第3話 ラブレター3

次の週の水曜日である。

お店に寄って帰ることにした。

ドアを開けて、思った。


シマッタ!!!

妄想癖の女がカウンターで泣きながらカウンターを「バンバンバン」と叩いている。

帰ろう。

これは危険すぎる状況である。

そう思った時にマスターと目があった。

これでは帰るに帰れない。

仕方なくカウンターに座った。


するとマスターが言う。

「彼女、あれから毎日お店に来てるんですよ。何でもあなたにもう1度会いたいそうです。」

カウンターを泣きながらバンバンしている妄想癖の女が僕に気が付いて、1瞬目が覚めたようになった。

やめてよ。

もう、永遠に妄想の世界に入っていてくれ。

そう願ったが、僕を潤んだ目で見つめる。

それは、さっきの妄想の涙か、僕への何かしらの感情の表れの涙なのか。

前者であってほしい。


「だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみっ。」

小さな小さな、そして可愛い声で僕に挨拶をした。

白く細い指の手の平で、ちょこっと敬礼をしたのは、可愛い。

見た目は可愛いんだけどね。

それにしても、小さな可愛い声の「はっぱふみふみ」は、どうだ。

普通なら、宇宙人との会話という人が聞いたら引いてしまうような「はっぱふみふみ」を、敢えて挨拶に使うというポジティブな作戦だろうか。

ポジティブな妄想癖の女。

これはまた、これで厄介なものかもしれない。

僕も、少しだけ頭を下げた。


「マスター、ビールください。」

取りあえずは、ビールを注文。

僕は、ずっと前を向いたまま無言でいる。

下手に妄想癖の女の話に乗らない方がいい。

「今日も来ちゃった。」

彼女は珍しく普通な感じで話しかける。

とはいうものの、これに乗っては危険すぎる。

今気が付いたが、彼女はミニスカートをはいている。

どうしたものだろうか。

ひょっとして、僕に対するアピールなのか。

しかも薄い黒のストッキングにシームが入っているなんて、これは少しドキッとする。


それにしてもさ、脚と言えばさ、みゆきさんの脚って素敵だよね。

あなたは、脚のきれいな女性は誰かと訊かれたら、何と答えますか。


「ねえ、マスター。芸能人で言うとさあ、誰の脚が1番綺麗だと思う?」

「朱里エイコ?」

そういえばさ、綺麗だったよね朱里エイコさんの脚。

でも、マスターって何歳なの、若く見えるけどさ。


僕も、あのダイナミックな歌い方は、迫力があって好きだった。

これが解るのは年寄りだけだよね。

それで、彼女は綺麗な脚線美の持ち主で、脚に1億円の保険を掛けたということが当時話題になってたよね。

1億円の保険を掛けるぐらいだからね、それは綺麗な脚に決まっている。


僕がもし、学生時代に訊かれたなら、「エレノア・パウエル」と答えただろう。

当時は、ミュージカル映画が大好きだったので、よく見に行ったんだね。

名画座などで、ミュージカルを上演する映画館が結構あった。

エレノア・パウエルとフレッド・アステアのダンスのデュエットは、本当にカッコイイと思ったね。

ビギン・ザ・ビギンのリズムにのせて踊っているのを見ていると、僕もタップダンスを習おうかなんて、何度思ったことか。


練習に練習を重ねたステップなんだけれど、映画の中では、いまちょっとやってみたら、ステップ踏めちゃったなんて感じで、すごく軽いんだよね。

日本人のタップのように、一所懸命ステップ踏んでますなんて重さがない。

そんなエレノア・パウエルさんの脚は、本当に綺麗だと思う。


でも、今、脚の綺麗な女性を訊かれたら。

それは、もちろん「中島みゆきさん。」と答えるに決まっている。

みゆきさんの脚そのものも無条件で美しいのだけれど、その脚の見せ方も憎いほど心得ているのであります。


僕がみゆきさんに惹かれた場面、夜会「シャングリラ」の「怜子」のシーン。

黒いミニスカートで椅子に座り怜子を歌うんだけれど、その組んだ脚が、脚が、脚が、美しいんです。

僕が、みゆきさんを好きになるきっかけになったシーンだって言ったよね。

「セクシー。」叫びそうになる。

こんな脚は今までに見たことが無い。

神様だって、人間の女性を創る時に、最高の美というものを作ることに挑戦したくなったんだろうね。

でなきゃ、こんな美しい脚が偶然にこの世界に現れる理屈が見当たらない。

いつまでも見ていたい脚。

それにね、この怜子のときの黒のワンピースも美しいよね。

白い肌と黒の衣装のコントラストが目に焼き付いて忘れられない。


そして、夜会「金環蝕」の「泣かないでアマテラス」。

これはもう、美しい以外の言葉が見つからない。

それに、歌う時のポーズが、セクシーでかつ独創的だ。

低く構えた姿勢から右脚だけが見えている。

その足首には鈴が付けられていて、曲に合わせてその鈴を鳴らすんだけれど、美しい脚と鈴の音が催眠術のように僕の意識の底深く刻み込まれていく。

「みゆきさま。僕はみゆきさまの恋の奴隷です。」

なんて、どうしてそうなるの。

悲しい自己催眠。


それから、「24着00時発」の「サーモン・ダンス」は、ブルーのワンピース姿が何と言っても素敵だ。

それでもって、ステップを踏みながら踊るんだけれど、もう夢の世界のようだね。

美し過ぎる。

過ぎたるは及ばざるが如し。

とはいうものの、みゆきさんのサーモン・ダンスは、過ぎてはいるけれど、まだまだ先に進む美しさをもっている。

完璧だ。

みゆきさんの、どのシーンを見ても、すべてが完璧だ。


でも、去年だったかな。

日光に遊びに行ったことがあったんだ。

その時に、日光東照宮の陽明門を見て、みゆきさんの脚が100%完璧でないことに気が付いた。

みゆきさんの脚は、100%じゃなくて、少し足りない99.9%だけ美しく完成されていたんだ。

まだ、0.1%の不完全さを持っているのだ。


つまりは、脚線美だけを見たならば、首里エイコさんに0.05%負けている。

だって、首里エイコさんは、脚に1億円の保険を掛けているほどですからね。

これは文句なく綺麗な脚だ。


そして、脚の動き、ステップを見たならば、エレノア・パウエルさんに0.05%負けている。

だって、あのステップは、世界中の人が認めたステップだ。

それだから、フレッド・アステアさんと踊ったって、なお彼女のステップが引き立つのである。


ということで、首里エイコさんとエレノア・パウエルさんにそれぞれ0.05%負けているから、みゆきさんは99.9%の完成度ということになる。


そうなんです。

これが陽明門の逆さ柱と同じ理屈になるわけなのであります。

東照宮の陽明門は、その柱の内の1本だけが、模様が上下逆になっている。

それは、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という理屈で、わざと柱の1本のデザインを上下逆にして、未完成にしてあるらしいのです。

