第6話 ラブレター6
次の週も、3人の事が気になったこともあり、バーの扉を開けた。
するとテーブルに、妄想癖の女とレバーの女が楽しそうに話をしながら座っていた。
あれほど揉めていたのに、今日は顔を近くに寄せ合って恋人のように話をしている。
女性の気持ちとは難しいものである。
カウンターに座ると、ややあって、鼻血を出していた男の子が僕の隣に座った。
「この前は大変だったね。」
「ええ、どうなるかと思いました。それに、あの時、僕の周りで何が起きているのか解らなかったし。2人とも相手の言う事はまったく聞かずに、自分のことだけ喋り続けてたんで。」
「そうなんだ。僕はてっきり君を取り合ってるのかと思ったよ。だって、君はあなたの所有物なの?なんて大声で攻め寄ってたもの。」
「いえ、あれは彼女の一般論を僕に当てはめて喋ってただけのようです。」
「でも、妄想癖のある彼女も『あたしの彼を取らないで。』なんて叫んでたじゃない。」
「ああ、あれは彼女の妄想というか宇宙人との交信らしいです。」
「じゃ、あなたの鼻血はどうなったの。」
「それが不明なんですよ。気が付いたら2人に殴られてました。」
「えっ。2人?」
「ええ、1発目は体格のいい女の人で、もう1発は妄想の人です。」
「そりゃ、災難だったね。意味もなく2人に殴られるなんて。」
「ほんとですよ。」
「でも、今あのテーブルで2人とも楽しそうに話をしてるじゃない。」
「そうなんです。あれから取っ組み合いの喧嘩をしたんですが、その時にお互いに求めているものが同じだってことに気が付いたらしいんです。」
「求めているものって?」
「女の幸せらしいです。」
「女の幸せねえ。女の幸せって何なの。」
「それは僕も聞きたいんですけれど、あの2人からは聞きたくないんで、僕への興味がなくなったのを見計らって、逃げてきたんです。」
「で、ここにいる。」
「ええ、あれから2人どうなるのかなって、気になって。でもそれは傍観者としてなんですけれど。」
「はは。その傍観者としてっというのは、よく解るよ。」
「マスター。2人から逃れられた記念に乾杯するからビール2杯ね。」
彼は京都市内にある仏教系の大学の3回生だそうだ。
たまたま友人と飲みに来たのがこの店で、その後気に入って数回来ている間に妄想癖の女につかまったというのである。
「でも、遠くから見てると、君と妄想癖の女と仲良さそうに笑ってたよ。」
「ええ、彼女が急に宇宙人と交信し始めるので、それを見ると笑いが止まらなくなっちゃったんですよ。それに彼女、見た目は可愛いですもんね。」
「うん、見た目は可愛いのにね。」
僕と彼は共通の話題で、大いにビールの杯を空けた。
「へえ、そうなんですか。みゆきさんが好きなんですか。」
「そうなんだよ。ステージの歌手のみゆきさんも好きだけど、本当は素顔のみゆきさんが好きなんだと思うんだ。みゆきさんの寝顔なんて、死ぬまでで1回でいいから見たいんだよね。きっとすっごく美しいと思うんだ。髪も梳ってさ。サラサラと少し開いた窓からの風にそよぐんだね。寝る時も寝返りなんてしないよ。真っ直ぐ上をむいてさ、手は胸の上で指を組んでるんだ。寝顔も柔らかな笑顔をたたえてさ。それが月の明かりで青白く光ってるんだ。」
「あの。それって死人じゃないですか。青白くて真っ直ぐ上を向いて手を胸で組むんでしょ。」
「そんでもってさ。僕はそのあまりの神々しさに、みゆきさんの顔に向けて合掌をするんだ。」
「だから、それって死人ですって。」
「死人じゃないよ。観音様だ。そうみゆきさんは観音様なんだ。」
「観音様ですか。」
「するとお経をあげようと思っても不自然じゃない。僕は躊躇なく唱えるね。南無阿弥陀仏ってね。」
「あの、それって観音様じゃなくって阿弥陀さんになってますけど。」
「なるほど、君は仏教系の大学に行ってるから詳しいね。すると、どこからともなく白檀のいい香りが漂ってくるんだ。」
「だから、それは線香の香りですって。やっぱり死人になってますよ。」
「そんなみゆきさんの寝顔って、それは美の極限だと思うんだな。でも、僕は不安になる。どうしてだか解るか。」
「いえ、死人だからですか。」
「うん、正解だ。」
「えっ、正解なんですか。」
「あまりに静かに寝ているからね。僕は心配になってみゆきさんを観察するね。すると気が付いてしまうんだ、みゆきさんは死んでいる。それを生き返らせることができるのは、僕のキッスだけだ。」
「やっぱり死人にしましたか。」
「そんでもって、僕はみゆきさんにキッスをするんだね。みゆきさんがこう、あれ、こうかな、寝てるでしょ。そんでもって僕は横からチューをするんだね、いや、横からだったら唇と唇が十文字になって、これはダメだ。もっとちゃんとチューするにはみゆきさんと平行になってさ、こうかな、いやこうだ。チューってね。」
「もう、止めてくださいよ。僕ですよ、僕ですから。みゆきさんじゃありませんよ。」
シマッタ!!!
