第4話 ラブレター4
次の週の水曜日である。
バーのドアを開けると、テーブル席に妄想癖の女と男の子が座っていた。
僕はカウンターに座る。
「彼女、男の子と2日に1回は来るんですよ。」と教えてくれた。
僕は彼女を振り返ってみたが、彼女には、もう僕の姿は見えてはいなかった。
「マスター今日の日替わりは何?」
「すき焼きの小鍋仕立てみたいなものです。」
それはいいね。
何度も言うけれど、このバーは、バーと言っても喫茶店と居酒屋とバーの掛け合わせたようなお店である。
こんなアテが楽しいんだね。
出てきたすき焼きは、小さな1人用のというか、半人前ぐらいだろうか、小さな鍋で既に煮て完成されたものだ。
「そういえばさあ。前にね、ラジオでね、みゆきさんがすき焼きの事を話していて、みゆきさんはすき焼きを食べる時に溶き卵をつけないんだってさ。だから、今日は、玉子はいいや。みゆきさんみたいに食べるよ。」
それにしてもさあ。みゆきさんと、すき焼きを食べたいな。
そんでもって、みゆきさんが僕にすき焼きを食べさせてくれるんだ。
普通の食べ方だとね、溶き卵に肉をくぐらせるから、肉の温度も下がってそれ程熱くない。
でも、みゆきさんの食べ方だと、溶き卵をつけないんですよね。
じゃ、肉が熱いままじゃない。
「はい、ボンゾウちゃん。あーんして。」
「それじゃ、熱すぎるよ。フーフーして。」僕は猫舌なんです。
「フーフー。」みゆきさんが可愛い口をとんがらせて、箸でつまみあげた肉をフーフーしてくれる。
人生に至福との時と言うものがあるのなら、まさしく今が至福の時だろう。
みゆきさんのフーフーを嬉しそうに見つめる僕。
ずっと眺めていたい。
そして、みゆきさんのフーフーの肉を口に入れてもらう。
最高の牛肉だ。
僕は、ビールが好きなのでありまして、これが松坂牛の有名店の和田金さんに行ったとしても、まずビールを飲むだろう。
行ったことはないけれどね。
でも、みゆきさんのフーフーした牛肉には、もっと高級なお酒が似合うに違いない。
そうだ、シャンパンだ。
みゆきさんのフーフーに乾杯!なんてね。
「ねえ、こんどは豆腐を食べたいな。」
「はい、フーフー。」
「こんどは、ネギ。」
「はい、フーフー。」
「今度は、、、。」
「もう、いい加減にしてよ。すき焼き食べ始めてから3時間経ってるよ。」
1つひとつフーフーしながら食べさせてもらったら、そうなるか。
それじゃ、みゆきさんが怒り出すのも無理はない。
それなら、始めから全部のすき焼きをフーフーしてもらうとか。
あ、そうだ。
みゆきさんのフーフーした料理を販売するっていうのは、どうだろう。
「みゆきさんのフーフーしたすき焼き。」
「みゆきさんのフーフーしたカレー。」
「みゆきさんのフーフーした麺を使用したインスタントラーメン。」
なんてね。
みゆきさんのファンだったら絶対に買うね。
それをヤマハさんのホームページでネット販売。
みゆきさんの「フーフーシリーズ」で、僕は大儲け。
「キャー。」
「バンバンバン。僕みゆきさんのフーフーで大儲けだよ。ウッヒヒヒー。」
シマッタ!!!
また、バンバンをしてしまったじゃない。
「マスター、ゴメン。バンバンしちゃった。」
という僕の口元は、フーフーの口をとんがらせたままの口だった。
それにしても、やっぱり溶き卵を付けないと、味が濃いね。
まあ、僕は濃い味付けが好きだから美味しいけどさ。
普通の人は、玉子を付けた方が美味しいと感じるかもしれないね。
「ねえ、マスター。みゆきさんも濃い味付けが好きなのかなあ。これ玉子付けないと味濃いもんね。」
「みゆきさんは割下ですき焼きを作ってるんじゃないですか。多分。関西は、割り下じゃなく、肉に直接砂糖と醤油を振りかけて作るから、全体的に味が濃くなるんじゃないですか。だから玉子を付けると美味しい。」
「なるほどね。マスターの言うととおりだね。」
「それにしても、お客さんはフーフーとか、アーンがお好きですね。」
「えっ?何で解るの?」
「何故でしょうか。」
呆れたような顔で後ろを向いた。
どういうことなのだろうか。
もしかして、僕は知らない間に妄想でフーフーとかアーンとかやっていたのだろうか。
それは恥ずかしいぞ。
カウンターを見ると、ん?