だから、いつまでも美しくそこに存在していることが出来る。


みゆきさんの脚もそうだ。

完成までに0.1%足りないから、まだ未完成なのだ。

なので、みゆきさんの脚は、いつまでも美しく、そこに存在している。

美しさの原理の一致を発見したら、もう1度みゆきさんの脚を見たくなった。


「いやだあ。あたしの脚をじろじろ見て。」

と、妄想の女が言った。

「いや、見てないですよ。」


「いや、絶対に見てた。はっぱふみふみ。」

「はっぱふみふみって、見られてるっていう妄想をしてただけじゃないですか。」


「えっ、どうして妄想してたって解るんですか。」

「だって、はっぱふみふみって言ってたし。」


「そうなんだ。やっぱり妄想してたんだ。最近ね、妄想と現実がごっちゃになっちゃうことあるんです。どうしちゃったんだろう。あたし。」

「いや、僕もそういうことがありますよ。心配しないでいいと思いますよ。」

そう彼女に言った。


彼女は彼女で、妄想癖に悩んでいるんだ。

少しばかり同情したくなった。


「あたしなんか、生まれてきても良かったのかな。何の為に生まれてきたんやろ。あたし神様に聞いてみたいわ、あたしの生まれてきた目的を。」

そういうと、彼女はハンカチで目を押さえた。


「生きる目的なんて考えちゃダメだ。」

無目的に生きる。

これこそが、純粋に生きるという事なのだと思う。

人間と言うのはね、ただ生きているだけでいい。

それだけで、生きるという目的を毎秒毎秒、達成しつづけているのである。


最近、よく「人はみんな、生きているんじゃなくて、生かされているんだ。」っていうことを言う人がいるが、「バカヤロー!」って叫びたくなる。

そういう人は、だから感謝を忘れるななんてことを、如何にも素晴らしいことをいっているような顔をして披露している。

冗談じゃない。

生かされているっていう言葉はね、今生き残っている勝者の言葉だ。

今、苦しんでいる人の言葉じゃない。


生かされてるっていうからには、「誰によって」もしくは「何によって」という言葉が必要だ。

「生かされている」という言葉を使う人は、この「によって」をはっきりと付け加えて欲しいね。

この「によって」に引っ付く言葉として、大体において説明されるのは、「自然」であったり、「人」や「神様や仏様」だろうと思う。


「人は自然に生かされている。」

それは、ごもっともであります。

この地球がなければ、僕だって生きていけない。

今、北極の真ん中に放り出されたら、食べるものもないし、寒さを防ぐ家もない。

数時間で、死んじゃうだろう。


そういう意味では、亜熱帯地方は、自然に生かされている度合いが多いかもしれないな。

寒さで死ぬこともない。

1年中、ぽかぽかと温かそうだ。

そんな土地では、フルーツや木の実なども自然に生えている。

でも、そんな事実を今更、言ってどうなるのよ。


人は自然に生かされていると同時に、殺されてもいるという事実を再確認すべきだ。

世界中で、今でも飢饉で苦しんでいる地域がある。

天災によって、家族や友人を亡くした人もいるのじゃないだろうか。

そんな人は、自然によって生かされていなかったということになるよ。

どうも、そういう人にとっては、自然に生かされているなんて言う言葉は、非常に厳しい言葉である。


それに、もう1つ。

「人によって、生かされている。」

これは、僕もそうだと思う。

今、僕は寒さから守る服も着ているし、雨露をしのぐ部屋にいる。

外出すれば、電車にも乗れるし、畑を耕すことなく、食物を得ることが出来る。

どこかの誰かが、どこにもいる皆が、それぞれの仕事や、それぞれの役割を果たすことで、社会全体が回っている。

そういう意味で、僕は総ての人によって、本当に生かされていると思う。


勿論、やりたい仕事だけじゃないだろうし、ツライこともやらなきゃいけないこともあるだろうけれど。

兎に角、今は生きていることに間違いは無くて、それは、総ての人のお蔭だと言うことも間違いがない。

有難いと思う。

そして、その恩に報いるには、兎に角、自分自身が生きることだ。


ただ、悲しいかな、それは事実間違いがないのだけれど、ここでもまた、人によって殺されるという場合も存在する。

今、この今でも、世界のどこかで戦争を継続しているんですよね。

人によって、殺されている。

そんな、大きなことじゃなくても、日常でも、誰かによって傷つき、誰かによって泣かされるということが繰り返されている。

どうも、何とかならないものか。


それでもって、最後の「神様や、仏様によって生かされている」という言葉だ。

これが僕には許せないのであります。

神様っているのですか。

仏様っているのですか。

いるんだったら、どうして苦しんでいる人を助けてあげないのですか。

そう神様や仏様に問いたい。


僕の母親は、ガンで死んだ。

ある日、病院の先生に呼び出されて、母親に内緒で、母親がガンであることを告げられた。

その後、手術や抗がん剤など、苦しんで、悩んで、どん底に落とされたようになって、死んだ。


毎日、仏壇にお線香をあげて、お守りも身に付けてさ。

死ぬ前日まで、治ることを夢見ていた。

じゃ、神様に、仏様にお聞きしたい。

「僕の母は、仏さまによって、生かされていなかったのですか?」

確かに医療のお蔭で2年ほど延命したかもしれない。

でも、それって生かされていたのでしょうか。


これをね、仏教の偉いさんが説明するなら、前世の業によって、そうなったと説明するだろう。

因縁果報。

良いことをしたら、良い結果が待っていて、悪いことをしたら、悪い結果が降りかかる。

だから徳を積むようにと。

善いことをしなさいとね。

そんな理論を持ち出すなら、生かされているなんて言葉を出しちゃだめだ。

この世の苦のすべては因果応報だって言い切るべきなんだ。

決して生かされている訳じゃない。


だから、僕は「生かされている。」っていう言葉を宗教家が使うと、「バカヤロー!」と叫びたくなるのであります。

そして、生かされているという言葉を使う時は、その反対の殺されている部分を説明すべきだと。

とはいうものの、人間という生き物は、ひとりでは絶対に生きられないのであります。

その事実には、素直に感謝しながら、ぼくたちがすべきことは、ただ生きる。

それだけで、いいと思う。


そして、折角だから、今この瞬間は、生きているんだから、たとえ今が苦しくても、この生を大いに楽しむべきなんだ。

こんな僕でも、苦しみはある。

でも、そんな時、この同じ日本に、この同じ時代に、みゆきさんが存在してくれてるんだなと思うと、少し元気が出る。

考えてみれば、僕はみゆきさんに生かされてるんだなあ。

「ねえ、マスター。僕はみゆきさんに生かされてるんだよね。えっ。それは無理やりな理屈ですか、、、そうかなあ。」


彼女を見ると、満面の笑みで僕を見ている。

怖い。

そして言った。

「アイラブユー。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」

怖い。

どういう意味なんだ。

僕は、少し体を後ろにのけぞらせる。


「あのね。あたしの生きる意味はね、目の前の人を愛することだって。宇宙人の神様が教えてくれたの。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」

そして、カウンターを叩いた。

「バン、バ、バーン。バン、バ、バ、バーン。」

怖い。

だんだん、怖くなってくるよ。

宇宙人の神様って何なのよ。

それに目の前の人って、、、、ひょっとして僕のこと?

