第四章 【皆様へ】例の件について、ご説明します。
回り回って
結局、過労ということだった。ブッ倒れて担ぎ込まれたまま病院で一泊させてもらい、今日の夕方には退院ということになった。
たしかに、毎日投稿を始めてからろくに寝ていないが、人間の体とはこうも脆いものかと思った。
時間がいくらあっても足りないというのに、こんなところで足踏みをするわけにはいかない。
病院に入ったところで、必要以上の付き添いはできないと追い返されてしまったモカとは、メッセージでやり取りをしている。
——やっぱり、毎日投稿なんか無理なんちゃう?
という一文への返事をどうしたものかと考える俺は、朝の検温のため体温計が鳴るのを待つ間、思考を天井の模様に溶かしている。
アトムには電話で短期入院の旨伝えた。奥さんはただ驚いていたが、すぐ電話を代わったマスターは、こっちは気にせんでええ、ゆっくり休めと言ってくれた。
今日の夜アップされるべき動画は、すでに公開予約してある。問題は、明日の動画だ。このまま病院にいたのでは、編集が間に合わない。
「相川さぁん」
看護師さんが、体温計を回収しにくる。このご時世だから疲れているのだろう、ドキドキしてしまうような可愛い顔にはメイクでも隠しきれない隈が貼り付いている。
それでも、明るい声を出し、病室内の空気を良いものにしてくれる。モカのようにがさつではなく、ナナコさんより親しみやすい彼女もまた、女神の一人。
体温計を手渡すときちょっと指先が触れたことで俺がドギマギしているとは知らず、
「うん、熱は大丈夫ですね」
と見ず知らずの俺の平穏を喜ぶ。
「あ、ありがとうございます」
看護師さんも大変ですね、頑張ってくださいね、と声をかけたいところだが、俺の中の薄キモ童貞虫がそれを許さない。
「あの、相川さんって」
看護師さんが、声をひそめる。俺は表情だけで、それを受けた。
「ハルタモカのハルタ君ですよね」
「——?」
「やっぱり!」
と看護師さんは意識の外から出る大声を、それが出終わったあとに自らの口に手をあてがって制し、マスクの上の目を思い切り輝かせた。
「すごい!めっちゃファンなんです!あのテーブルの動画とか、死ぬほど笑いました!」
「ああ、見てくださったんですね」
「すごい!握手してください!」
俺は産まれてはじめての経験に戸惑いつつ、小学校のフォークダンスのときに女子にベトベトしてると言われて以来誰に対しても差し出すことのなかった手を差し出す。
ふんわりと柔らかな感触に感動するのは俺であるはずなのに、目の前の美人看護師さんの方が舞い上がっている。
「やば。めっちゃ感動です。毎日観てます」
「ほんとですか。嬉しいです」
「仕事大変やけど、ハルタモカ見てたら笑えて、つまらんことで悩んでもしょうがないと思えて頑張れるんです」
「そんなに言ってもらえるなんて」
なんだか、こそばゆい。しかし、嬉しい。これまで視聴者とはチャンネル登録者数と再生回数、再生時間というデータ越しの存在でしかなかったが、こうして実際にその実在を確信できる経験というのは貴重だ。
「一個だけ、お願いしていいですか?」
「どうぞ」
「挨拶、聞かしてもらえません?」
「挨拶?」
「やっほー、息してる?って」
俺は苦笑しながら、モカ抜きのそれをした。看護師さんは飛び上がって喜び、ほかのベッドの人が有名人でも入院してるのかと訝しい眼を向けてくるのに気付いて肩をすぼめ、声をまた低くし、
「早く元気になって、また動画更新してくださいね!楽しみにしてます」
と言って早足で去っていった。
脇には、スマホ。モカのメッセージが表示されたままになっている。それへの返信は、決まった。
——鍵渡すからさ、俺の部屋行ってパソコン取ってきてくんない?
もともと盗まれて困るものなど無し、鍵をかけるのも面倒臭くなっていた俺だが、ハルタモカの活動をするようになってから、財産というものをはじめて持った。
編集に使うオンボロパソコンと、動画データなど。もし空き巣に入られ、金目のものが無さすぎるがためにそれを盗まれてしまえば終わりだ。
それゆえ鍵をかけるようになったわけだが、この場合、一度モカにここまで鍵を取りに来てもらわなければならない。しかし、更新を止めるわけにはいかない。
——何言うてんの。駄目。
モカからすぐに返信。
——頼む。更新しなきゃ。
——それより、今はハルタ君の体のこと。編集は、帰ってからでええやん。
——それじゃ、間に合わない。
——とにかく、駄目。
さっきの看護師さん。
ニュースでもネットでもよく医療従事者は大変だと取り上げられている。げんに、とても疲れている様子だった。
だけど、俺たちの動画を観て、元気になれていると言った。笑えると言った。
その看護師さんが俺の病床を訪れ、俺がただ熱がないという当たり前の状況であることを喜んでくれる。きっと、入院生活をしている他の患者さんにも同じように接し、多くの笑顔をもたらしているんだろう。
それを、止めるわけにはいかない。いや、俺たちの動画が一本止まったところで何がどうなるわけでもないが、止めるわけにはいかないと思った。
ナースコールのボタン。
すぐに、さっきの看護師さんが様子を見にきた。
「すみません。もう体調が良くなったので、ちょっと早いですが自宅に戻りたいんですが」
「うーん、そうですねぇ、先生に訊いてみます」
俺のようにただ疲労が溜まって倒れただけのような奴は、少しでも早く退院させた方がいい。救急に運ばれて二時間ほど点滴をされて帰されても良かったようなものだから、俺の申し出は容れられると踏んだ。
案の定、すぐお医者さんがやってきて、退院の手続きを始めてくれた。
「ありがとうございました」
と俺は早々に荷物をまとめ、病室をあとにする。その背に、
「頑張ってくださいね、でも、無理はせんといてくださいね」
と看護師さんの声がかかる。
それに対して丁寧にお辞儀をし、急いで会計に向かった。
早く帰って編集しなければ。動画を、待っている人がいる。チャンネル登録者数はどんどん増えている。その人たちのいくらかは、あの看護師さんのように、俺たちの動画を見て何かしらの影響を受け、また別のものを他の人にもたらすだろう。
はじめて、意味のあることをしていると思えた。
——退院した。今から家戻る。コメント返信、よろしく。
会計を待つ間、モカにそう報告した。
——大丈夫なん?無理しんといて?
とまず返事があった。続いて、
——体調アレやのにごめん。コメントなんやけどな、
とスクショ。ビューチューブのコメント欄と、SNSの画面だ。
「なんだよ、これ」
それを見た俺は、愕然とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます