、またあたらしく産まれました。そんな気がしています。
千葉の親父やお袋は、俺がビューチューブをしているなんて知らない。だけど、何かで知って、観てくれているかもしれない。
この配信を観てくれているみんな。そして、まだ俺たちのことを知らないみんな。
モカと、目が合う。
頷いて。
「やっほー、みんな息してる?ハルタモカです!」
やってやる。百万人まで。その次は、一千万人だ。
俺たちのことを知らない人も全員、笑わせてやる。
親父。お袋。観てるか。俺は、そのために生まれてきたんだ。
配信用モニターには、抱き合う俺たちを称賛する声。おめでとうの嵐。どうやら、炎上の心配はないらしい。
世界に祝福されている。そう思える。たぶん、それは、俺が自分が駄目なのを世界のせいにするのをやめたから。人のために何をすべきかと考えるようになったから。
それでも俺たちのことが嫌いな奴はいるだろう。どれだけ話しても分かり合えない奴もいるだろう。
だが、少なくとも、俺たちのことを知っているフォロワーはみんな俺たちを祝福してくれる。あんなに気難しそうなモカのお父さんだって、分かってくれた。ナナコさんも、マスターも。
欲しければ、まず与えろ。誰かが、そう言っていた。自分が持たないことを嘆いているより、ずっといいと。
二十四歳、京都の春。ドン底から見上げるしかなかった俺は、秋、ここにいる。
世界の中にある、自分がいるべきだと思える場所。それは作り出すものであり、与えられるものである。
愛方モカ。マジで感謝するぜ。これからさらに大変になるが、ま、ひとつよろしくな。
どこかで挟もうと思っていた厨二セリフだが、言いそびれたままなのが心残りだ。
——かなりいい感じに締めくくりつつあるのが自分でも鼻につくので、このあとモカの食べ残した激辛麺を一気に吸引し、盛大に吹き出したものをカメラのレンズまで飛ばしてしまったことを付け加えておく。
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