何と女性が1人で座っているではありませんか。
お店に入る時に気が付いていれば、その隣にも座れたものを、気が付かなかった。
しっくりと落ち着いた黄色のセーターを着ていて、髪は肩ぐらいの長さである。
これは、どうしても御尊顔を拝さなければいけません。
こんなお店に1人で来るレディは、どんな人なんだろう。
背伸びをするふりをして、体を反らせてみたりするけれど、間の中年男性に阻まれて、見ることができない。
30代か40代か。
時々生まれる隙間から、観察すると、レバーの串を頬張っていた。
仕事帰りに、バーのカウンターで、焼酎を飲みながら、レバーの串を頬張る。
きっと仕事も、頑張る人なんだろうな。
だから、疲れた時は、こんなお店で元気のでるものを食べたくなる。
それに、きっと独身だ。
恋をすることがあっても、どこか「この人でいいの。」って問いかける自分がある。
そこで立ち止まってしまう。
或いは、男性っぽいところがあって、みんなから女性としてみてもらえない。
だから、好きな人がいても、自分なんて女として見られないしと告白するのを躊躇ってしまう。
自分だけ、ひとり。
自分だけ、取り残されている感覚。
ホントは泣き出しそうなぐらい寂しいんだけれど、泣く場所が無い。
家で泣くなんて悲し過ぎる。
1LDKの真っ暗な部屋に帰って、サークラインのスイッチを入れる。
1人掛けのソファに置かれたキティちゃんのぬいぐるみが「おかえりなさい。」と笑った気がした。
昼間の仕事ぶりから想像できないが、意外にもキティちゃんグッズが、唯一自分を希望いっぱいだったころの少女に自分を戻してくれる。
ぬいぐるみを膝において、にらめっこ。
「笑うとだめよ、あっぷっぷー。」
いつも先にキティちゃんが笑ってくれる。
笑えない、自分。
多分、地方から働きに出てきた女性だ。
大阪に出てきた時に、家から持って来たCDプレーヤーのスイッチを入れる。
みゆきさんの「背広の下のロックンロール」
さて、明日も仕事に行きますか。
ちょっとだけ元気が出た気がした。
そんな彼女の顔を見たいのだけれど、中年男性がじゃまだなあ。
でも、そんな人に違いない。
もう、どうしても彼女を抱きしめてあげたくなった。
ギューっと抱きしめて、そのココロを温めてあげたい。
とはいうものの、急に抱きしめると痴漢になってしまう。
「本町の居酒屋で、泣きながら抱き着く痴漢を逮捕。」
そんな新聞記事が載ったら奥さんが可哀想だ。
「うちの主人、みゆきさんが好きで好きでたまらないようなんです。
でも、会えないから、その人がみゆきさんだっていう幻覚をみたんじゃないでしょうか。普段は、そんなことをする人じゃないんです。善良な一小市民なんです。」
なんて、奥さんのコメントが載ったりしてね。
更に隣で飲んでいた男性のコメントが続く。
「急に、わーんって泣き出したと思ったら、みゆきさーんって叫びながら女性に抱き着いたんですよ。あの時の目を思い出すと、今でも怖くなりますよ。」
人の作り話ほど、怖いものはない。
「違う、違う、違う。僕はやっていない。」
シマッタ!!!