逃げ出したい。

それに、また半分妄想しているもの。

その上、カウンターを叩くときにリズムまで刻んじゃってるし。

バン、バ、バーンってさ。

無視だ、無視。無視に限る。


気を取り直して何か注文しよう。

「ねえ、マスター。今日の日替わりは何?」

「カレー豆腐があります。」

いいねえ。

このお店は、洒落たバーと違って、所謂おかずというものを出してくれる。

僕のように、お酒も飲みたいけれど、やっぱりアテもボリュームが欲しいという人には嬉しい。

カレー豆腐と言うのは、絹ごし豆腐をネギや玉ねぎと一緒に和風の出汁で煮て、カレー粉と片栗粉で味ととろみをつけた料理の事だ。

冷えたビールには、こんな熱々のおかずが合う。

それに、僕はカレー味というものが大好きだ。

特に、和風なカレーと中華風なカレーが好きなんだ。

あっさりとしていて、それでいてエキゾチック。

勿論、普通のカレーライスも好きだけどね。


カレーライスと言えばさあ、僕は簡単に作るカレーの方が好きなんだな。

たまにテレビで食通と言う芸能人が自分のカレーを自慢することがあるけれど、あれは大概においてダメだね。


みんな、玉ねぎを飴色になるまで炒めてさ、チャツネなんて余分なものまで入れちゃって、おまけにコトコト長時間煮込んじゃう人が多い。

何をしているんだか。

カレーと言う食べ物はさ、詰まるところ香辛料なんだ。

それをコトコト煮てどうするの。

揮発性の香辛料のいいところが全部飛んじゃうよね。


そうして、作ったカレーは、これまた大概に於いて濃厚だ。

まあ、たまに食べる分には問題はないけれどね。

僕みたいに、毎日でもカレーを食べたいなんて人には重すぎる。

挙句の果ては、この前テレビで見て笑っちゃったのは、作ったカレーを、わざわざ冷凍するっていうんだよ。

この人大丈夫なのと思ったね。


冷凍するというのは、よっぽど急速に凍らせなきゃいけないんだ。

普通の家庭の冷蔵庫でカレーを冷凍したらダメだ。

じゃがいもなんて、じゃがいもの水分が凍った時に、じゃがいもの繊維がズタズタに寸断されて、それを解答したらフカフカの気が抜けたようなじゃがいもになってしまうんだ。

フカフカのじゃがいもだよ。

フカフカのフーカフカ。

フカフカのフーカフカだよ、、、、ククク。食べられたものじゃない。


「えっ?今僕、フーカフカって言いながら鳥が飛んでるように羽ばたいちゃってたの?」

それはまた恥ずかしいことをしてしまった。

横の彼女を見ると、自分の脚をバンバンと叩いていた。

どんな妄想をしているんだろうね。

いや、妄想癖の女がどんな妄想をしていても関係ない。

無視を貫くのだ。


でもさ、カレーなんて食べ物は、ささっと簡単に食べるものなんだよね。

そうなんだけれど、僕はカレーを食べる時にこだわってしまう。

「あ、そうだ。マスターはカレーに何を掛ける?ソースなの醤油なの。えっ、マヨネーズ?それは変でしょう。」

「カレーに何掛けて食べる?」

そんな会話を学生時代にした記憶がある。

たぶん誰でも一度は同じような会話をしたことがあるのではないだろうか。

その時は、少数派であった醤油だと宣言する友人がいたので、僕も試してみたことがある。

普通の町の食堂で出されるようなカレーには、案外合いそうな組み合わせだ。

小さな発見が嬉しかった。


でも、何と言ってもカレーにはソースだよ。

家でもそうだ。

出されたカレーに、まず最初にソースを回しかける。

そして、おもむろにスプーンで端っこから、ちょっとずつ混ぜながら食べるのであります。

ところが、この行為がいけないのだそうだ。

「出されたカレーに、まず最初にソースを掛ける」という、この行為自体が、カレーを作った人にとっては、嫌な行為のようでありまして、特に、今の時代の女性には、叱責されるべき行為だということのようなのであります。


とはいうものの、僕は子供のころから、ずっとカレーに最初にソースを掛けて食べていたのでありまして、僕の親も、そんな風に食べていたのであります。

勿論、僕の母親は、その行為を責めたりはしなかったですよ。

それが普通だった。


「ちゃんと美味しく味付けしているのに。」

というのが、作った人の意見なのでありましょう。

でも、「まず始めに」ソースを掛けるんですよ。

これは、僕にとってはカレーを食べる時の儀式の1つなのでありまして、決して作って頂いたカレーを否定している訳ではないのであります。

食べる前にスプーンをコップの水にちゃぷんと浸ける人がいますが、あれと意味は同じなんです。

勿論、僕はスプーンをちゃぷんとはしないのですが、ちゃぷんとする人を叱責したりなどはいたさないのであります。

この点をはっきりさせないと、呑気にカレーを食べるということが出来ません。


もし、一口味を見てから、ソースを掛けたら、どうなのですか。

こっちの方が嫌でしょう。

一口食べて、少し首を傾げて、おもむろにソースを掛ける。

もし無言で、そんなことをされたら傷つくにちがいありません。


おしゃべりな人なら尚更だ。

「あ、ごめん。このカレー美味しいよ。本当に美味しい。それは事実なんだけど、、、ほんのちょっとね、ほんの少しだけ好みの味じゃなんだ。だからソースをちょっとだけね、ちょっとだけ掛けるね。ごめんね。」なんてぺこぺこしながら、ソースを掛けられたら、最悪でしょ。