また妄想で学生君をみゆきさんと間違えてチューしそうになっていたよ。
「ごめんね、妄想してしまっていたようだよ。それにしても、僕はいったいみゆきさんとチューできるのかね。」
「さあ、それは知りませんよ。」
そうだよね。
でも、僕はいつかみゆきさんとチューできるって信じてるんだよ。
チューってね。
「だから、僕ですって。みゆきさんじゃありませんって。」
また、妄想か。
だんだんヒドクなっているのかな。
でも、これぐらいが正常の範囲だろうな。
「それで、君は大学では何を専攻しているの。」
「社会学をやっているんです。それで日本人らしさっていうことについて、今は研究しているんです。」
「日本人らしいか。」
「でも、最近行き詰ってて、本当に日本人らしいって言葉で括れるものが日本人にあるのかなって思うようになってきているんです。ただ日本人らしくっていう言葉を使うことが世間で生活するのに便利だから、人それぞれの曖昧な感覚で日本人らしくって言葉を使ってるんじゃないかと思うんです。」
「そうか、それは良いところまで来ているね。僕は先日テレビを見てたんだけれどね、その日本人らしくって言う言葉を考えさせられる番組があったんだ。」
それは、休みの朝に、何気なくテレビを見ていると、街をぶらぶらと歩くという関西で放送している番組の中で、居合を教えているという方が紹介されていた時の話だ。
何でも、日本人らしさということを聞かれて答えに窮したことから居合道を始めたそうだ。
素晴らしい。
日本人らしいということは、どういうことなのかという自分自身への問いの答えが居合道に至ったという、こういう思考の経路をたどれる人は素晴らしいと思う。
その素晴らしいには、少しばかりの皮肉も入っているんだけれど、実際にそういう考え方が出来たら楽だろうなとは、これは本当に思う。
生まれながらになのか、環境のせいなのか、子供のころから天邪鬼の僕には、そんなことは考えつかない。
だってさ、居合道だよ。
そもそも居合道には刀が必要な訳で、刀というものが出来る前の日本人は、始めから無視されてる。
それに、刀を携帯できる人というのは、武士という、これまた1部の人であるわけで、農民や商人という大多数の人を、これまた無視をしているのである。
それにそれに、居合道という抜刀術から発したものは、意外にも武道の中でも少数派なんじゃないだろうかと、これは素人考えだけれど思うのであります。
ただ、この場合の居合道はこの際横に置いといて、日本人らしさということは、何なんだろうという問いは、僕もこの時に自分自身に問われたようで、考えてしまう。
日本人らしいということは、まず日本人という人種の概ね皆が持っている考え方や性質を、象徴的に多数決的に表した言葉なりイメージなり、行動の元になる考え方であるということになるだろうと思うのですが。
じゃ、日本人って何かというと、さあ困ってしまう。
北海道から沖縄までの地理的な物差しで考えると、これはイメージだけれど、今は東京も北海道も沖縄も同じような文化になってしまったけれど、もともとは、北海道や沖縄は少し文化が違うように思う。
それに昔むかしは、それぞれの土地でそれぞれの人々が暮らしていたわけで、それを権力の欲しい人たちが、どんどん自分の領地だと言って縄張りを広げていったわけで、その広げられることの出来た範囲が日本ということになる、ということも言えるのじゃないだろうか。
その点、日本は島国で分かりやすい。
日本が大陸にあったら、その境界線で、あと100メートルは日本だよとか、いやいや日本はそこより50メーター後ろだなんてさ、いつも境界線を決めなきゃいけない。
窮屈だし、もめ事が多くなりそうだ。
だから境界線なんて引くことは止めた方が良い。
線を引くことで利益を得る時代は終わりにして、線を消すことでお互いに利益を得ることのできる新しい世界が出来て欲しいなと思う。
新しい価値観の世界。