気が付いたら席を立って、両手を振りながらお店の中を1周してしまった。
僕の妄想もだんだんひどくなっていくようだ。
ただ、僕がテーブルを回ったときに、背中から「ぴじゃーれ、ぴじゃーれ、はっぱふみふみ」という声と、楽しそうに笑う男の子の声が聞こえた気がする。
意外にもあの2人、上手くいっているようだ。
何事もなかった振りをして席に座る。
「ねえ、マスター。ビールください。あ、マスター、もしお願い事が1つだけ叶うとしたら何をお願いする?ねえ。」
「マスターは、少し首を横に振っただけで、黙っている。」
「ねえ、マスター。聞いてるの?」
無言だよ。
なんでこんなことを聞くかっていったらね、今日さ天王寺の近くの神社に行ったのよ。
そしたらね、そこの神社さ、一生に一度のお願いをきいてくれるんだってさ。
神様に、1つだけ望みを叶えてもらえるとしたら、あなたなら何をお願いしますか。
子供の頃に、こんな質問をされた時に、「じゃあ、叶えてくれるお願いを100個に増やして。」なんていう答えが誰にでも頭に浮んだんじゃないだろうか。
子供への質問だったら、これは楽しい遊びだ。
でも、大人になって、よくよく考えてみるに、この答えには矛盾がないようにも思える。
100個に増やしてというのも、1個のお願いなのであるから。
でも、神様にしてみれば、1個のお願いを叶えるはずが、このお願い自体を含めて101個のお願いを叶えてしまうことになって、矛盾が生じてしまう。
この辺の理屈は考え出すと、訳が分からなくなってしまう。
「エーッ、どっちなの。どっちなの。理屈が通ってる、通ってない。通ってる、通ってない。」
僕は両手を向い合せて親指とその他の指で口を作って、パクパクと動かして人形のように交互に喋らせていた。
シマッタ!!!
また恥ずかしいことをしてしまった。
仕方がないから両手の口でチューをさせてみた。
うん、さっきより更に恥ずかしい。
それよりも、誰かこのお願いが理屈に合うものなのか、どうなのか教えてくれないだろうか。
子供の頃だったら、大人から「そんな欲の皮つっぱったこと言ってたら、神様も1個のお願いも聞いてくれへんで。」と言われるだろう。
偽善的な教訓による理論の強制的遮断。
子供心に、何とも腑に落ちない話となる。
それでもって今日の僕の行った神社の話だ。
天王寺にある神社の前に立つとある看板が目に入った。
「当神社は一生に一度のお願いを聞いてくださる神さん」
これは素通りするわけにはいかないでしょう。
とはいうものの、神社の階段の下で考え込んでしまった。
「一生に一度のお願い」
何とも重たいお願いではないですか。
そんなお願いを、今ちょっと通り掛かっただけなのに、決めてしまっていいものか。
いつかは病気にかかることもあるだろう、どうしようもない困難に出会う時もあるだろう。その時の為に取っておくというのも一案だ。
それに、今日、今、一生に一度のお願いをするとしてもだ、何をお願いするかが大問題である。
僕は、お参りをするべきか、次回に持ち越して今日は帰るべきか、階段の下で思い悩んでいた。
でも、これもまた縁と言うものである。
由緒のある神社の、さて正面にある本殿の前に立ちます。
一生に一度のお願いと言うのは、やっぱり1つでなくてはならないのだろうか。
またもや「一生に何度もお願いを聞いて」という子供じみたお願いが浮かんだけれど、それじゃ神様も困るだろうし、他の神社と同じになっちゃうだろう。
一生に一度のお願いを聞いて下さるというここの神社の神さんの存在意義が薄くなると言うものだ。
1つだけお願いするとしたら、奥さんの健康だろうか。
何年か前に、脳内出血をしてから、まだその患部は切らずに温存している。
またいつ出血するかもしれないというのは、可哀想だ。
でも、お金持ちにもなりたい。
しかも、何の努力もしないでさ。
とはいうものの、今は奥さんも健康で暮らしている訳だし。
ここはお願い1つということなら、僕の我儘をお願いしてもいいんじゃないだろうか。
