手を握り、追い越す

 車内は、騒然となった。乗務員さんが飛んできてくれて、たまたま同じ車両に乗っていたお医者さんが名乗り出てくれたため、俺は怪我をした母犬を見つめる仔犬みたいになりながら処置を見守った。


「——重篤な症状ではないようです」

 まず患者を安心させる一言を。この医者、できる。

「おそらく、パニックの一種でしょう。こういう症状は、よく?」

「いえ、俺の知る限り、はじめてです」

「いつ、どこで、何が引き金になるか分からない。多くの患者さんにおいて不規則な生活や強いストレスなど、共通の要因はありますが」


 お席にお戻りください、と立ち上がって様子を見ている人たちに呼びかける乗務員さんの声を聴きながら、お医者さんの説明を聴いた。ふつうの私服だから、もしかしたらプライベートなのかもしれない。だが、この先生は、病人を救うことが己の為すべきことと思い定めているのか、何のためらいもなくモカを診察してくれている。


「強い動悸や眩暈。それについての強い不安感。症状が出ているとき、患者さんはこのまま死ぬんじゃないかと不安になる人がいるほどなんです」

「わ、わたし、大丈夫なんですか」

 モカの顔は土気色になっているが、声には危険な色はない。俺は、少し安心した。


「すぐに良くなりますよ。大丈夫です。落ち着いて、息が胸に通って、また出ていくのを数えるようにしてみてください」

 先生の声は、穏やかだ。モカも安心しているらしく、言われたとおりにしている。

「びっくりしたでしょうね。新幹線を降りたら、できるだけ早くお医者さんにかかるといいですよ。仮にパニックだと診断されても、上手く付き合っていく人が多いんです」

 モカは薄く笑いながら頷き、ゆっくりした呼吸を引き続き続けた。しばらくすると落ち着いてきたのか、大きく息を吐いた。

 乗務員さんが緊急停車や名古屋駅での救急車の要請の必要があるかどうかなどの判断を待っているらしく先生に目配せをするが、それを受けた先生が微笑んで頷き返したことで、ほっとした表情を見せ、なにかあればすぐにお呼びください、と俺に声をかけて戻っていった。それで、騒然としていた車内も落ち着いた。


「僕は、この車両の一番前の座席にいます」

 と先生が眼で指した先に、先生と同じくらいの歳のご婦人と小学生くらいの男の子がいて、心配そうに視線をくれていた。たぶん、ご家族だろう。

「ごめんなさい。ご家族の時間を」

 俺が気を配ろうと発した言葉を、先生は遮った。

「いいえ。幸い、僕の家族は今この瞬間、ああして健康にしています。だけど、あなたの大切な人は、こうして辛そうにしている。それだけのことですから」


 医者の鑑。先生に、その賛辞を送ろう。

 家族より、目の前の病人。だけど、目の前の他人と家族が同時に病気になったら、どうするんだろうとふと思った。

 いや、答えは簡単だ。先生は、自分の家族を先に診るだろう。医者としての責務に従って今モカを観たように、家族として当然、自分の家族を先に診るだろう。

 それでいい。そうしてほしい。それが、正しい。

 誰もが、自分が何をすればいいのかと苦しんでいる。俺たちだって、ほんの少し芽が出てきたくらいでしかなく、自分が何をすべきなのか、ほんとうにこれでいいのかと毎日悩んでいる。


 だけど、きっと、しなければならないことなんて、すごく限られていて、シンプルなんだろう。

 先生には、目の前で苦しんでいる人を診るだけの知識と経験がある。だから、それをする。それができるだけの行動を、自分の頭と体を使ってこれまで積み重ねてきたのだから。



 毎日、動画を投稿する。毎日、誰かを笑わせる。それを積み重ねることで、俺たちは俺たちになれる。

 特別でもなんでもない、自分たちが為すべきと考えて、あるいは感じて、あるいは教えてもらって決めたこと。それに従って生きられれば、そんなに素晴らしいことはない。


「モカ。大丈夫か」

「ごめんな、ハルタ君」

「無理して平気そうな声出そうとすんな。先生も同じ車両にいてくれてるから、しばらく大人しくしてろ」

「うん」

「京都着いたら、病院行こうな」

「うん」


 ハルタ君、とモカはか細くまた言った。それは弱っているような類のものではなく、どちらかといえば穏やかなものだった。

「ハルタ君、ありがとう」

「いいって」

「めっちゃ大きい声で助け呼んでくれて、恥ずかしかった」

「悪かったな。テンパったんだよ」

「でも、めっちゃ嬉しかった」

 動悸は治まったのだろうか。だとしても、すぐピンピンに回復するわけではなかろう。モカは、ひどく疲れた顔をしている。

 それでも、笑っている。それを見て、よかった、と思った。


 生命に直接影響はないと知って安心したが、もしモカに何かあれば、俺はどうすればいいんだろう。

 さっきみたいにでかい声を出したところで、都合よくお医者さんが近くにいるなんてこと、映画や漫画じゃあるまいし。

 そのようなことを、モカの負担にならない程度にぼやいた。


「ハルタ君がお医者さんじゃなくても、わたしのために何かしてくれるんが、嬉しい。一人やないって思える」

「そりゃ、そうだけど」

「なあ」


 手ぇ握っといて。またしんどなるかもしれんし。


 そう言って差し出された手を、俺は握った。普段なら冗談で片付けるが、俺みたいな奴の手——指まで脂肪がつきかけている——でも、握ることで少しでもモカが落ち着くなら、と思い、そうした。


 モカは、すぐに目を閉じ、小さく寝息を立て始めた。

 京都まで、まだかなりある。仕方なく俺はイヤホンをし、音楽に身を預けた。

 なんとなく、窓の外を追いかける。

 しばらくして、富士山を追い越した。日本で一番高い山というだけあり、窓から見えるそれは、テレビなんかで見るものとはまるで違うもののようだった。


 俺は、それを追い越した。

 モカの手はちょっと汗ばんでいて、ああ、だからいつもデニムの太腿のところとかで手を軽く擦る癖があるのかな、とかどうでもいいことを思った。

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