そんでもって、そんな話もこの前マスターにしゃべったから、少し横に置いといて、日本人らしさだ。
日本人らしさと言うと、勤勉実直、真面目、細やかなことが得意、控えめなんていう言葉が思い浮かぶ。
そんなイメージを皆が持っていると思う。
そして、僕もそういえばそうだなあと思う。
それが日本人らしさなんだろう。
とはいうものの、「らしさ」という言葉が嫌いなんだよね。
ちょっと脱線するけどね。
そこには、こうでなくちゃいけない、こうあらねばいけない、という無言の圧力を含んでいるから。
男らしさ、女らしさ、学生らしさ、子供らしさ、そして日本人らしさ。
何かの型にはめようとする誰とは分らないコミュニティーの表にはあらわれない複数の視線。
窮屈だ。
それにさ、日本人らしさって時代とともに変わるものね。
縄文時代の日本人らしさ。
平安時代の日本人らしさ。
江戸時代の日本人らしさ。
明治時代の日本人らしさ。
そして、令和の日本人らしさ。
「らしさ」というからには、どちらかというと日常では、良い性質のものを指すと思う。
日本人の他の外国に比べて誇れるもの。
昔は、勤勉で真面目だったかもしれないけれど、今の日本はそうでもない気がする。
だったら、誇れるものも変わっているかもしれない。
誇れるもの。
オタク文化。
これは世界の先端を行っている。
アニメ、アイドル、漫画。
もう10年もしたら、こんなことが日本人らしいということになるのかもしれないね。
お母さんから、「あんた、日本人やったらアニメ見やなアカンやろ。」なんて、叱られたりね。
外国人から「どうして日本人やのにAKBのメンバーの名前言えないの。シンジラレナーイ。」なんて言われる時代がくるのかもしれない。
それはそれで、また「らしい」を意識しなくちゃいけない窮屈な時代でもあるのかもしれないね。
「らしい」は、つらいよね。
だからね、日本人らしいということを考えるんじゃなくて、「らしい」という言葉を、日本語から無くすことを考えなきゃ。
日本人だから、それだけでいい。
まあ、日本人である必要もないのだけれど。
ついでに言うと、僕が昔から嫌いなことば「自分らしく」。
これって、どういうことなの。
またまた横道に行っちゃうけどね。
自分自身が一体何なのかを解っている人っているのだろうか。
誰も自分の性格も、何をしたいのかも、これからどうやって生きて行くのかも分らないよね。
なのに、何も解らない自分らしくなんて、どうらしくなの。
僕らしくっていってもね、考えてみるとさ。
だらしなくて、
意気地が無くて、
卑怯で、
優柔不断で、
怠け者で、、、、。
そんな僕なのです。
だから「自分らしく生きればいいんだよ。」なんて言われても、
「もう、そんな風に生きてるちゅーねん。」と叫びたくなる。
泣きたくなるよ。
「自分らしく」でなくても、ただ「自分」であるだけでいい。
そういう風にしか生きられないものね。
ただ、生きていれば、それで自分らしくなのであります。
ということで、話がフラフラで夢遊病のようになっちゃったけれど、これが僕らしいんですよね。
かなり脱線しちゃったけれど、日本人らしくっていうのはね、縄文時代の昔にはそんなことは考えられなかったし、その後もどんどん、ふらふらと変わっていってるんだよ。だからそれぞれの時代の日本人らしさを検証したら、面白いかもしれないね。」
「そうですよね。僕の思ってた部分もそこなんです。日本人らしくって言っても一筋縄じゃいけないんですよね。それよりもひょっとしたら縄文時代にその日本人らしさの原型が隠れてるかもしれないですね。縄文土器のように力強くて奔放で、それが日本人らしさ。」
「うん、意外と今とは正反対なものかもしれないね。」
「あ、そうだ、マスター。テレビ番組っていったらね。えっ?また無理やりなこじ付けの話かって?いや、そうかもしれないけど、しゃべりたいんだ。ねえ、学生君、君も聞きたいだろう?」
「ええ、まあ聞きたいような、、、。」
「それはまたテレビを見てた時の話なんだ。」