自分の力では限界があること。
そんなお願いだからこそ、神さんにお願いする意味があると言うものだ。
「みゆきさんと、デートしたい。」
これだろう。
いや、もっと具体的にお願いするべきか。
「みゆきさんと、恋人つなぎで手をつないで、公園を散歩。その時に勿論ケータイの番号なんかを交換して、そんでもって雰囲気が盛り上がってきちゃって、チューなんていう展開になりますように。」とね。
とはいうものの、それも家庭円満じゃなきゃ実現できないだろう。
どうも、1つに絞れないね。
だったら、つなげちゃうとか。
「えーっ。奥さんが健康であるがゆえに、家内安全となるがゆえに、僕の我儘を聞いてくれるようになるがゆえに、東京へも行けるようになるがゆえに、みゆきさんとも偶然会える機会ができるようになるがゆえに、知り合ってしまうがゆえに、みゆきさんと打ち解けてしまうという流れの中で、みゆきさんと相思相愛になりますように。」
なんてね。
これって、1つのお願いになるのだろうか。
いろいろ悩んだ挙句に、全部のお願いを申し上げた。
、、、、、どうせ、お願いなんて叶わないんだからさ。
恋も、お金も、健康も、平和も、、、そんなに、うまくはいかないものだよ。
もし、この神社で、「一生に一度のお願いを、何度も聞いて。」って子供がお願いしていたら、こう大人は教えるべきかもしれないな。
「それは理論的に正しいよ。でも、神さんは1個のお願いだって叶えてくれないよ。」ってね。
人生と言うのはね、うまくいく時もあれば、うまくいかない時もある。
うまくいかなくったって、アガキ、モガキ、苦しみながら、覚悟を決めてやっていくしかないものだよ。
それでもね、人間は生きていること自体に意味があるんだよ。
神さんが、お願いを聞いてくれないなんてことは、クソクラエだ。
、、、ってね。
でも、大阪の子どもだったら、こう言い返すだろうな。
「どうせ、お願いが叶わへんのやったら、神さんに、いっぱいお願いしといてもいいやん。万が一ということもあるんやし。どうせ、お願いするのってタダやねんで。タダ。お母ちゃんも、タダ大好きやって言うてたわ。おっちゃんかて、タダ好きやろ。」
「うん、そうだね。それが1番に論理的かもね。」
大阪じゃ、気楽に行くのが1番のようであります。
「ねえ、ねえ、マスター。そうだよね。神社にお願い事なんてさ、気楽に頼むのが1番だよね。ねえ、聞いてる?マスター。」
「聞いてますよ。」
珍しく、返事が返ってきた。
カウンターの女性をみると、まだレバーの串を食べている。
何ぼほどレバーが好きやねん。
僕はレバーが苦手だ。
特に焼いたり煮たりすると、レバー独特の臭みが出て、僕はあれを嗅いだだけで吐きそうになる。
好きとか嫌いというのじゃなくて、体質的に合わない。
それにしても、これだけレバーを食べる女性は珍しい。
そんなに元気になりたいのか。
或いは、「あたし貧血なの。」なんてね、それで食べているとか。
でも見た目はしっかりとした体格だ。
女性なら女性らしい食べ物もあるだろうに。
レバーの次がレバーで、その次もレバーなんて、オッサンか。
とはいうものの、こんな女性が増えている。
今までの枠にとらわれないでいる女性。
女性は女性らしくなんてね、それは余計なお世話だ。
「ガッツ!」
ビックリしたよ。
レバーばかり食べていると思ったら、ガッツと気合をいれたじゃない。
何に対する気合なの。
やっぱり無視をしよう。
何となく危険な香りのする女性である。
「ところでさ、マスター。血管ってどう思う?」
あれ、また無視だよ。
どうして聞いてくれないの。
いや、聞いてくれてるのかな。
でも、急に血管はどうなんて聞かれても困るよね実際。
ごめんね、マスター。
僕は、人間の肉体が苦手だ。
つまりは、僕自身の肉体も、どうも苦手であり、怖い。
細胞だってね、顕微鏡で覗いたなら、エゲツナイ形をしてるものね。
僕は、自分自身の身体を想像してみることがある。
1つ1つの臓器なんか、取り出したなら、気持ち悪いよ。
ゴミ箱へ捨ててしまいたくなる。