食べ終わってから「あー、美味しかった。」って言っても、「ソースが美味しかったんでしょ。」なんて、大阪の女性だったら突っ込まれそうだ。


でも、僕はどんなカレーにだって、味を見る前に最初にソースを掛けるんです。

カレーの味とは関係ない。

なので、これっぽっちも、出されたカレーやカレーを作った人を否定していないのであります。

そんなことを考えながら、出されたカレー豆腐に七味を振りかける。

和風のカレーには七味だ。


でさ、カレーライスを食べ方というとね。

僕のカレーの食べ方は、格好悪いんだよね。

自分でもそう思うよ。

僕はカレーを食べる時は、カレーがたっぷりと掛けて食べるのが好きだ。

自宅では、まずカレーの掛かっているお皿の端や、カレーのてっぺんをご飯3割カレー7割ぐらいの割合で混ぜて食べる。

当然、白いご飯が残るので、そこに更にまたカレーを掛けてもらう。

そんでもって、またまたカレー7割で食べると、またまた白いご飯が残る。

そんでもって、またまたカレーを掛けてもらう。

こんなことを、3、4回繰り返して僕のカレーの儀式は終了する。


しかしながら、外で食べる時は勿論そんな事は出来ない。

何が悲しいといってカレーを食べていて最後に白いご飯が残る事ぐらい悲しいことはないのだ。

なので、運ばれてきたカレーに向かっていろいろ細工をしなければ悲しい結果になる。


まず、運ばれてきたカレーにスプーンを垂直に突きたて、カレーとご飯の量のバランスを探る。そして、カレーのルーに対するご飯の量を決めるのです。

そして、カレーの掛かっていない余分な白いご飯と判断した部分に福神漬けを乗せて、先に白いご飯を食べるのであります。

福神漬けがない場合は、ソースを白いご飯に掛けて「ソーライス」として食べます。

ソーライスっていうのは、昔に阪急百貨店で、白いご飯にウスターソースだけを掛けた料理があったんだね。

カレーよりも安い食べ物。

ソース味のご飯だ。


そんでもって、外食のカレーだよ。

ここで、厄介なのが、ご飯全体に満遍なくカレーが掛かっているときだ。

この時は、カレーの下のご飯をスプーンでほじくり出して、まずは白いご飯だけを福神漬けを乗っけて食べる。

そして、カレーの量を相対的に増やすのだ。


こんな苦労をしながら最後にカレーたっぷりのカレーライスを食べるのです。

見ている人がいたら「あのオッチャン大丈夫かな。ちょっと精神病んではるな。」なんて思われるだろう。

どちらにしても綺麗な食べ方じゃない。

恥ずかしい食べ方だ。

そして、悲しい食べ方だ。

大阪の難波の「自由軒」という洋食屋では、始めからルーとご飯を混ぜてあるカレーを食べさせる。

このお店は織田作之助の「夫婦善哉」にも登場していて大阪では有名です。

織田作も、僕と同じように最後に白いご飯が残るのが嫌いだったのではないだろうか。


そんな僕が「負けた。」と思った瞬間がある。

それは学生時代のことだ。

僕はお昼時間に、少し日差しの柔らかくなった初秋の学食のテーブルに座っていた。

そこに同じクラスの友人がカレーライスを持って来て座った。

ゆっくりと足を組んで、少し長めの髪をかき上げた彼は、別にカレーをじっくりと見るでもなく、皆と話をしながら、スプーンを手に取りました。

そして次の瞬間です。

スプーンを無造作にカレーに差し入れたかと思うと、混ぜることなく、すくい上げて口に運んだのです。

当然スプーンの中は、白いご飯の上にカレーが乗っかった状態です。

しかも、すくうたびに、そのカレーと白いご飯のバランスが違うのです。

でも、その時思いました。

「カッコイイ。」

何気なく食べるその姿がカッコイイのです。


僕は友人に聞きました。

「カレー混ぜへんの。」