朝、何気なくテレビを点けると「散骨」についての特集をやっていた。
死んだ後に、散骨をしてほしいと考えている人が増えているらしい。
君は、どう思うかな。
どうもね、僕は、やめてほしいと思うのよね。
そんな散骨なんて、焼いた後の骨をどこに撒くのですか。
番組では海に撒いていました。
いい迷惑だよね。
焼いた骨を砕いて粉にして東京湾に撒いていた。
でも、その骨の粉を撒いたところには、お魚さんだっているんだよね。
そのお魚さんが死んだ人の骨の混ざっている海の水で泳いでいる。
「ママ、今日の海水は、ちょっと粉っぽいね。」なんてさ、何も知らない子供の魚が泳いでいる。
そんな魚を漁師が取って来てさ、魚河岸に並ぶわけ。
「やっぱり、江戸前の魚は違うね。」なんて、高級な寿司屋で食べている魚の、何パーセントかは、人の骨の海で泳いでいた魚かもしれない。
そんな寿司は食べたくないね。
陸に撒いたってさ。
その粉が風で飛んでくる。
「ハックション。」
花粉症じゃなくて、骨粉症。
また新しいアレルギー性鼻炎が増えちゃう。
というよりもね。
まずは、人間死んだら、後のことは生きている人に任せちゃわなきゃいけない。
そういうものだ。
大勢の人を呼んで派手な葬式をするのも構わないし、小さな家族葬でも構わない。
あとは頼んだよって、現世の事は、生きている人に丸投げして、先へ進まなきゃ。
あとのことは、現世でまだ生きている人が、これからまだ生きていくのに都合のいいようにすればいい。
死んだ後まで、どうしてほしい、ああしてほしい。
なんてさ、どうも死んでまでも人間のエゴを他人に押し付けるべきでない。
そう思うのであります。
死んだら後の人に丸投げすればいいという理屈で言うなら、散骨でも構わないのだけれど、どうも撒く場所によっては嫌な人もいる訳で、その辺のところを考えてやってほしい。
だから散骨は、広大な私有地を持っている人がやる葬式。
その前に、散骨をしたいという人が増えているというのは、お墓の存在が昔ほど重要でなくなってきたということでもあるのかもしれない。
占いをする人や、宗教家に聞くと、お墓というものの重要性を説いてくれそうだ。
でも、実際にお墓を建てている人と、お墓の無い人を比べて、その後の幸せ度を統計をとって調べてみたいですね。
幸せ度というのも、これは意味のない度合いなんだけれどもさ。
それにね、お墓が必要なら、いずれこの地球上の土地はお墓だらけになってしまって、住む場所がなくなっちゃうよ。
僕の家の宗旨は浄土真宗なんですよね。
いつの時代からかは知らないけれども、親の親ぐらいからはそうだ。
その浄土真宗では、お墓というのは教義から言うと要らないものなんだ。
死んだら、すぐに阿弥陀様に掬い取られて救われるからね。
これは、ある意味素晴らしい教えだなあと思う。
とはいうものの、僕は別に浄土真宗をすすめている訳じゃない。
親鸞さんは、好きなんだけれどもね、人間として面白いから。
とはいうものの、京都の有名な浄土真宗のお寺なんかに行ったら、その裏に広い墓地が広がっていたりする。
そんな風景を見ると、僕は苦笑してしまう。
「坊さんも、生計をたてたり、お寺を維持して行くのは、大変なんだなあ。」ってね。
そんな影響もあるのか知らないけれど、僕もお墓は要らないと思う。
それじゃ、どうするか。
いいアイデアが浮かんだ。
ゴミの日だ。
僕が死んだら、ごみの日に捨ててくれればいい。
そう奥さんに言ったら、
「そんなん、ゴミの人が迷惑やん。」
そうだね。
それもそうだ。
それに、焼いた骨は、燃えるゴミなのか、どうなのか、焼いちゃってるから迷っちゃう。
だったら、こうすればいい。
「骨の日。」
この日は、骨をビニール袋に入れて玄関先に出しておくんですね。
そしたら、骨の人が回収に回ってくれる。
うん、これはいいな。
これですべて解決であります。
とはいうものの、死んだ後のことでありますからね、それも後に残った人に任せましょうか。
、、、、ん?
