十万人達成記念配信! 〜ハルタ君は間に合うのか!?〜
マスターと二人で、アトムにナナコさんを運び込む。痩せているのにとても柔らかい——ナナコさんの名誉のために断っておくが、あくまで肩に腕を差し入れて支えただけだ——体が、異様に熱い。医者じゃなくても熱があることが分かる。
その間も、ポケットの中のスマホは鳴り続けている。それをうるさいと思ったが、とにかくナナコさんが大変だ。
「お前。すごい熱やないか。しんどいねやったら、早よ言わんかい」
「大丈夫。薬飲んでちょっと横なったら」
「救急車呼ぼか」
奥さんがスマホを取り出すが、ナナコさんはそれを拒んだ。
「ほんまに、大丈夫やから。ちょっと疲れてただけ」
心配そうに覗き込む俺と、目を合わせる。
「それより。ライブ配信、大丈夫なんですか」
「今は、それどころじゃ」
「でも、今朝もSNSで告知してはったやないですか。さっきから携帯鳴ってんの、そのことなんちゃうんですか」
消え入りそうな声でそう言われても。まともに受け答えをするような余裕などあるはずもなく、俺は曖昧に相槌を打つしかない。
「相川さん、ほら」
ナナコさんが自分のエプロンのポケットから取り出したスマホを、操作する。倒れるほどの体調でも、それはできるらしい。
「——あ」
「さあ、所用につき遅れているハルタ君は、記念すべき瞬間に間に合うのか!」
スピーカーから、聴き慣れた声。
モカだ。どうして。そう考えたが、一瞬で解決した。
田中さんの見立てでは今夜中に達成するだろうということだった登録者数十万人。それが想像を超える速さで近づいたため、モカだけでライブ配信を始めたのだ。
普段なら、もうバイトが終わって帰宅途中という時間。モカは、俺がもうすぐ帰ってくると信じてライブ配信を始めたのだろうが、俺が帰ってくるのが間に合うかどうかという急ごしらえの企画を持ち出し、必死に場を繋いでいる。
田中さんが送ってくれたスコッパーの備品であるライブ配信機材。昨日のうちに接続し、動作を確認していた。機械に死ぬほど弱いモカでも開始できたのだろう。
「わたしもただ待つだけじゃないですよ。ハルタ君が間に合うように祈って——」
小さなスマホの窓の向こうで、モカがカメラの画角外からカップ麺を持ってくる。
「ハルタ君が帰ってくるまで、食べ続けます!」
即席の——カップ麺だけに——大食いチャレンジだ。勢いよく一口。しかし、勢いがありすぎて変なところに入ったのか、むせ返って麺を勢いよく吹き出してしまう。
これは笑える。やるな、モカ。
いや、そうじゃない。早く帰らないと。だけど、ナナコさんを放ってはおけない。
「早く、行ってあげて」
「で、でも」
「お父さん、車」
「ナナコ。病院はええんか」
「ええねん。相川さんを、送ったげて」
わかった、と車の鍵を取りに行こうとするマスターを、俺は鋭く制した。
「お気持ちは有り難いんですが、ナナコさんが大変なのに、それを放っておくわけにはいきません。落ち着いてから、タクシーで行きます」
「大丈夫なんか、それで」
「大丈夫じゃないのは、ナナコさんなんです。それを——」
「相川さん」
俺の言葉を、外で夜を奏でている虫のようなナナコさんの声が遮る。
「アホなんですか」
「は?」
「熱は、薬飲んで横なったら下がります。せやけど、今、相川さんは、そんなんのために絶対に逃したらあかんもんを逃しかけてるんです」
ナナコさんが、また画面を提示してくる。
懸命にラーメンをすするモカ。全ての女性がそうなのだとしたら一般的な女性観を根底から見直さなければならないだろうというほどモカはよく食うが、早食いは苦手なはずだ。それに、パニックらしきものを発症して以来、勢いよくものをすすると目眩がすることがあるとも言っていた。
案の定、顔色がよくない。辛そうだ。
「行ってあげて」
「で、でも」
ここで行けば、俺はナナコさんよりもモカを取ることになりはしないか。
そう思って、ふと頭の旋回が緩やかになる。
それに、何の問題があるのか。
ナナコさんはたしかに外見も内面もこの世で一番美しいが、だからどうしたというのか。いや、俺の大切な恩人であることに変わりはないし、心から尊敬している。
新幹線でモカを助けてくれたあのお医者さんが、言っていた。たまたま、苦しんでいる人がいた。それだけのことだと。そのそばにあり、寄り添うことが、あのお医者さんの使命なのだろう。
では、俺は。
「——ナナコさん。ほんとうに、大丈夫なんですね」
「大丈夫です。だから、早く」
「わかりました。俺、行きます。ごめんなさい」
考えていても仕方がない。ナナコさんのことを放っておけないことに違いはないが、だからといってモカを放っておくこともできない。
では、どちらかを選ばなければ。
それならば、答えは決まっている。あのお医者さんだって、きっとそうだろう。
「早よ行って!」
まだ何が名残でもあるのか、じとじとと立ち尽くす俺の足を、ナナコさんのものとは思えないほどの鋭い声が回転させる。
マスターが、車の鍵を握りしめて戻ってきた。目配せをし、入り口の古びたドアを突き破るようにして開き、夜を抜け、一息に駐車場へ。
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