「だって、どうせ口に入ったら混ざるやん。それに、面倒くさいし。」

そうなんだよね、どうせ混ざるし、何といっても、たかが昼食なんだ。

そんな気合を入れて食べなくてもいい。

「昼食だから、ちょっとお腹に治まればそれでいい。」なんて余裕があるのがカッコイイんだよね。

「完敗だ。」


それでも僕は、自分のカレーの食べ方のカッコ悪さを気にしながらも、今日も白いご飯をほじくり出しては、混ぜまくって食べずにはいられないのであります。

ああ、格好悪い。

そして恥ずかしい。

そして、悲しい。

気が付くと僕は口をへの字にして、泣きそうになりながら、おしぼりでカウンターをゴシゴシと拭いていた。


シマッタ!!!

「あ、マスター。僕今、泣いてました。」

マスターは、悲しそうな目で首を横に振った。

横の妄想癖の女もカウンターをおしぼりで拭いている。

何を妄想しているんだ。

彼女もまた泣きそうに「はっぱふみふみ」と呟いていた。

どうも、気がおかしくなりそうだ。


それにしてても、みゆきさんはカレーライスを食べるのかなあ。

辛口なの甘口なの。

あっさりなのこってりなの。

いつだったかな、みゆきさんのラジオで、みゆきさんは食べるのが遅いって言っていた。

きっと可愛い食べ方するんだろうなあ。


でも、これは意外だった。

ラジオのお喋りの感じだと、もっと活発に食事もガーッって食べるのかなと思っていた。

でも遅いんだね。

もしくは、お喋りをしながら食べるから、遅くなるのかな。

なるほど、これは覚えておかなくちゃね。

将来、近いか遠いかは考えると悲しくなるからやめておくけれど、将来、将来だよ、みゆきさんと晩御飯なんか食べに行くことがあったらね、食べるスピードを合わせなきゃいけないものね。


僕は、どちらかというと、早いほうではないけれど、兎に角、目の前に料理があったなら、無心に食べるので、早く食べるほうである。

僕の奥さんは、そんな僕より2倍は食べるのが早い。

僕が定食のおかずを半分ぐらい食べて、前に座っている奥さんを見ると、もう食べ終わっていることがある。

あれは、どうやって食べているのだろうね。

噛んではいるようだけれど、異常に食べるのが早い。


それに比べて、みゆきさんは乙女なんだなあ。

かわいいなあ。

箸で定食のご飯を摘むんだけど、ほんの1口分しか箸で取らない。

それを、口をおちょぼにして、そんでもって、箸もおちょぼ口だから縦にして、ちょこんと口に入れる。

モグモグ。

口をおちょぼのままに尖らせたまま、箸を持った手をまだ下さずに顔の横に置いたまま、「一緒にご飯できて楽しいね。」なんていう感じの笑顔になった。

小さな小さな1口を飲みこんだら、「あのさあ、今日見る映画ね。手を繋いで見たカップルは3か月後に別れるんだって。」なんて言う。

悪戯っぽいけれど、目を無防備に垂らして笑う仕草が愛しくて、愛しくて。

「ふーん。」と、ワザと、嬉しさをこらえて答える。


そんな会話の答えを考えるより、目の前のみゆきさんを見ていたい。

みゆきさんは、僕の反応を楽しむように、おかずを箸で小さく割っていた。

でも、やっぱりみゆきさんが目の前にいても、僕はみゆきさんよりずっと早く食べちゃうんだろうな。


目の前に料理があったら、食べちゃう僕。

これは仕方がない。

みゆきさんと食べるスピードを合わせるなんて僕にはできない。

なら、解決策。

みゆきさんが食べている間、僕も料理を注文し続けて食べてれば、いつも一緒に食べていることになる。

その作戦で行こう。

でも、みゆきさんと食事ができるのは、いつなんだろうね。

最近は、妄想でも会える気がしない。

というか、会う勇気が無い。

どうしたらいいんだ。

「バン、バ、バーン。バン、バ、バーン。」


シマッタ!!!