そんでもって、血管だ。
心臓を中心に血管が身体のいたるところに張り巡らされている。
想像したら、気持ち悪くて貧血になりそうだ。
と言ったけれど、それは大袈裟な話じゃない。
中学生の時に、十二指腸潰瘍になった僕は、治療の為に大きな注射をすることになった。
その時の看護婦さんが、慎重だったのだろうか、あまりにもゆっくりと薬液を注入するものだから、腕に刺さった注射針を見ていた僕は貧血状態になってしまった。
慌てた先生は、「カンフル!」と大声で叫んだこともあったのです。
実に、アカンタレである。
今でも、テレビで手術の映像などが流れると、僕はじっとうつむいている。
そして、奥さんに聞くのである。
「もう、終わった?」
この「もう、終わった?」を2、3回やって、終わったのを確認してから、またテレビを見るのである。
そんな僕なので、今でも注射というものが怖い。
なのだけれど、尿酸値や、コレステロール、中性脂肪などが多い僕は2か月に1回は検査の為に注射をしなきゃいけない。
大きい病院だから、採血専門の人が注射をしてくれるので、幾分かは大丈夫なのだけれど、やっぱり注射をするときは横を向いてしまう。
これがね、女子大生とかがね、サラサラロングヘアーをかき上げながら悪戯っぽい上目遣いで
「はい、大丈夫でちゅかー。痛い痛いしませんからねー。」
なんて、何故か赤ちゃん言葉で言いながら注射してくれたら随分と気が楽になるのになあと念願する。
アルコール消毒する時もね。
「あ、先生。冷たーい。」なんて僕も言っちゃうわけ。
「これはね、アルコールなんでちゅよ。ばい菌さん、いなくなれー。」
なんて付き合ってくれる。
「先生、注射怖いから、手握っててー。」
「困ったちゃんでしゅねー。手を握ってたら注射できまちぇんよー。」
なんてね。
「きゃー。」
バンバンバン。あ、またカウンターをバンバンしちゃったよ。ごめんねマスター。
「えっ、何?それよりバブバブ言いながら親指をチューチュー吸ってたって。それにおしぼりを、よだれ掛けのように首にぶら下げて、赤ちゃんの演技をしてたって。えーっ、恥ずかしいなあ。何?結構、演技上手かったの。それは余計に恥ずかしいよ。」
でも、そんな採血がいいなあ。
そしたら先生が言うかもね。
「あー。良かった。私初めての注射やったから、怖かってん。」
「えー。初めての注射?」
、、、、、ヘナヘナヘナ。
そんな僕は、注射も、自分の身体も、そして血管も怖い。
怖いのだけれど、世界中で唯一「美しい血管だなあ。」と思う血管がある。
そう、みゆきさんの血管だ。
ただ、みゆきさんの血管も、熱唱している時の首の血管は、恐ろしく怖い。
みゆきさんはね、実は、首の骨が一本多いんだよね。
それだから、細く長いんだよ、首がさ。
美しいよね。
その白く長く美しい首に、熱唱すると、血管が浮き上がるんだ。
もし、あの血管に少しでも傷がついたなら、みゆきさんは一体どうなっちゃうんだろう。
もしも何かの拍子で先の尖ったものが倒れてきて、そう舞台の横に立てかけてあった板とかにね、何故か子犬が走ってきて板にぶつかって倒しちゃうわけ、そして、たまたまその板に釘が1本何故か抜き忘れていてさ、その釘の先がみゆきさんの首の血管に当たったら、どうなるんだろう。
多分、血がピューっと出ちゃうよ。
そんなことをDVDの映像を見ながら想像すると、気が変になってしまう。
というより、そんなことを考えると貧血になりそうだ。
「ちょっと、大丈夫?」
女性の声が聞こえる。
シマッタ。
血がピューを想像して貧血を起こして椅子から落ちて失神していたよ。
それにしても、レバーの女性が声を掛けてくれている。
これは困った。
どうしたらいいのか。
仕方なく「ばぶー。」なんて、レバーの女性に甘えてみた。
するとレバーの女は、僕をお姫様抱っこしてカウンターの椅子に戻してくれた。
なんという怪力。
やっぱりレバーの力なのか。
そして、僕に言った。
「ガッツ!頑張って。」
ありがとう。
でも、何を頑張るの?
