第2話
結局、誕生日は、家でカップ麺を食べた。
友人からお祝いメールがいくつか来たけど。それだけ。
残業だったせいもある。それに、ラーメン屋に行けば、栗川に会うことを期待してしまう。あの言葉が、本当にジョークだったと確認したくなかった。
だいたい、一つ年を重ねたところで、急に何かが変わるわけでもない。
特別だと思うのは、自分の気分の問題なのだ。
それに。
なんだかんだで、年度初めはやっぱり忙しい。些細なジョークで傷ついたりしている場合じゃない。翌日である今日も早帰りが推奨されているのに残業してしまった。
考えようによっては、混雑時の帰宅じゃなく、満員電車に乗らないから、かえって、いいのかもしれない。
夜八時。
人の少なくなったオフィスを出て、エレベーターに乗り込みながら、そんなことを思う。人間、ポジティブに生きないといけない。人も少ないから、化粧も直さない。女子としてどうよ、とは思うけど、疲れている。どうせ、マスクで顔の半分隠れているのだ。
誰もいないエレベーターの扉を閉めようとしたら、足音がした。
「あ」
私は、慌てて、開くのボタンを押す。
栗川だった。
「ありがとう」
「いえ」
私は軽く頭を下げる。
エレベーターに二人だけっていう状態に胸がドキリとするが、それを悟られてはいけない。
私は栗川から顔を背け、閉めるのボタンを押した。
「残業?」
「はい」
なんてこともない言葉に、緊張してしまう。密室なのがいけない。
エレベーターがゆっくりと動く。
「ラーメン屋、しばらく休業だって」
ぽつり、と栗川が口を開く。
「そっか……」
わずかな浮遊感が終わり、扉が開く。
栗川とのつながりが切れてしまったような空虚感を覚えた。
「駅まで送ろうか?」
エレベーターを降りて、出口に向かおうとした私に、栗川が車のキーを見せる。
「え?」
駅までは、徒歩で十分ほど。四月とはいえ、まだ夜は冷える。繁華街を通る道とはいえ、最近は人通りも減っているから、不安でもある。送ってもらえたら、それはありがたいけれど。
「いいの?」
「夜遅いし」
「……ありがとう」
私は、駐車場に向かう栗川の背についていく。
彼は営業だから自家用車で通勤することが多い。最近は、外回りがなくても車で来ているらしい。
すすめられるままに、助手席に座ってシートベルトを締めた。
「……警戒、しないね?」
栗川が苦笑したように呟く。街灯のあかりだけで、車内は暗い。
「あ、窓、開けたほうがいいですか?」
車の換気ってことなんだろうか?
そういえば、密室避けろって、偉い人も言ってる。
「……そうじゃない」
栗川が、エンジンをかけた。
「どうやって帰ってるの?」
「G駅まで、乗っていって。そのあと徒歩十分ってとこですね」
「そう」
栗川がひょいひょいとカーナビを操作している。
行先は、G駅。
「え? そんな」
「いいよ。俺の家も、そっちの方角だし」
「……ありがとうございます」
私は頭を下げる。
車をスタートさせた栗川の横顔を見たが、車内が暗いのとマスクで感情は読み取れない。
それほど親しくもないのに、どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう。こういうひとだから、女性にもてるんだろうな、と思う。たぶん自分が特別扱いしてもらっているわけでないと思ったら、胸がちくんとした。
「酢豚、食べたいなあ」
ハンドルを握りながら、栗川が呟く。
「私も、唐揚げが恋しいです」
色気のない会話に、ちょっとだけホッとする。
ラーメン談義がしたかっただけなのかもしれない。あの店、おしゃれじゃないし、ちょっと入りにくいから、会社の近くなのに、行く人は少ないのだ。
ちょっとした仲間意識なのかも。
「早く再開してほしいなあ」
「本当です。また一緒にラーメン食べたいですよね」
こぶしを握り締めて、力説する私。
「え?」
一瞬。栗川が驚いたようだった。
あ、つい、「一緒に」って言っちゃった。まずい。
「……そうだね」
少し間があった。
ああ、でも、そうだねってことは、聞き流してくれたってことだよね?
深い意味とか勘繰らずに、常連仲間として、受け止めてくれたって思いたい。
「ちょうど、一年か」
言いながら栗川がハンドルを回す。
「あの時は、ジョークかと思ったんだよね」
なんのこと? と思った。
「誕生日。たまにそうやって、人にたかろうとする奴いるからさ。今思うと……本当、ごめんな」
突然謝られて、私は思わず、横顔をみつめる。
真っすぐに前を向いていて、マスクをしていて。そして、薄暗くて。
まったく表情は読めないけれど、彼が本気で謝ってくれているのは伝わってきた。
「一年も前のことですよ? 気にしてないです。それに、よくあることですし」
あの日。栗川と会ったのは本当に偶然だったし、別にお祝いが欲しいとは思っていなかった。
それに。本気にされないのにも慣れている。
車がG駅のロータリーに入って行く。二人だけのこの時間に終わりが近づいたのだ。
栗川が車を停止させる。
「昨日の俺の言葉もジョークじゃなかった。でも、わかりにくかったと思う」
栗川の手が伸びる。
「四月一日ってのは、やっかいだな」
彼の指が、優しく私の手に触れた。
「……家まで、送りたい」
「え?」
何を言われているのかわからない。頭が真っ白になった。
「好きだ」
心臓の鼓動がドクンと大きく鳴り響く。
「嘘、でしょ?」
唇が震える。あり得ないと思う。
私と栗川は、隣でラーメンを食べるだけの間柄。それ以上、望んではいけないと思ってた。
「か、からかわないでください」
私はふるえる。恋人なんていたことないから。こんなこと、ジョークで言われて、恋のかけひきを楽しめる余裕は、全然ない。
「今日は、エイプリルフールとは違うから」
栗川が、落ち着いた声で告げる。
「うん」
私は頷く。
それはわかってる。
「だから、ジョークじゃない。遊びでもない。信じて」
優しい瞳だ。
「うん」
涙が流れた。
栗川の指がそっと私の耳から、マスクをはずす。
「口紅……してなくて」
マスクするからと思って手を抜いてたことを思い出す。私は恥ずかしくて思わずうつむいた。
「その反応は、なんかエロいな。脱がせたのはマスクなのに」
栗川がくすりと笑う。
彼の手が私の頬を引き寄せて、唇が私の唇と重なった。甘くて深いキスがしびれをもたらし、私の口から吐息が漏れる。
「紳士でいようと思ったけど、送り狼になりたくなってきた」
栗川の目が甘く優しい。
「……もう」
甘い痺れと、恥ずかしさと嬉しさで、身体が熱い。
栗川が、再びハンドルを握る。
「嘘じゃないから」
甘い囁きに、私の鼓動は早くなっていく。
静かな夜の街へ、車は走りはじめた。
これは嘘ではない 秋月忍 @kotatumuri-akituki
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