ウッカリしていたよ。

またカウンターをバンバンしちゃったよ。

しかも、妄想癖の女のようにリズム刻んじゃったし。

「ねえ、マスター。ごめんね。カウンターバンバンしちゃってさ。あ、怒ってる?ねえ、怒ってるの?」

マスターは何も答えず、悲しそうな目で僕を見るだけだ。

それはどういう意味なのよ。


そういえばさあ、どうして僕はこんなにも、みゆきさんに心イカレチャッタんだろうね。

本当はさ、現実のみゆきさんに会えるなんて、どうにも無理だって思ってるのかもしれないんだ。

絶対に会うって毎日叫んでいてもね。

こころのどこかに、そんなの無理だっていう自分がいる。

それでもさ、たとえみゆきさんの幻だっていい。

僕のそばにいて欲しいと思うんだよね。


幻っていえばさあ。

幻っていうと、昔流行った映画「ゴースト・ニューヨークの幻」を思い出す。

主演のデミ・ムーアさんは、可愛かったよね。

それに、流れる音楽がライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディ」が、何とも切ない。

それにしても、このアンチェインドという言葉を聞くと、その反対のチェインドという言葉の方に心が捕らわれてしまう。

重く辛い言葉だからだ。


鉄の重たいチェーンが体を縛り付ける。

何処へも行けず、どうにも動くことが出来ない。

そんな息苦しさと身体の苦痛をイメージしてしまう。

一体に人間が人間を鎖で繋ぎとめるなんてことをしても許されるものだろうか。

許される訳はない。

とはいうものの、見えない鎖で人間を繋ぎとめることは、通俗的にまかり通っている。

精神的な側面でいうと、相手を鎖で繋ぎとめようとすることは日常にあふれかえっているんだよね。


特に「恋」なんて、その典型だ。

人が好きだっていうことを表現する場合。

「愛」と「恋」がある。

でも、それは全く違うものだ。

「愛」は、相手のことを尊重して考えることが、そのベースとなっている。

無条件であり、いつでも純粋だ。

でも、「恋」は、自分が悲しくなるぐらい自己中心的で、欲望がむき出しになっているものだ。

相手のこころと肉体が欲しいという我儘な気持ち。

つまりは、相手を鎖で繋ぎとめたいという衝動なのである。

愛する人を、重い鎖につなごうとするのだけれど、そんなの実在しない鎖ではつなぎとめることなんて出来ないのが事実だ。


それは、相思相愛だって起こりうる。

岡本太郎さんの言うように、相思相愛だって、2人に必ず温度差があるから、詰まるところは片想いなんだと本に書いておられる。

それを読んだときに、成る程と思った。


だから、自分がこんなに相手を思っているのに、相手はそれほどまでに自分を思っていないのかもしれないという不安が、どこのカップルにも存在するわけで、自分を思っていないと思えば思えるほど、相手を縛り付けようとする。


好きだという気持ちから出た束縛。

そんなことをすればするほど、相手の気持ちが離れていくのにね。

当人は、解っていない。

それとも、解っているけれども、止められない。

悲しいね。


とはいうものの、僕はそんな束縛を否定はしない。

何故かというに、僕も多分にそんな傾向を、こころの内に秘めているからだ。

かなり前に、テレビで「自分の好きなアイドルが恋愛をするのを許せるか。」というような感じのアンケートを朝のテレビ番組でやっていたけれど、最近の若い人の感覚は、僕には信じられない。

あまり詳しくは覚えていないけれど、好きなアイドルが男性と食事をするぐらいのことだったら許せるという人がいたことである。

これは僕には理解不能だ。

本当に、あなたそのアイドルが好きなのって問いたいね。


僕は、みゆきさんに恋をしている。

だから、そんなアンケートがあったら、すべてが許せないと答えるだろう。

みゆきさんが、他の男性と食事へいくのなんて、嫌に決まっている。

喫茶店でコーヒーなんてのも、行ってほしくない。

携帯の住所録に男性の名前は入れて欲しくない。

仕事でも、男性とはなるべく接触してほしくないし、どうしても仕事で付き合わなければいけないのだったら、思いっきり嫌な女を演じてほしい。

勿論ね、結婚なんてのは最悪だよ。


実際には、しないけれども、こころの中では、みゆきさんを束縛したいと思っている。

それは、現在だけでなく、過去も未来もね。

だから、真偽は考えたくないけれど、昔みゆきさんと噂のあった芸能人の顔や名前を見かけたら、殴ってやろうかと思う。


「エッヘン。どうだい、このぐらいじゃないと恋してるって言えないんだよ。若者諸君。」

その人が好きだったら、束縛したいって思うぐらいじゃなきゃダメなんだよ。

とはいうものの、客観的に見たらね、これは最悪に気持ち悪いのであります。

それは僕自身でも解っている。

だから、自制することを覚えた。


そして、そんな見えない鎖は、見えないけれども相手には重く辛いものでありまして、それは誰でも、そんな鎖なんか切ってしまって、脱獄したくなるのが普通だ。

相手のこころを欲するがゆえに起こる「別れ」。

悲しいな。

好きになればなるほど、相手に疎まれる。

それじゃ、好きになんてならない方がいいのかも。

好きなんだけれど、好きじゃない素振り。

それも疲れるな。


何にしても、人を好きになるっていう事は、どうにも辛いものでございます。

そんな時はさ、冷たいビールでも飲んで、束縛したいという気持ちを解放しましょうか。

アルコールは、それには最適だ。

「もう、どうでもいいや。」って気持ちになるもんね。


とはいうものの、これがこころの束縛じゃなくて、身体の束縛となるとアルコールでも解決できない問題となる。

僕は、人を、人間の身体を拘束したことがあるんだ。


どういうことか。

「言うのよ。言うの。あなたの悩みをあたしに打ち明けてよ。あたし、ウ・ケ・ト・メ・ルッ。ウフフ。」

妄想癖の女が、僕の話を聞いていたようだ。

マスターより聞いてくれてるのかもしれないよね。

嬉しいような、怖いような。


それは父親が生きている時の話だ。

仕事をしていると、携帯が鳴った。

父親が入院している病院からだ。

5年ぐらい前の事だろうか。

病院から電話が掛かってくるなんてことは、いい話であるわけがない。

電話に出ると、看護婦さんからの電話で、父親が夜に治療のためのチューブや器具を抜いたりするので、困っているということだった。

なのだけれど、僕の父親はボケてはいなかった。


素人の僕の考えだけれど、父親と母親の経験から推測するに、内臓の調子が悪くなって、どうも血液の中の成分に毒というか、不純物が多くなると、ボケに似た症状と言うか、幻覚を見たりするようだ。