僕には子供がいなかったよ。
じゃ、誰が骨の日に出してくれるんだろう。
まあ、それも残った人に丸投げしちゃおうね。
「そんな風に思うんだね。お墓なんていらないよね。」
「そういう人増えていると思います。現実的な問題として、年金も出るかどうか解らないのにお墓の資金のことなんか考えるの若い人には無理ですよ。」
「そうだ、またこじ付けって言われるけどさ、みゆきさんの骨って、きっと可愛いんだろうな。ねえ、マスターそう思わない?学生君はどうだ?」
「はあ。みゆきさんの骨ですか。」
「そう、みゆきさんの骨だ。それはみゆきさんの『中島みゆき雛まつり』っていう映画を見に行った時に気が付いたことなんだ。」
それは夜会2/2とライブの1部の曲をセットにした特別編の映画版なのですが、そして両方ともDVDを持ってるんだけれども、やっぱり行ってしまうんですね。
だって、映画館の大画面でみゆきさんの顔が見れるのですものね。
イオンの映画館で、前の方の席で、みゆきさんを独り占めをして、見入った。
やっぱり可愛い。
そして、素敵だ。
そして、最上級の褒め言葉、「美しい」。
いや、僕の最上級の褒め言葉で言うと、「みゆきさん、変わっている。」
映画の中身は、他の人に任せるとして、この公演で得たこと。
音楽評論家の田家秀樹さんによる解説がついているのだけれど、そして始めはそんなものいらないと思っていたのだけれど。
それは今もそう思っているのだけれど。
でも、この2/2を撮るのに22台のカメラを駆使して撮影をしたということを話しておられたことを知ったのは、大きな収穫だった。
22台のカメラってすごい数ですよね。
みゆきさんの上からも下からも、キャーエッチ。
また、下からのキャーエッチを言っちゃったね。
好きなもんでね、ごめんね。
いや、そういう意味ではありませんが、右からも左からも、前からも後ろからもカメラでみゆきさんを捉えているということだ。
今、書いただけでも6台のカメラがあったら、事足りる。
でも、22台だものね。
色んな角度からみゆきさんを撮影している。
ここまで力説してきてこんなことを言うのもなんだけど、カメラが22台ということで話を進めているのですが、多分22台だったと思う。
間違ってたら、ごめんなさい。
1回聞いただけだし、それにみゆきさんの映像じゃなかったから、気を抜いていた。
だから22台じゃなかったら話が変なことになるのですが、それでも沢山のカメラで撮っているということには間違いがない。
普通、22台のカメラで撮影されていると思うと、どう動けばいいか、この今の立っている角度は、これでいいのかとか、色んなことを考えなくちゃいけない。
僕だったら、精神がどうにかなってしまうだろう。
それをさ、みゆきさんは、易々とやってのけてしまう。
全身だけでなく、髪の先まで、そして体の周りの空間まで、自分のものにしているから出来る技なのかもしれない。
或いは、何の気も掛けずに自然体でいるのかもしれない。
その自然体が、美しさそのものということだ。
そういえば、僕はみゆきさんの頭蓋骨が可愛いということを言ったことがある。
頭蓋骨が美しいから、頭蓋骨の構造が完璧であるから、その上にどんな化粧をしても、美しいし、化粧の仕方の数だけ美しいみゆきさんが出来上がる。
でも、美しいのは頭蓋骨だけではなかったのだ。
体の骨の全部の構造が美しいのだ。
なので、その骨をどんな角度で組み合わせても、それは美しい姿が完成してしまうことは、これは正しく正解と言うものだ。
つまりは、「みゆきさんの骸骨は美しい」ということだ。
なので、どんなに自然体でステージに立っても、その瞬間瞬間が完璧な形に骨が組み合わされて、その上に筋肉と脂肪が覆って、完璧な肉体の形が出来上がる。
そう発見したら、鈴木清順さん監督の映画を思い出した。
僕が学生の当時にやっていて、印象に残っている作品。
「ツィゴイネルワイゼン」
これは大好きな内田百閒さんの「サラサーテの盤」を元にしている映画だ。
