なれないもの

 ナナコさんは、アトムのある細道から三条通方面に向かう、さいしょの電信柱のところにいた。店から十メートルかそこらしか離れていないが、そんなところには閉店にかかる用事はない。


「どうしたんですか」

 宵というのだろう。夜が、夕方を浸していっている。瓦屋根の隙間で、あれを越えれば山科区という山がそれを知らせている。ちょっと前まではこの時間も明るかったのにと思うと、もう秋なんだなあと思う。


「ナナコさん?」

 もういちど、声をかける。ナナコさんの背中が、ちょうど夜に浸されて染まりきる空のように見えたからだ。

「大丈夫ですか」

 振り返り、笑顔。俺は思わず、ナナコさんが立つ電信柱に取り付けられた街灯に影を射抜かれたように立ちつくした。


「泣いてるんですか?」

「——ぜんぜん。ごめんなさい。お店戻りますね」

「ちょ、ちょっと」

 待てよ、とあの有名スターのように手を取って引き止めるところであるが、俺は声を裏返しただけだった。しかし意思は伝わったらしく、駆け出しかけたナナコさんの足が止まる。


「どうしたんですか。何があったんですか」

 ナナコさんといえば文殊菩薩のようなアルカイックスマイルが代名詞だ。こんな薄暗闇の中で涙を流すなんて、前例がない。

 いや、俺が知らないだけで、ナナコさんとて人間なのだから涙を流しもすればゴミ箱を蹴飛ばしたいほどに怒ることもあるだろうが、とにかく俺はびっくりして戸惑うしかない。


「ごめんなさい。相川さんに迷惑かけるつもりはないんです」

「そんなこと言わないでください。なにがあったのか、話してください」

 ほんまに、どうもないんです。ナナコさんがそれだけを遺言のように言い残そうとするのを、俺は遮った。


「何でもない人は、電信柱の影で泣くはずないです。教えてください」

 ナナコさんは少しため息を吐き、よく似合うボブヘアーの片っ方を耳に掛けた。


「なんで、そんな親切なんですか」

 どきりとした。なぜか、その言葉に俺を責めるような響きがあったからだ。

 前にも同じような色の声を聴いたことがある。ナナコさんが俺の身体を気遣い、休みを増やすようにしてくれたときだ。


「もう、相川さんはただの喫茶店のバイトの人とちゃうんです。わたしのことなんかより、もっと気ぃ配らんとあかんことがたくさんある人なんです」

 ナナコさんの目からまたこぼれ出したものを、受け止める方法はないのだろうか。たぶん、ないのだろう。だから、俺は言葉で返すしかない。


「俺は」

 何と言うべきなのか。ナナコさんが何を言おうとしているのか。何も分からず、かけるべき言葉を探し当てられない。それで、俺のターンは終わった。

「なんで、いつも人のことばっかりなんですか。なんで、いつも——」

 アスファルトが、黒く濡れた。夜になりきってしまっていたならそれを認めずに済んだだろうが、まだそれを許してもらえるほど暗くはない。


「相川さんは、もう、うちで働いてる場合とちゃうんです」

 ——まさか、俺がアトムを辞めるかもしれないから?