そうだ、みゆきさんの血管の話だった。
「みゆきさん、お願いです。どうぞ、首筋の血管を大切にしてください。首に鎖帷子とか巻いたり、鉄板で出来たトックリとか着て、舞台に立ってください。」
もしも、僕のメッセージが届くのであれば、そうお願いしよう。
そして、「みゆきさんの美しい血管」である。
僕は偶然DVDを見ていて、ときめいた。
「花の色はうつりにけりな」の1シーンである。
お祭りの恰好をしたみゆきさんが、ほんとは可愛い性格なんだけれど、下町のちょっとイキのいい女性を演じている。
あれは何ていうのかなお祭りに着る衣装の腕の部分をまくり上げている、その腕の関節の内側の血管が見える。
腕の真ん中に、プクリンと膨らんだ血管。
美しいと同時に可愛い。
こんな美しい血管は見たことが無い。
これは、ただ単にそこにプクリンと存在していても、意味がないのである。
この血管はね、細く長く、白く柔らかな腕じゃないと、こんなにも美しくそこに存在できるものじゃないんだ。
血管が、その腕を、そして持ち主を選ぶのである。
もし、太く黒い腕の真ん中に、プクリンとしたものがあったら、どうですか。
「巨大な蚊に刺されたん?」と聞いてしまうだろう。
或いは、イボと間違えるか。
僕は、このDVDを見る時は、いつもみゆきさんのこの血管のプクリンを見てしまう。
そしてウットリとする。
そんでもって、思うのです。
あのプクリンを、人差し指でもって、チョンチョンと押してみたい。
さすがにギューッとは無理だ。
やっぱり怖いもの。
そこで、チョンチョンである。
チョンチョンで、みゆきさんの美しい血管と、柔らかな肌を感じてみたい。
、、、みゆきさんの肌。
「きゃー。」
人差し指の先だけでいいから、みゆきさんの肌を感じてみたいなあ。
なんて、完全に変態である。
僕が自然な思考を展開すると、どうも世間で言う変態的思考になってしまう。
ということは、僕は根っからの変態?
「変態ー。止まれ。」なんてね、ダジャレ。
とまあ、そんなことは置いときまして、みゆきさんの場合はね、血管も、そして身体全体も、何かすごく透明感があって、さらさらしていて、キラキラしていて、すごく素敵だと思う。
「きゃー。」という声が聞こえたかと思うと。
バシーン!
ものすごい衝撃と痛みを頬に感じた。
レバーの女が僕を思いっきりぶっ叩いたのである。
「なに人の腕の血管をチョンチョンしているのよ。」
えっ、レバーの女の血管をチョンチョンしてた?
シマッタ!!!
妄想と現実が解らなくなっていたよ。
それにしても、わざわざ席を立って、レバーの女の所まで行って、腕を取ってチョンチョンしたのを気が付かないなんて、僕の妄想もそうとうなレベルなのだろうか。
「ごめんなさい。ちょっと妄想がヒドクて、、、。本当にごめんなさい。」
「こちらこそ、ごめんね。暴力をふるって。あたし言葉より先に手がでちゃうんです。あ、これハンカチ。鼻から血が出ちゃってる。」
そういえば、鼻から血が流れて僕の口に入って鉄臭い味がする。
それに何となく顎がカクカクする。
座った状態でこんなに叩けるなんて、何という怪力。
僕は静かにハンカチで血を拭った。
「あの、あなた、、、中島みゆきさんのファンなんですか?」
レバーの女が聞いた。
「いや、ファンじゃないんです。ただ好きなんです。」
そう、僕はファンじゃない。
1人の男として、みゆきさんに恋をしている。
「ふーん。みゆきさんが好きな人には、やっぱり変わった人が多いですね。」
「変わった人、、、。そうなのかなあ。みゆきさんが好きな人は、変わってる?」
「そうそう、思い入れのヒドイひとが多いですよ。」
「まあ、B型の僕には、変わった人というのは褒め言葉なので、嬉しいですけど。」
「はは。やっぱり変わってる。」
この変わってると言う言葉は、僕は結婚するまでは良い意味で使っていた。
奥さんから、服や料理の感想を求められた時に、「変わってる。」と言っていたのですが、最近になって、この変わってるがB型以外の人には褒め言葉じゃないことだと知った。
「変わっているってどういうことなん?」
といつも奥さんは疑問に思っていたそうです。
でも、奥さんの友人にB型の人がいて、その話になったときに、友人のB型も「そうそう、変わってるは、褒め言葉よ。」と言われて、奥さんも納得がいったそうです。
僕が何かを褒めようと思ったら、まあ、ちょっと良いなと思った時は、「いいね。」というだろう。
「いいね。」よりも良い場合は、「めっちゃ、いいやん。」というだろう。
そして、「めっちゃ、いいやん。」より上の場合は、「スゴイやん。」というだろう。
そしてそして、もっと良い場合は、「最高やん。」というだろう。
そんでもって、それよりももっと上の場合に「変わってるね。」というのである。
つまりは、僕にとって「変わってるね。」は、最上級の褒め言葉である。
だから、レバーの女に「変わってる。」と言われても、それはうれしいのであります。
「みゆきさんの曲は、何が好き?」
レバーが聞いた。
「いや、僕は、音楽は解らない。だからどの曲って言われても、、、。みゆきさんが作って歌ってるっていうだけで、どれも全部好きだなあ。」
「みゆきさんが好きなのに、曲は解らないなんて人、初めて見た。普通のみゆきさんファンだったら、みゆきさんの歌について熱く語りたい人ばっかりだよ。はは。やっぱり変わってるね。」
「ありがとう。」
「じゃ、みゆきさんの何が好きなの?」
「それも解らないけど、、、しいて言うなら、見た目かな。それか声とか、喋り方とか。なんだろう、理由はないけど好きなんだ。」
「ふーん。そうなんだ。」
「あ、見た目っていうとね、コンサートなんかで歌った後とかね、間奏の時とかにね、ポーズを決めてくれるんだ。あれが好きだなあ。」
「ポーズを決めるの?」
「そうなんだ。僕が好きなのは、歌ったあとや、歌の途中で、キメ顔や、キメポーズをしてくれるところなんだ。これが、どうにも可愛いんだよね。」
しかし、しかしなのです。
僕は、今まで、これはキメのポーズだと思っていたのです。
静止しているキメのポーズ。
でも、実際のコンサートのみゆきさんを見て、キメの動きだと、気が付いたのです。
これは大発見だよ。
ポーズを決めているのじゃなくて、ゆっくりとした動きのある動作の、そのすべての瞬間が決まっているのです。
無数の静止したキメのポーズの連続。
詰まり、動きの一瞬の切り取り。
動かないダンス。
動かないバレエ。
動かない歌舞伎。
そんな感じ。
形や動きには、誰が見ても、美しいと本能的に感じる形や動きがある。
体の形や、重心の位置、腕の角度や、そんな誰がみても美しいと思う黄金比のフォルム。
激しい動きの中にも、一瞬止まるキメの形。
長い伝統の中で、練りに練り上げられた、究極の形。
スターと呼ばれる人は、そんな黄金比の形を、常に意識しているはずだ。
みゆきさんのキメポーズは、そんな見えていない動きの中の一瞬を切り取って舞台で見せてくれているのだと思う。
それがみゆきさんのキメポーズなのです。
それは動きだから、いろんな場所や角度にむけて、そのキメた形を見せることが出来る。
だから、みゆきさんには、客席の1階席でも2階席でも、右端の席でも左端の席でも、どの位置で見ても、その美しさに魅了されるのである。
こんなすごい人、ダンス界にも、バレエ界にも、歌舞伎界にも、いない。
とはいうものの、僕は、そんな美しいみゆきさんも素敵だけれど、向かい合って、見つめ合って、そんなうつくしい形なんてどうでもいい、人の目を無視したみゆきさんが見たいのであります。
ご飯を食べている時に、おかずをこぼしたりね。
テレビを見て、無邪気に笑ってるところとかね。
或いは、怒っているときでもいいや。
そんな、完璧じゃない、不完全な、みゆきさんをね、それも独り占めして見たいのであります。
それが夢だ。
「あの。大丈夫ですか。」
レバーが聞いた。
「何かすごく熱弁を振るってたけど、1人で笑ったり、泣いたり、それに歌舞伎のマネしたりバレリーナになったり、怖いぐらい動き回ってましたけど。」
シマッタ!!!
また妄想が始まったのか。
「あ、そんなに動いてた?ゴメン、また妄想してたみたい。」
「いや、いいですよ。それで、もう終わりました?みゆきさんのキメのポーズの話。」
「いや、まだ終わってないんだ。」
僕の奥さんはね、フィギアスケートの高橋大輔さんが好きなんだ。ちょっと話ずれるけどね、まあ僕も好きだなあ。何故かって言うとさ、高橋選手には、「ダンス心」があるんだよね。持って生まれた天性のセンス。あのステップは、本当に最高だね。
それでさ、奥さんは高橋君だけれど、僕が1番好きなのは、カート・ブラウニングさんというカナダの選手なんだ。
オリンピックではメダルは取れなかったものの、世界選手権では4回優勝している実力のある選手で、今は振付をしたりアイスショーに出たりしてるんだ。
それで、何が好きかって、カッコいいんです。
自分の身体1つで、観客を魅せるという、その術を知っている。
つまり「ダンス心」があるんですよね。
スケートの会場と言うのは、真ん中に氷の張ったステージがあり、大概は体育館などでやるので、周りの四方が客席となる。
それでもって、その内1面にカメラなどが設置されて、他の3面にお客さんが座って見ることになる。
カートブラウニングさんのステージは、そのどこの面から見ても、カッコイイのです。
カートブラウニングさんが、そのスケート会場の空間、前後左右、そして上下、すべてを体の感覚で把握している。
そして、その空間でどういう動きをすれば、どういう風に見えるのか、それを感覚で解っているに違いないんだ。
それじゃなきゃ出来ない、パフォーマンスを見せてくれるのです。
だから、例えば演じているスケートの途中で、ストップしてもね、その1瞬の形は、たとえどこから見ても、完璧にキマッテいる。
みゆきさんのポーズもね、これと同じなんだ。
カートブラウニングさんは、スケート会場と言う広い舞台で演じる。
みゆきさんは、コンサートという狭い舞台であるけれども、それは同じなんですね。
コンサート会場の空間の全部の方向を体で把握して、そんでもって、そこでダンス心のある動きを見せてくれる。
そして、普通の人が見たら動いていない様に見えるところの、動きの1瞬のキメポーズを見せてくれるんだけれど。
だから、普通の人が見たら、静止したポーズなんだけれどさ。
でも、見る人がみたら、完璧な動きのダンスなんだ。
みゆきさんも、空間を前後左右や上下の全方向に把握している。
そして、その空間のすべてを感じながら表現している。
全方向から見られていることを意識しているんだ。
だからね、ステージの上のみゆきさんを見るのにさ、ただ前からだけ見てカッコイイんじゃなくて、ステージの右横から見てもカッコイイし、左横から見てもカッコイイし、たとえ後ろから見てもカッコイイ。
頭のてっぺんからね、みゆきさんを見ても完璧な形でキマッテいて、カッコイイに違いないんだよね。
そんでもって、下からね、足の下からみゆきさんを見上げてもカッコイイ。
スカートの裾の下からね、みゆきさんをチラリ。
「キャー、エッチ。」
でも、どこから見てもカッコイイことは間違いないのでございます。
こんな歌手はまずいない。
「きゃー。」という叫び声。
そして、バシーン、バシーン!
連続して頬に激痛が走る。
今度は往復ビンタだ。
「あ、ごめんなさい。また手が出ちゃった。でも、スカートの中を覗くんだもん。」
「あー。そんなことをしちゃった?本当にごめんなさい。また妄想に入ってたんだ。」
「はあ。妄想ね。まあ妄想もいいけど、そのみゆきさんのキメのポーズの話、もうその辺で止めといてもらってもいいかな。ずっと同じ事言ってるよ。」
「えっ?同じ話やった?そうかなあ、2回目はスケートの話も盛り込んだし、、、そうなの、大筋は同じこと話してたって?そうなんや。」
「そう同じ話。って、それより鼻血拭いた方がいいよ。白のカッターシャツ真っ赤やし。痛い?ごめんね。」
「いや、僕の方が悪いんやし。それに何や頭がフラフラして、気持ちええわ。」
「それちょっと危ないんちゃう。もう帰った方がいいよ。」
そうかもしれないと思って席を立った。
帰りの京阪電車までは酔っ払ってるのか、軽い脳震盪なのか、千鳥足で歩いて帰った。
奥さんに、血で真っ赤なカッターシャツの言い訳を考えなくてはならない。
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