ある時、僕が父親の様子を見に病院に行くと、ずっと天井を見ていた。

そして、僕に言った。

「あの書類取ってくれ。」

「え?書類って。」

「あの書類やがな。ほら天井にぶら下がっている。」

「これか。これは点滴やで。」

「ちゃうがな、書類やがな。」

「これやろ。これは点滴や。」

しばらくそんな問答が続いて、最後に父親が言った。

「そうか。それなら、もういい。」

父親は、自分の言う事が解ってもらえない憤りを噛みしめて、それでも怒ることもなく、自分の置かれた状況に従った。

父親は、自分に繋がれている点滴が書類に見えていたのだ。


でも、こんなことは仕方がない。

誰でもね、年を取って病気になって調子が悪いときもあるさ。

そんでもって、ずっとベッドに寝かされていたら、訳の分からなくなることもあるさ。

病院の看護婦さんの電話の内容もね、たぶん父親は訳のわからないままやっていることなんだと思う。


そして、看護婦さんが話を続ける。

「なので、お父様の身体を、夜寝る時だけ拘束させてもらってもいいですか。」

僕は、息がつまった。

拘束ということは、手足を縛り付けるということだろう。

父親にしてみれば、苦痛この上ないに違いない。


一体、人間が人間の自由を、それも身体の自由を奪っていいものだろうか。

良いわけがない。

携帯を耳に付けたまま、立ち尽くしていた。

でも、その返事を出来るのは、身内である僕しかいない。

その2年前には、母親も既に亡くなっていたし、僕は長男だ。

こんなことに決断をできるのは、僕だけだった。

仕方なく「お願いします。」と看護婦さんに告げた。

その時は、それしか考えられなかった。

僕は弱かったんだ。


ある期間治療すれば治るということもない長期の入院の場合、先生や看護婦さんに嫌われたらどうしようかという考えが僕の考えにあったのです。

もし、今の病院を追い出されたら、行くところが無い。

その時の僕には、父親を拘束するという決断しかなかった。

その日の帰路の京阪電車の中で、今頃父親は病院のベッドで拘束されているんだなと思うと、涙が流れた。

そして、これで良かったんだろうかと、自分自身に何度も問い続けた。


拘束といっても身体をひもで縛るというところまではいかない。

両手にミトンという指が自由に使えないようにする手袋のようなものを付けるのだけれど、それでも僕の頭の中では、父親がそのミトンを嫌がって一所懸命取ろうとしている映像が、くるくると回っていた。

「ごめん、お父さん。」

今思うと、そんなことをやらなければ良かったと思う。


父親が亡くなる4カ月前ぐらいから、誤嚥をするので食事は出来なかった。

ずっと点滴で栄養を取っていた。

そんなある日、僕が病院に行くと、父親が言った。

「冷たいビールが飲みたい。」

勿論、その時は先生に怒られるからアカンと言った。

でも、今はハッキリと断言できる。

もし、今あの時と同じ状況にあったなら、父親を無理にでも連れ出して、冷たいビールと美味しい料理を食べさせただろう。


誤嚥したって構わない。

それで、肺炎になって、万一死んでしまっても、今はその選択の方が正しいと思う。

だって、ビールを飲まさなくても、先生の言うとおりにしていても、やっぱり父親は死んでしまったんだもん。

それだったら、ひと時でも楽しい思いをさせて上げたかった。

実際に看護している病院の先生や看護婦さんにしてみれば、私たちの苦労をしらないで、よくそんな暴言をはけるものだと叱られるかもしれない。

それはそうだよね。


でも、やっぱり、そうしたかったな。

今でも、いろんな病院で、患者を拘束している状況がある。

何とかテクノロジーの発達で、拘束しなくてもいい薬や器具ができないものだろうかね。

冷たいビールを飲みながら、そんな未来を想像した。


ふと見ると、妄想癖の女が僕の手を握りしめて泣いていた。

怖い。

怖いよー。

話を聞いてくれるのは、有難いのかもしれないけれど、何故か背中がゾクゾクとする。

「ありがとう。」

何故だか、そう言ってしまった。

そして、静かに彼女の手を解いて、僕の手を抜いた。


すると彼女は唇を前に尖らせて言った。

「どうぞ。どうぞ。自由にチューしてください。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」

どういうことだ。

もしかして、宇宙人の神様にチューをしてもらえと命令されたのか。

もちろん、見た目は可愛いし、儚げな雰囲気は僕の好みに近い。

とはいうものの、誰が「だじゃーれ、だじゃーれ。」なんて呟いている、その口にチューができるだろうか。

しかも、目をパッチリと見開いて僕を見つめている。

びっくりしたような大きな目でもって、「だじゃーれ、だじゃーれ」の口にチューできるのは、同じ宇宙人の神様から命令された男しか無理だろう。

僕には無理である。

「ありがとう。あなたは綺麗だしチューしたいけれど、僕には奥さんがいるから止めときます。」


そう答えると、急に表情が険しくなって言った。

「奥さん?奥さんがいるの?この裏切り者ーっ。」

そう叫びながら、カウンターを、「バンバンバンバンバンバン、、、、。」と指が折れるんじゃないかというぐらいの勢いで叩いた。


「いや、始めから独身だなんて言ってないし。」

「この卑怯者ーーーっ。」

バンバンバンバンバン、、、、。


「いや、卑怯者っていわれても。」

「嫌だ、嫌だ、騙されたーーーっ。」

バンバ、バンバ、バババババーン。


あれ、ちょっと余裕が出てきたのか、またリズム刻んだよ。

「警察読んでーーーッ。救急車呼んでーーー。助けてーーー宇宙人の神様ーーーっ。」

バンバンバン、、、、、。


「ちょっと落ち着いて。でも、僕の話の中に奥さんの話でてきたでしょ。何度もさ。」

「あ?そうやった?そうやったわね。そうやったわ。あ、ゴメンね。あたしの勘違いやったわ。何か、最近疲れてたし、あたしも、そろそろお嫁さんなんて妄想してたから、、、。ゴメンね。」