その中で、原田芳雄さん演じる中砂が、芸者の役の大谷直子を抱いた後に言う大谷直子のセリフ。
「あなた、あたしの骨が好きなんでしょ。あたしの骨を焼いたら透き通った桜の花びらみたいな骨が取れると思ってるんでしょ。解るわ、骨をしゃぶるみたいな抱き方だもの。」
「強い綺麗な骨してるよ、お前さんの」なんていうセリフも言っていたな。
内田百閒さんの随筆の中に、この言葉が存在するのかどうか確かめてはいない。
或いは、脚本の田中洋三さんの書いたものかもしれない。
ただ、内田百閒さんも、田中洋三さんも、骨の魅力に取りつかれていたのではないかと推測をしたくなる。
僕も、このセリフが今になって、僕にとって意味のあるセリフとなった気がする。
そして、みゆきさんの骨だ。
みゆきさんの骨も、さぞかし美しいだろう。
もし焼いたら、綺麗な透き通った桜の花びらみたいな骨が取れるんじゃないかな。
1本欲しいよ。
とはいうものの、みゆきさんの骨は美しいけれども、みゆきさんに骨になって欲しくはない。
その周りの筋肉も脂肪も、僕にとっては、まだまだ必要なのであります。
生きているみゆきさんが、いいものね。
「ねえ、マスター。みゆきさんの骨はピンク色かな、やっぱり。」
どうも、最近はマスターも無視が多い。
「みゆきさんの骨欲しいよね。学生君さ。」
「いえ、僕はみゆきさんのファンじゃないんで、骨貰っても困ります。」
「そうなんや。でも、小指の骨だったらさ、耳の後ろ痒い時にコチョコチョって掻いたりさ、歯におかずが挟まったときに爪楊枝みたいにシーハーシーハーなんて出来るんだよ。」
「いや、骨でシーハーは嫌です。」
そんなものかねえ。
僕には宝物のように思えるんだけどなあ。
「そうなんだなあ。みゆきさん、みゆきさんって熱病のように取りつかれてるけれどさ、どうも他の人と見ている部分が違うんだよね。みゆきさんのどこがいいのかって尋ねられても、どうにも返事に困るんだ。何故か意味もなく、好きで好きなんだものね。僕がみゆきさんが好きだって言うと、私も好きだって人がいるんだけれどさ、あの歌のどの歌詞がどうだとか、ああだとか、熱弁をふるってくれるんだけれど、僕にはそんなのどうでもいいんだ。
この前もさ、奥さんがね、みゆきさんの歌の歌詞を見て、あ、僕の奥さんはサザンオールスターズのファンなんだけどね、あの歌詞は、桑田さんは書かないとかね、どちらかというと批判的なことをいう訳、あ、あれってさ、ヤキモチなのかな、僕とみゆきさんに対するヤキモチなのかな、ねえ、学生君どう思う。」
「いや、僕は奥さんのこと知らないし、僕とみゆきさんっておっしゃってられるけど、まだ僕とみゆきさんは何の接点もないんでしょ。だから、『と』っていう使い方も変じゃないかなって思うんですけど、、、。」
「あ、学生君はキツイことをいうんだね。まあ、それはいいけど。やっぱり『と』はアカンかな、ねえ、『と』って言ったらアカンかな。『と』っていいたいねんけどなあ。ねえ、学生君、アカンかなあ。」
「いや、アカンかなあって言われても。そんなに使いたかったら使ったらいいんじゃないですか。」
「そうか、良かった。『と』っていう許可貰ったからな、これから使うで、『と』。ほんでな、うちの奥さんや、みゆきさんの歌詞の言葉の使い方について語るんやけど、僕は聞き流してるんや。僕はね、みゆきさんを尊敬してる訳じゃない。勿論、尊敬するに値する女性ではあるよ。歌が好きな訳でもない。ただ、みゆきさんが歌ってるから好きなだけだ。それに、歌詞だって完全じゃなくてもいい。だって、歌手のみゆきさんでもないし、作家のみゆきさんでもないし、スターのみゆきさんでもない、ただのみゆきさんが好きなんだもの。だから、たとえ、みゆきさんが間違ったことを言っても、下手な歌を歌っても、詰まんない曲を作っても、僕はどうでもいい。それについて考えることは僕にとって無意味なんだ。ただ、みゆきさんがそこにいてくれればいい。そして、その『そこ』が僕の近くであればあるほど、いいんだ。」
「はあ。そうなんですか。それは良かったですね。」
