夜に浮かぶグレープフルーツ
部屋のチャイムが鳴る。自分の部屋のものとは違う、可愛らしい音だ。
田中さんが手配してくれたビジネスホテルの一室。東京はさすが、建物が高い。景観条例やら何やらでがんじがらめの京都とは全く違うビルの森がクリスマスみたいに飾られて夜に浮かんでいるのを眺めていた俺は、チャイムに応じた。
「やっほー」
うっすら開けたドアの隙間から、間の抜けた呼び声とともに缶チューハイが覗いた。
「飲む?」
「モカ。元気だな」
「そりゃあもう。明日に備えて、栄養補給しとかないと」
俺はもともとそれほど酒を飲むわけではないが、多少の量ならたいして酔わない。反面、モカは酒好きのくせにすぐに酔う。チューハイ一缶程度なら顔が赤くなる程度だが、それが三缶を超えるとなかなかに面倒なことになる。
今モカが差し出しているのは二缶だから問題ない。そう思って俺はドアを解放し、彼女を招き入れた。
「お前、女子が夜に男子の部屋を訪ねるなんて、どんな教育されてたんだよ」
親の顔が見てみたい、と言いたいところだがお父さんはすでに知っている。彼女が奔放なのではなく、この場合、今日の撮影の余韻がまだ冷めないのだろう。
「あ、意外。ハルタ君、わたしのことそんな風に見てたん?」
「いや、馬鹿、違う」
「か弱い超絶美少女のモカちゃんを酔わせて、どうするんや」
言いながら、申し訳程度に据え置かれている一人用ソファにどかりと腰掛ける。
そこで、俺は自分の誤算を悟った。
「——お前、もう飲んでるな」
「飲んだうちには入らへんわ、こんなもん」
と言う口元は若干緩くなってしまっており、頬どころか首筋も赤い。
差し出された缶の数ではなく、モカの腹に入っている酒の量を測るべきだった。仕方なくベッドに腰掛け、モカが乱暴に差し出す缶から威勢の良い音を立てた。
「夜景、すごいよな」
と言っても、ここは八階。窓の外は京都から来た俺たちにとっては凄いものでも、東京の夜景スポットと呼ばれるような場所のそれに比べれば面白くないのだろう。
「向かいのビル、まだ仕事してはるわ」
モカが眺める先には、なるほど、まだ灯りのついたオフィスビル。人影も見える。
「そろそろ、俺たちの動画が公開される時間だ」
今日公開されるのはお互いの変顔写真で神経衰弱をする、という企画のもので、なかなかに笑えるはずだ。
「ああやって頑張って残業してはるお父さんらも、わたしらの動画観たら元気になるんちゃう」
「あはは。そりゃそうだ。モカのお父さんだって、観てるさ」
そやね、とモカは喉を鳴らして笑った。
「なあ、ハルタ君」
「なんだよ、酔っ払い」
「お父さんのこと、ありがとう」
「なにが」
ずっと、すれ違いだったのだろうか。あの仕事好きのお父さんは、たとえば家族がいなかったとして、ほんとうにあれほど仕事に一生懸命になれただろうか。
モカのお母さんがいたから。モカがいたから。だから、モカのお父さんは頑張れたんじゃないだろうか。
だけど、少しだけ、そういうことを見失ってしまうことだってあるだろう。モカも、お父さん自身も。
俺はモカのお父さんには、あの大変態ストーカーサイコさんと勘違いをしたという大やらかしをした日しか会ったことはないが、それだけに、なんとなくこの父娘の空気が分かるような気がする。
誰にでも素直なモカ。それが、お父さんに対してだけは意地を張る。
あらゆる得意先に対して素晴らしい応対をするお父さん。だけど、モカに対してだけは自分の思考を厳しく伝達する。
二人とも、似ている。だから、反発する。
でも、絶対に二人は憎み合ってなんていなかった。その証拠に、お父さんは心の底からモカを思い、そのためになるようにと考えていただけだったではないか。
そして、モカは、俺にありがとうと言った。
「お父さんのこと、誤解してた。ハルタ君がいいひんかったら、お父さんのこと嫌いなまんまやった」
お父さんのことを嫌いでいいなんて思っていなかった。どうにかして、好きになりたかった。だから、モカは俺にお礼を言う。ここに、もう一つの証拠がある。
「べつに、俺が何かしたわけじゃない」