 とは思っても口に出せない。そうであるなら、ナナコさんは俺がアトムを辞める日が遠くないと想像して泣いているということになるからだ。


「相川さんを待ってる人が、いるんです」

「たしかに、お陰様で登録者数も、動画を楽しみにしてくれてる人も——」

「ううん」

 ナナコさんが、背負った街灯がもたらす影に隠していた顔を上げた。涙の数と不釣り合いな笑顔が、そこにあった。


「相川さんを待ってる人が、もういるんです」

 おなじことを二度言う。それは重要なことだからだと小学生のときの担任の先生が言っていた。

「それは、わたしじゃない。そやから、いいんです」

「よくないですよ」

 論点が見えない。思わず、俺の語気が強くなる。

「ナナコさんがそんな風に泣いてて、ほっとけるわけないです。何も、よくなんかないです」

「相川さん——」


 まさか。まさかな。そんなことあるはずがない。

 俺は頭の中に湧いて出たものを必死に否定した。

「わたしの友達の話、覚えてます?」

「友達?」

「ええ。こないだ話した。ほら、西陣の税理士事務所で働いてるて」

「ああ、こんど紹介していただけるんでしたね」

 正直、あのときは別のことを考えていて、よく聞いていなかった。その友達とやらがどうしたのだ、と思ったので、とりあえず続きを聞く。


睦美むつみちゃんていうんですけどね。事務所でアシスタントしながら、税理士になろう思て土日は専門学校通って勉強してはるんです」

「へえ。すごい」

「税理士て、すごい難しい試験らしくて。五科目ある試験を全部通らんとあかんらしくて、何年もかけて合格しはる人がほとんどみたいなんです」

「——それが、どうかしたんですか」

 それくらい難しい試験でも、睦美とかいうナナコさんの友達は折れることなく、いつか実ると信じて日々勉強している。そのようなことを、ナナコさんは言った。


「そやけどね、わたし、思うんです。どれだけ目指そうとも、なれへんものはあるんとちゃうかなって」

「勉強しても、そのお友達は税理士にはなれないってことですか?」

「ううん、睦美ちゃんは大学のとき法学部やったし、そうじゃなかったとしても明るいけどすごい頭の回転も速い子やし、絶対なれると思います」

「ナナコさん。ごめんなさい。何が言いたいのか、分からないです」

 そうですよね、とナナコさんは苦笑し、また髪を耳に掛ける動作をした。ボブヘアーにしても、長かった頃の癖が抜けないのだろうか。


「わたしは、駄目なんです」

「ナナコさんが?」

 何が、どう駄目なのだろう。才色兼備、よく気が回り、天上の神々からボルボックスに至るまで、あらゆるものに愛されるべくして愛されるナナコさんの何が駄目だというのか。

「わたしがどれだけ頑張っても、わたしは、相川さんのことを待つ人にはなれへんのです」

 言って、黙った。また、顔を伏せる。それが次に上がったとき、その目はとても強い——攻撃的と言ってもよい——ものになっていた。


「相川さんは、人気ビューチューバーにならはるんです。多くの人が、そう望んでるんです。いつまでも、こんな小っさい喫茶店で働いてるわけにはいかへんのです」

 それは、そうだ。俺がビューチューバーとしての成功を望むなら、永久にアトムでバイトをしているわけにはいかない。いつか辞め、ビューチューバー活動に専念しなければならなくなる。そして、そのときは、もう遠くはない。


「応援してるんです。むしろ、早くその日が来たらええと思うんです。そやのに、自分の勝手で考えたらあかんこと考えて、どうにもならへんくなってこんな風に泣くしかないんが嫌なんです。結局相川さんの迷惑になって。邪魔したいわけないのに、こんな風にしか」

 俺は女性経験ゼロのオオキモ小太り童貞クソザコ男子だけれど、人の気持ちが理解できないほど劣化はしていないつもりだ。だから、ナナコさんが何を言おうとしているのか、それを認めてしまえば森羅万象の法則が壊れてしまいそうで恐ろしいけれど、分かる。ここまでくれば、さすがに。


「もう、いいんです。忘れてください」

「忘れろったって、そんな簡単に取ったり付けたりはできないですよ」

 苦笑する俺の調子に、ナナコさんが合わせてきた。気まずい、と思っているのだろう。

「わたしがするべきことは、相川さんの成功を祈って、応援することだけ。それ以外のことをしたら、あかんのです」

 人の行動は、人の自由だ。だから、俺とモカは自分の為すべきことはここにあると思い定めてビューチューバーができている。


「わたしは、どれだけ頑張っても——」

 耳に掛かった髪の束が、弾んで流れた。それはもとの場所に帰り、ナナコさんの綺麗な顎のラインを飾った。

「——モカさんにはなれへんのです」

 それを嫌うように、また髪を戻す。


「あ」

 と母音の代表選手のような音が、思わず出た。

 珊瑚——いや、たしか瑪瑙メノウとかモカが言っていたっけ——か何かの赤い耳飾り。それが、ナナコさんの白い耳たぶで揺れていた。その様が綺麗に揃えられたボブヘアーと重なることで、俺にあるビジョンを与えた。


 モカ。


 モカの耳飾りに、よく似ている。それに、髪型も。

「何をどうしたって、相川さんにはモカさんがいる。お会いしたことはないけど、たぶん、どんな恋人よりも、兄妹よりも強い絆で結ばれたモカさんが」

 だから。とナナコさんは続ける。もう、涙は落ちていない。諦めきったような、悟りきったような。そんな表情なのだろうが、どんどん濃くなる宵の闇と、そのぶん際立つ街灯の逆光が表情を読み取らせてくれない。


「変なこと言うて、ごめんなさい。でも、どうせならスッキリさしてもらいます。わたし、相川さんが好きです。相川さんが来てくれてから、お店に立つのが楽しみで。できたら、長くいっしょにいて、喫茶店できたらええな、とか思てました」

「ナ、ナナコさん」

「でも、迷惑やって分かってたから、ずっと思うだけにしとこ、て思てました。それやのに、こんなことになって、ほんまにごめんなさい」

「い、いや、いいんです」


「安心してください。自分を押し付けるようなつもりはないです。そやし、相川さんは何にも気にしんでいいんです」

 なんというか、有無を言わせてもらえない。ナナコさんの中で発生したものが、解消されたのだろう。

 ビューチューブを諦め、アトムを。ナナコさんと付き合い、ゆくゆく結婚して。マスターや奥さんは、喜んでくれる気がする。

 では、俺がそれをするか。それを選ぶことが、あるか。ナナコさんは、そのことまでも考え、俺の言葉を待つことなく自分の中でたった今解決済みのフォルダに移動したぞということを伝えているのだろうか。


 なにか、言わなければ。こんなことがあるはずがないけれど、実際、ナナコさんが俺をからかっているのでなければ、そうなんだ。

 落ち着け。落ち着け、俺。俺にも、春が来た。いや違うそうじゃない。

 なにか、言おう。

 息から鼻を吸って、じゃなくて鼻から——。


「なんや、二人して。こんなとこにおったんか」

 マスターだ。俺たちが戻らないので、心配して様子を見にきたのだろう。

 気まずい。とても気まずい。もしかしたらこのステイサムに殺されるかもしれない。そう思い、盗むようにして表情を窺う。


「ナナコ?」

 マスターが本物のステイサムのように機敏になって駆け寄る。

 その動きを追った先に、ナナコさん。

 しゃがみこんでいる。

「ナナコ!どうしたんや!ナナコ!」


 ナナコさんは、答えない。答えることができない。ただ苦しそうにしている。ついさっきまで元気だったのに。

 新幹線の中でのモカのことが、なんとなく頭をよぎる。


 そういえば、さっきから、ポケットの中でスマホが鳴っている。おそらくモカがこのあと予定している十万人達成記念ライブ配信のことについて何か伝達しようとしているのだろうが、今この瞬間においてはナナコさん優先だ。


 ふと、振り返った。

 西の空にわずかに群青がある以外、いつの間にか夜だった。

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