「それは良かったですねって、学生君、他人事みたいに、あ、もう話飽きてきた?」
「いえ、でも。私ももう帰る時間なので、、、。」
「そうか、残念やな。また、一緒に飲もうや。」
「はあ。お願いします。」
彼が出て行くドアを見る。
大丈夫かな、彼。
何か疲れてたみたいだけど。
でも、まあ僕との楽しい会話で少しは気が晴れたんじゃないかな。
次に会った時は、もっとみゆきさんの話をして疲れを癒してあげよう。
うん、それがいい。
「マスター、実はね、僕は、実際のみゆきさんを、そうだなあ、3メートルぐらいの距離で見たことがあるんだよ。」
「へえ、そうなんですか。3メートルって近いですね。」
「そうなんだ。あれは『夜会工場』を見に行った時の事なんだ。」
夜会工場の2時間の夢の時間もあっという間に終わってしまったと感慨に浸っていた時のことだ。
それでもやっぱり立ち去りがたく会場の周りをうろうろしていたのです。
その時に、ある言葉を思い出した。
それは入場を待っている時に後ろの人が話していた言葉。
「出待ち」
その部分だけが耳に残っていた。
そうだ、どうせ何処へ行くあてもない。
会場をぐるっと半周すると、通用口らしきところに若い人が10人ぐらいだろうか立っている。
僕も並んで待つことにした。
昨日は10時15分だったとか、そいう話が聞こえてくる。
そうか昨日も来れば良かった。
30分ぐらい待っていると、係りの人が、タクシーの後ろのトランクに小さなボストンバッグと何か不明なものを積んでいる。
荷物は意外と少ない。
すると通用口に小柄な女性が表れた。
遠くからでも分る、みゆきさんだ。
ハンチングを丸くしたような帽子、あれは何ていう帽子なんだろうか僕は名前を知らないけれど、そんな帽子を被ったみゆきさんが表れて、入り口で挨拶をしているようだ。
急に胸が高鳴る。
そしてタクシーに乗り込むと、ゆっくりと僕の待っている出口に近づいて右折すると、ちょうど僕の目の前にみゆきさんのタクシーが通る。
半分開いたタクシーの窓には、帽子を被って、分厚い眼鏡を掛けたみゆきさんが笑顔で座っていた。
そして白い指先が暗いタクシーの窓から振られているのが見えた。
たぶんあれはメイクを落とした素顔だったと思う。
そしてその距離3メーターぐらいだろうか。
こんなに近い距離で、しかも素顔のみゆきさんを見られるなんて、思ってもみなかったので、何も声を掛けることもできずに、呆然と立ち尽くしていた。
もう、これは言葉にもできない感動だ。
みゆきさんが行ってしまったあとも、しばらく胸が打ち震えていた。
近くで見る素顔のみゆきさんは、舞台のみゆきさんから想像も出来ないぐらい地味な感じで、小柄で、ずっとそばにいたいと思うような存在だ。
あんなに迫力のある歌を歌って、素敵な曲を作る人だなんて思えないぐらいか弱い感じである。
そうなんだよね。
僕がみゆきさんに惹かれるのは、そんな部分なのかもしれない。
化粧を落としたみゆきさん。
素顔のみゆきさんだ。
それは、優しくて、柔らかで、清楚で、ある時は、か弱い。
僕はどういうわけか、幸薄き女性に惹かれる部分を持っている。
美人なのだけれど、運が少しばかり悪いのか、何故かうまくいかない。
今まで生きてきて、そんなに上手くはいかなかったことで、より思慮深く、遠慮がちに生きてしまう。
誰かが助けてあげないと、今にも崩れてしまいそうだ。
抱きしめると力なく、安心したような表情になる。
でも、みゆきさんは幸が薄い訳でないし、運が悪いわけでもない。
でも、そんな控えめなところを持っていると思う。
でも、みゆきさんはの素顔は、それだけじゃない。
またある時は、利発であり、活発であり、明るく開放的だ。
素敵な曲を作って、自ら歌う。
夜会などの創作も積極的だし、力強い。
ラジオの声は明るくて、皆のココロを開かせる。
疲れた時に聞くみゆきさんの声は、どんなドリンク剤よりも効くんだよね。
そんなみゆきさんの笑顔は、人を幸せにして、元気にしてくれる。
すべての人を幸せに出来る人。
でも、みゆきさんの素顔は、それだけじゃない。