ことさらに感謝されるようなことでもない。どちらかといえば、俺は出しゃばったような格好だ。
「ううん」
その思考を、モカが遮る。
「お父さんも、あとで言ってた。彼なら安心だ、って」
「やめろよ、くすぐったくなるわ」
モカがぱっと笑って、そのあと、グレープフルーツの香りが遅れて俺の鼻を訪ねてきた。
何てことはないことだ。
モカは、いつもこうじゃないか。
よく笑い、びっくりするくらい食べ、お礼も文句もすぐに口にする。
だから、笑ってくしゃくしゃになった彼女の目がまた開いたときにうっすら涙ぐんでいるのも、酒のせいに決まっている。
グレープフルーツの香りとは違う甘い匂いは、最近香水をうっすら付けるようになったからだ。
しかし、その香りが、鎖になって連なる俺の思考を手繰ってゆく。
モカが普段から言うとおりなら、モカは、ほんとうに俺なしでは生きていけないんじゃないか。
俺が普段から感じていることが本心なら、俺は、ほんとうにモカなしでは生きていけないんじゃないか。
恋愛感情。いや、どうだろうか。大陰キャ童貞クソ虫の俺のような男が女子の何気ない言動や態度を捉え違うのはよくあることだろう。
では、友達か。それも違う。男女の友情は成立するのか、というテーマについて語るつもりもない。
俺は俺で、モカはモカ。それでいい。いや、それ以外にない。うん、マジで。そう。絶対にそう。だってモカだぜ?愛想はいいかもしれないけど声はでかいし唾は飛ばすしオーバーリアクションだしよく無用心に屈んでパンツ見えちゃったりして編集が面倒くさくなるし。
禅宗の坊さんに見張られてるような気分で、心を落ち着けた。
だが、勢いよく缶を空け、それをテーブルに叩きつけたモカが、それを許さない。
「ハルタ」
「ちょ、待て。飲み過ぎだマジで」
おもむろに立ち上がり、俺の隣に腰掛けようとして——足を滑らせて。
グレープフルーツの香り——いや、はっきり酒臭い——が、俺の鼻で風を起こす。
俺の肥大な体重にモカのそれが加わったことで、ベッドの脚が思い出したようにひとつ軋み声を立て、目と目が。それも、こんなに近くで。
その目は、やはり少し潤んでいる。まるで、熱を出した子供みたいだ。それがゆっくりと閉じ——
「昭和のラブコメか」
目を開け、むくりと顔を起こし、くくくとモカは笑いだした。それは俺にもすぐに伝わり、しまいには俺たちは今この部屋に誰かが入ってきたら絶対に勘違いされるだろうなという体位のまま大笑いをはじめた。
「なにそれ。死ぬほどおもろいんやけど」
ほんとうにこぼれた涙を拭いながら、モカが息を継ぐ。
「期待したやろ、この童貞!」
ぐわっと俺に覆い被さり、抱きついてくる。そのまま渾身の力がこめられ、耐えられるはずもなく悲鳴を上げたらようやく解放された。
「期待なんかするかよ。ふっ、登録者が百万人超えるまでは辛抱さ」
と冗談を混ぜ込んでお互いの心の体勢を立て直すきっかけにする。
「えー、百万人超えたら、どうなんの?」
「お前マジで酔ってんな。はいはい、百万人超えたらどうにかなるのかも、って期待しときますから」
どうせ、モカは明日の朝になれば記憶を失っているだろうから、適当にやり過ごすしかない。
「ふふ。面白かった。じゃ、また明日な。寝坊しんときや」
深く息を吐き——やっぱり酒臭い——、モカはまた小さく笑い、手を蝶々みたいにひらひらさせて出て行った。
ドアが閉まっても、しばらく俺は呆然としていた。
やがて意識が現世に帰ってくると、テーブルの上に、空き缶が二つ残されているのに気付いた。
自分が飲んだゴミくらい持って帰れよな、と独り言を言いながらそれを片付けようと手に取る。
グレープフルーツの香り。
銀色の缶の中の世界に、まだモカがいるような気がした。
カッコ付けたこと考えてんじゃねえ、と心の中でセルフツッコミを済ませ、立ち上がる。
窓の外の夜景。それと相容れないように、半透明になった俺が映っている。
「——馬鹿じゃねえの」
思わず口にしてしまうくらい、夜に浮かんだ俺はにやけてしまっていた。
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