季節だけでなく移ろうものがある
秋だ。
あれほどうるさかった蝉ははじめからいなかったかのように静かになり、アトムからクソボロ銀閣寺荘への帰路、虫たちはもっと柔らかい声で鳴くようになった。
モカのマンションのある北山界隈も、銀閣寺荘のあたりと同じくらい虫の声が多い。
かつては何か作っていたのだろうが、もう放置されて長いような農地。わざとらしく植えられた街路樹。名前の分からない小学校のグラウンド。いたるところに、その声がある。
コンビニの自動ドアがそれらを遮り、またその声に包まれ、歩く。両手には、今日の撮影——十月のコンビニ新商品紹介企画——のネタになる大袋。
東京からの帰路にモカを襲ったものは、今のところべつに日常生活に支障をきたすようなものではないらしい。毎日撮影をしているし、その間も至って普通だ。
だが、本人曰く、また同じような症状が出るのでは、と思い、電車に乗るのが怖いと感じるようになったそうだ。
パニック障害と共存する人が、自分に症状が出る因子が自分に近づくことを恐れるようになると言う。モカも、きっとそうなんだろう。
「でも、ハルタ君がいてくれたら、大丈夫」
と、モカは笑う。
俺は、何もできなかった。あのお医者さんがいてくれたから良かったけれど、そうでなければただテンパってデカい声で医者はいないかと叫んだだけの男だ。
「ハルタ君は、絶対わたしを助けようとしてくれる。そばにいてくれる。そやし、大丈夫やと思えるねん」
俺の頭の中を見透かしたようなことを言う。いつもの開けっ広げな笑顔ではなく、入浴剤が湯船に溶けるみたいな笑顔だと思った。
「だから、気負わんといて」
モカなりに、気を遣ってくれているのだろう。迷惑をかけたと思っているかもしれない。
モカに倒れられたら撮影はどうするんだというようなことは思い付かず、モカの身に何が起きたのかとただ驚き、心配になっただけだった。だから、迷惑だなどと思うはずもない。
「迷惑だなんて。お前が辛そうだったから、当たり前じゃん」
「ありがとう。嬉しい」
なにやら気まずくなり、俺は慌ててカメラをセッティングする。
登録者数は、もう八万を超えた。十万になるとき、ライブ配信でカウントダウンしようと田中さんが言っていた。それは、おそらくもうすぐだ。公開になった夏川タケルやハイチーズのコラボ動画を見たあちら側のファンのうち、俺たちのことを知らない人が毎日びっくりするような人数で登録してくれている。
明日か、明後日か、それは言い過ぎにしても週末か。それくらいのペースですから、いつでもライブ配信が始められるようにしておいてください。打ち合わせの中で、田中さんも興奮気味にそう言っていた。
はじめたときは、モカちゃんねるの元々の視聴者百人ほどであった。それが、半年弱で千倍になろうとしている。そうなれば、あと十倍。それで、百万人。計数感覚とはほど遠い理屈だけれど、そういうことだ。
当たり前だが、百人と十万人の差は九万九千九百人。十万人と百万人の差は九十万人なわけだから、差も十倍になるのは当然だ。だけど、そんなことを考えれば俺たちの登るべきタワーがどんどん高くなっていくばかり。
見上げるだけだったんだ。それが、タワーの足元まで行くことで、登りはじめることができた。今、地下から一階に出て、二階への階段を登っているくらいだろうか。それが三階に達すれば、きっとエレベーターがある。乗り込めば、展望室なんて瞬きをする間に着いてしまう。
そう思っていたい。
撮影を終えた。この数十分の間にも、登録者は増えている。
「この週末、ほんとにライブ配信かもな」
登録者数を示すカウンターを眺め、俺はほくそ笑む。もうすぐ、一週間連続コラボ企画も控えている。田中さんによってコラボ相手もセッティング済で、前半は関西方面、後半は関東方面という段取りだ。
モカは、大丈夫だろうか。シンプルに心配だ。
あの新幹線での出来事は、モカの電車に対する小さな恐怖心以外に、俺の中にも窓ガラスに点々とある雨の乾いた跡のようなものを残している。
ひとまず、十万人。ふたりで、盛大に祝おう。
ふたりで、ここまで来た。
モカのお父さん。田中さん。アトム一家。夏川タケル。ハイチーズ。多くの人が俺たちを押し上げ、導いてくれている。
ふたりでなら、どこまでも行ける。それが、俺たちの目指すもの。
それが、モカを壊すことと同義でないのなら。
土曜日。世の中のスケジュール感からか、金、土の夜は動画の再生数も登録者数も増えやすい。
いよいよ今夜だ。アトムの仕事を終えたらいつもどおりモカの自宅に直行し、ライブ配信をはじめる予定だ。さすがに、そのことに気を取られてしまい、テーブルに残るアルコールの拭き跡にムラができてしまっている。
残り千人が見えたらライブ配信を開始するとモカや田中さんと打ち合わせ、告知もしてある。おそらく、今夜八時から開始するので丁度いいペースだろうと休憩時間にチェックして目算を立てている。
「相川さん、なんか嬉しそう。いいことあったんですか」
「ナナナナコさん!いやあはは、べつに何もないですけど変な顔してましたかねオヒヒ」
変な顔をしていたかどうかは定かではないが、今は確実に変な顔をしている自覚がある。やはり短かめになった髪型もいい。というか美しすぎて今日も勤務中ロクに目を合わせられなかった。ようやく慣れつつあったところだというのに、話しかけられるたび働き始めてすぐの頃のようにイヒイヒなってしまう。
何を食べて過ごしたらこれほどに色白でいられるのだろう。もしかして、太陽に一度も当たったことがないのだろうか。太陽の神格化であるというアマテラスオオミカミがナナコさんに嫉妬しているのだとすれば説明がつくから、俺はそう思っている。
「今日も撮影ですか」
「えええまあ。おかげさまで、スケジュールにも余裕を持てています」
というのは半分嘘だ。アトム一家の計らいにより倒れるほどの毎日ではなくなったが、それでも毎日撮影、編集、投稿であることに変わりはない。
「いいですね。モカさんと一緒に撮影、毎日楽しそう」
「そそそうでもないですよ」
「大変なんやろうな、とは思います。でも、動画の中では二人ともめっちゃ楽しそうです」
「まあ、それは」
ナナコさんの笑顔が、ふと温度を失った。
なんだろう、と思いながら、手元の作業を続ける。
閉店作業してきますね、とナナコさんが俺に声をかけ、店外へ。
俺はマスターと奥さんとともに、店内のことを。
これを終えたら、いよいよカウントダウン配信。十万人達成の瞬間は、もう目の前。
ナナコさんは店外の植木を軒下に寄せれば、看板をしまいつつ戻ってくる。ナナコさんの出勤日である毎週土日の恒例だ。
それだけの作業なのに、なかなか戻らない。いつもなら五分もかからないのに、今日はやけに時間がかかっている。
「相川くん。かまへんで。上がりや」
マスターに声をかけられる。
「ナナコさんが」
「何しとんのやろ。鍵閉めてまうし、はよ入れて声かけといてくれるか」
「分かりました」
マスターと奥さんに挨拶し、店を出る。
植木は軒下に寄せられているが、看板はそのまま。
ナナコさんの姿は、そこにはなかった。
妙だ。なにか、おかしい。
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