人を包み込むやさしさを持っているんだ。
サテンのように優しく、ベルベットのように柔らかい。
そんなみゆきさんに包まれたなら、どんな傷を負った人でも、1瞬にして癒されてしまう。
あたかもマリアさまのようである。
それは、体の傷だけでなく、人の心に浸み込んだ古い傷までもが氷解させてしまう。
僕がマリアさまに祈るのは、マリア様の愛に抱きしめられたいからだ。
そして、今はみゆきさんに抱きしめられたい。
みゆきさんの、柔らかい感触、うっとりとするような香り、眠ってしまいそうな温かさ。
僕がみゆきさんに抱きしめられたなら、今までに負った過去の古傷と、今現在の生活の苦しみと、そして、今までに得た過去の楽しみと、今現在の生活の希望と、そんなものすべて、良いことも悪いことも、全部ひっくるめてドブに捨ててしまって、あたらしい僕となって再び生まれ変わることができるだろう。
そして、みゆきさんに抱きしめられたなら、感じるみゆきさんのオッパイ。
ウシシシ、、、、。
オッパイだよ、オッパイ。
みゆきさんのオッパイって最高だよね。
「ねえ、マスター。そう思わない?」
カウンターの内側を見ると、サラサラロングヘアーの店員が僕の前に来た。
カウンターに顔を乗り出して僕を見つめる。
そして、周りの視線を気にしながら僕に囁いた。
「あのう。先日からお客様の事を見ていたんです。」
そうなんだ。
ひょっとして僕に興味があるのかな。
「そうですか、それで。あ、僕の事で何か伝えたいことでもあるのかな。」
まさか、手紙を貰ったりしてね。
手紙には携帯番号のナンバーが書かれてある。
なんてね。
「こんなこと突然言っていいのかな。」
そらそうだよね。
告白は、勇気がいるものだ。
僕は少し優しそうな表情を作って彼女に微笑んで見せた。
「あのう。これ私の友人の病院の住所と電話番号なんです。1度ご相談に行ってみたらと思って。本当に失礼だと思うんですけど。でも、私の弟も薬を貰ったら、すごく良くなって。それにすごく良い先生なんです。」
えっ、病院?
メモを見ると、「中島精神クリニック」と書かれている。
精神クリニックとは、どういうことだ。
これじゃ、僕が精神病だと言っているようなものじゃないか。
失礼極まりない。
それは、僕は妄想する癖があるよ。
でも、妄想するというのは、人間として普通の行為だ。
それを精神病扱いするなんて、この女はどういう神経をしているんだろう。
「あのねえ。僕は精神病じゃないんです。そうだ。マスターを呼んでよ。マスターを。」
僕は少しばかり語気を荒げて彼女に言った。
彼女は、困ったように僕を見る。
そして言った。
「あの。この店にはマスターはいないんですけど。」
そんな馬鹿な。
マスターがいない。
じゃ、いつも僕は誰と話していたというんだ。
そういえば、今カウンターの後ろにマスターはいない。
さっきまでいたのに。
いや、あれは妄想だったのか、幻覚だったのか。
「マスターは、ずっといないの?」
僕は恐る恐る彼女に聞いた。
「はい、この店にマスターはいません。私がここの店長です。」
「マスターは、いない、、、。」
「はい、いません。」
「そうか、それは悪かったね。疑って。」
僕は、いったい誰と話していたのだろうか。
どうも腑に落ちないまま店を出た。
店を出る時に、テーブルの方を見ると、妄想癖の女もレバーの女もいない。
後ろ手にドアを閉めて表に出ると、日差しが眩しくて手で目を塞いだ。
10月だといっても、まだ日中は暑い日もある。
そんなことよりも、今は、夜じゃなかったのか。
いや、どうして、今は、昼間なんだ。
そして、僕は僕自身に呟いた。
「ボクハ、クルッテ、イルノデスカ。」
「あはは、狂っていても、いいじゃない。ほら、キャンディ食べさせてあげるから、お口アーんして。」
みゆきさんの優しい声が聞こえた気がした。
アイラブユー、ほたえてくれ!みゆきさーん。 平 凡蔵。 @tairabonzou
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