急にアッケラカンと真顔になって、そう答えると、「あ、あたし向こうのテーブルに移動してもいい?」とマスターに言ったと思ったら、グラスを持って部屋の真ん中にあるテーブルに移っていった。


見るとテーブルには若い大学生ぐらいの真面目そうな男の子が1人で座っていた。

ズックの鞄にボタンダウンのブルーのシャツとチノパンを着た男の子は、吃驚したように彼女を見ていたが、やがて彼女の話に何やら合しているようである。

可哀想な男の子。

そして彼が笑った。

「ねえ、マスター。見た?見たよね。今、彼が笑ったよね。」

可哀想なのか。

良かったねなのか。

どちらにしても、怖い。


「それにしてもさ。助かったね。マスター、僕どうなることかと思ったよ。怖かったよ。」

「そうですか。少し残念そうですけれど。」

「まあ、ちょっと可愛かったからね。でも、最後のバンバンバンは、尋常じゃないほどカウンター叩いてたよね。」

彼女を見ると、男の子相手に嬉しそうに話をしている。

男の子は、それを無言で見ていた。

ふと彼女の指を見ると、人差し指が違った方向を向いている。

折れてるの?

指、折れてるの?

指、折れてるのに、気が付かないの?

指、折れてるのに、気が付かなくて、そんな嬉しそうな顔をしているの?

満面の笑みでさ。

まあ、あなたがそれで嬉しいなら、それはそれで良かったわけだけどさ。

頑張って自分を守るんだよ、男の子。

そうエールを送った。


可愛いけれど、少しばかり変わった妄想癖の女から逃れられたことの安堵感を感じながらカウンターに座っていた。

さて、帰るとしますか。

バーのドアを開けると、ひんやりとした風が僕の首筋を通り過ぎていった。

それにしても、妄想癖の女は困ったものだ。

とはいうものの、彼女だってやっぱり寂しいのだろうね。

彼女だけじゃない、僕も寂しいし、皆寂しいんだ。


最近は、携帯電話やスマートホンというのは誰でも持っているよね。

でも、その携帯電話を使う頻度というのは個人によって違う。

1日に何度も通話をする人もいるだろう。

でも、何日も携帯を持ってはいるけれども、使わないという人も結構多い筈だ。

ひょっとしたら彼女もまた、そんな1人なのかもしれない。

世界中の携帯電話の中で、いつも誰かにつながっている携帯電話って、どのくらいの割合であるのだろうか。


いつも、恋人や友人につながっている携帯電話。

まさしく、素敵な宝物のような携帯電話。

案外と少ないんじゃないだろうか。

僕の携帯電話だって、ほとんどが仕事の電話だ。

あとは、奥さんに帰るコールをするぐらいか。

友人に連絡をしようかと思う事もあるのだけれど、相手も忙しそうだし、時間も時間だしなどと、掛けるのを遠慮してしまう。


とはいうものの、、まだ僕は使っているほうかもしれない。

世の中には、持ってはいるけれども、鳴らない携帯電話があふれているのではないかと思う。

いつか掛かってくる、誰か分らない誰かを、じっと静かに待っている携帯電話。

それでも確実に減る電池を、充電器につなぐ時、その日1日何も起こらなかった安心感と、何も起こらなかった寂しさを、ひとりで噛みしめる。


それよりも更に悲惨な人もいるだろう。

「助けてくれー。」っていうこころの叫びを、誰かに聞いてもらいたくて、でも、誰に掛けていいかも分らずに、身もだえしながら、携帯電話を握りしめている人もいるに違いない。

誰に発していいか分らない「SOS」。


これが無線なら、不特定多数の人に向けて、「SOS」って発信できるのだけれど、携帯電話は、特定の相手の番号を打ち込まなきゃいけない。

そんなの誰も打ち込めないよ。

打ち込めるんだったら、苦悶しない。

そんな人には、携帯電話は、素晴らしい宝物じゃなくて、苦しい道具である。


今の携帯電話は、驚くほど多機能だ。

なら、どうだろう。

携帯電話の電話番号は関係なくて、誰でもが、誰かにつながるオープンチャンネルがあっても、いいのではないかと思う。

アマチュア無線や市民バンドのように、不特定多数に発信するボタン。

押せば誰かとつながるボタン。

それなら、どうしようもなく辛い時に、「助けてくれー。」ってSOSを発信できる。

今の時代は、そんな機能が必要なのではないかと思うね。


僕のアイフォンの待ち受けは「ちびなみちゃん」だ。

ちびなみちゃんとは、みゆきさんのイラストのキャラクターだ。

「中島みゆきアプリ」も入れてある。

まあ、このみゆきさんのアプリは、今は運用が終了してしまって使えないんだけれど、消せないで入ったままなんだけれどね。

そんでもって、勿論、勿論、みゆきさんの歌も思いっきりいれてある。


あとは、みゆきさんの持っている携帯電話と、僕の持っているアイフォンが、赤い糸でつながるだけであります。

とはいうものの、電話番号を知らない。

つながらない苦しい道具。

今のところはね。

いずれ「今、何してるの?」なんてみゆきさんの声がアイフォンから聞こえてくることが夢なのね。

ウヒヒヒー、ウヒヒヒヒー、ウッヒー。


シマッタ!!!

街中で、変な笑いをしてしまった。

カッコ悪いじゃない。

両手で顔を隠して、目の所だけを人差し指と中指で隙間を開けて、人に見られない様に駅まで小走りに走った。

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